もう一人の《天翔》?
肩にかかる程に伸ばされた燻んだ金髪。涼しげな印象の紫水晶のような色の瞳。そのかなり整った容姿の男に、辰巳は確かに見覚えがあった。
間違いなく、以前に〔エルフの憩い亭〕で出会った吟遊詩人だ。
その吟遊詩人──タランドは、顔を上げた辰巳へと目を向けると、両眼を大きく見開いた。
「き、貴様は……」
驚きの響きを多分に含んだ、タランドの声。
大きく見開かれた両の目は、ひたと辰巳を見据えて瞬きさえ忘れているかのようである。
「……手を放していただきたいのですが?」
カルセドニアが不快そうな声でタランドに告げた。
「あ、ああ……も、申しわけありません、美しい方。本来ならば、あなた様のその美しさを称える歌を一晩中でも歌い、共に愛を深めたいところなのですが……本日は残念ながらそれよりも重要なことがあります」
タランドは心底残念そうな表情を浮かべながら、カルセドニアの手を放した。そして、鋭い視線を辰巳へと向ける。
「貴様は……私のことを覚えているか?」
「ああ、忘れていないさ。カルセやエルさんに言い寄って、彼女たちに不愉快な思いをさせた奴だからな」
まるで敵を見るようなタランドの視線。だが、辰巳もそれに劣らないぐらい険しい目をタランドへと向けていた。
辰巳にとってカルセドニアは最愛の女性である。そしてエルもまた、カルセドニアとは別の意味で大切な存在なのである。
エルは辰巳の故郷である日本をよく知る、辰巳以外の唯一の「日本人」である。そんな彼女は、異世界で暮らす辰巳にとってカルセドニアとは違う心の支えの一つだ。
そんなカルセドニアやエルに無礼を働いたこのタランドという吟遊詩人を、辰巳が快く思っているはずがない。
しかも、今の辰巳は多少とはいえ酒に酔っている。普段の彼らしからぬ過激な反応はそのせいもあるだろう。
「私のことを覚えているのなら、話は早い。以前に貴様と出会った時、貴様が何をしたか忘れてはいないだろうな?」
「あんたを素っ裸に剥いて、店の外の通りに放り出したことなら謝らないぞ? あれはあんたが悪いんだ」
辰巳の視線とタランドの視線がぶつかり合い、見えない火花を散らしまくる。
互いに一歩も引かない静かな戦い。
カルセドニアとジョルト、そしてイエリマオや宿の店主が黙って二人を見守る中、誰もが予想もしなかった結末が訪れることになる。
なぜなら。
それまで険しい視線で辰巳を見つめていたタランドが、いきなりその場で片膝をつき、深々と頭を垂れたのだから。
「……あえて、こう呼ばせていただこう……いや、呼ばせていただき……いえ、呼ばせてください…………師匠と!」
「………………………………………………………………は?」
あまりにも予想外のタランドの台詞に、辰巳の頭が真っ白になる。
「あの日……貴様と……いえ、あなた様と初めて出会ったあの日、あなた様が演奏したあの音楽が私の魂を揺さぶってなりません……」
それまでの険しい表情から一転、恍惚とした表情を浮かべて熱く語るタランド。
それは彼が女性に言い寄る時よりも、更にうっとりとした顔つきで、吐き出す溜め息まで熱く感じられるほど。
「無論、あの日師匠が私の前で演奏した曲は、私なりに手を加えたものの何とか演奏できるようになりました。しかし、師匠はまだ他にも御存知のはずだ! あの……あの、他に類を見ない全く新しい音楽……あれを私はもっと知りたい! もっともっとこの手で奏でたい! そしてやがては、あの音楽を世の中に広めていきたいのですっ!! お願いします、師匠っ!! 私をあなた様の弟子にっ!! そして、あの音楽をもっと私に教えてくださいっ!!」
片膝をつき、両の拳を床につけて深々と頭を下げるその姿勢。それは日本で言えば土下座に相当する姿勢である。
以前に会ったタランドという吟遊詩人は、相当矜持の高い人物だった気がする。その彼が人前でここまでするのだから、よほど以前に辰巳が演奏した日本の音楽に感じ入ったのだろう。
「もちろん、弟子にしていただく以上、何でもします! 師匠の家に住み込み、どんな雑用でもやりますので、何でも命じてください!」
「い、いや、住み込みとか、本気で止めて欲しいんだけど……」
辰巳とカルセドニアが暮らすあの家は、二人だけの空間である。
時に友人たちが遊びに訪れたり、一日二日泊まっていくぐらいは構わないが、そこに第三者を住まわせるつもりは辰巳にはない。
ちなみに、あの家にはブラウニーという存在もいるが、あの精霊については辰巳もカルセドニアも既に家族の一員として認識している。
改めてタランドを見れば、彼は至って真剣のようだ。片膝ついた姿勢のまま、真摯な瞳で辰巳を見上げている。
──こんなことなら、因縁を吹っかけられた方がまだマシだ。それなら、また全裸に剥いて外に放り出せばいいだけだし。
思わず、辰巳は胸元の聖印を握り締め、サヴァイヴ神に救いを求めるように宙を仰いだ。
案外、彼も神官としての自覚が出てきたのかも知れない。
「……ともかく、俺は弟子なんか取るつもりはないよ」
「そ、そこを何とか! なにとぞ……なにとぞ師匠の弟子にっ!! も、もちろん師匠がお望みとあれば、以前のように師匠の不思議な魔法でいつでも全裸にされる覚悟はできております! よろしければ、今この場であの時にように一瞬で私を……」
「そ、それはあんたが悪かったからだって言っただろうっ!!」
人聞きの悪いことを言わないで欲しい。それではまるで、自分が誰彼構わず脱がしまくっているように聞こえるじゃないか。
「そうですっ!! 旦那様が脱がすのは、妻である私だけですっ!!」
「か、カルセっ!! カルセも変なところで対抗しないっ!!」
カルセドニアが変な対抗心を燃やして口走った瞬間、店内にいた他の客たちから一斉におおおっ、という声が湧き上がった。同時に、あちこちでひそひそとした話し声も。
何を言われているのかすごく気になる。だが、今はそれどころではない。
「……そもそも、俺は神官や魔獣狩りであって、吟遊詩人や楽師じゃないんだ。吟遊詩人の弟子なんて取れないんだよ」
辰巳は溜め息を吐きながらそう告げた。
「し、師匠の本業は神官や魔獣狩りだったのですか……?」
再び見開かれるタランドの両の瞳。どうやら、この吟遊詩人は辰巳を同業者だと思い込んでいたらしい。
と、そのタランドの目が何気なく辰巳の右手へと注がれる。そして、そこにある物──『アマリリス』──を見てその口元がきゅっと釣り上がった。
「では、私を弟子にしてくだされば、魔獣狩りとして役に立つ情報を提供いたしましょう」
「魔獣狩りとして役立つ情報……?」
思わず辰巳がそう口にすると、タランドは大きく頷いた。そして、それまでよりも声のトーンを落として話し出す。
「そうですな、他ならぬ師匠が相手ですから、少しだけお教えしましょう。先程私が歌っていた歌、あれが今噂の飛竜殺しの《天翔》殿の活躍を描いた歌なのは、師匠にもお判りのはず」
ここで一旦言葉を止めたタランドは、辰巳だけではなくカルセドニアやジョルト、そしてイエリマオの顔を見回した。
「その《天翔》殿なのですが……今、この宿場町にご逗留しているのです。実は私、とあることから彼と友誼を結びまして。師匠も魔獣狩りとして《天翔》殿には興味がおありなのでは? 何せそのように右手に鎖を巻き付けているわけですから。いかがです? 私を弟子にしてくだされば、噂の《天翔》殿と直に会って話ができれる場をご提供いたしますぞ?」
と、自信満々の顔をするタランド。
一方、辰巳たち四人は、思わず互いにその顔を見合わせた。
今、辰巳たち四人にタランドを加えた一行は、宿場町の中を歩いていた。
吟遊詩人であるタランドによれば、どうやらこの宿場町には辰巳以外に《天翔》を名乗る人物がいるらしい。
カルセドニアの《聖女》やモルガーナイクの《自由騎士》のような単なる二つ名ならば、偶然同じ二つ名を有することになった他人、という可能性は充分考えられる。
だが、辰巳の《天翔》は違う。《天翔》は国王より正式に贈られた称号なので、辰巳以外が名乗ることは許されない。そして、正式に《天翔》の称号を受けた辰巳には、偽者や騙りを処罰する正当な権利をも有するのである。
しかし、辰巳へ称号として贈られる以前より《天翔》の二つ名を得ていた可能性もなくはないので、今の時点ではまだ明確に「黒」だとは言い切れない。
そこでジョルトの意見により、実際にもう一人の《天翔》に会ってみようということになったのだ。
もう一人の《天翔》との会談の場をセッティングする代りに、タランドへは正式な弟子にはしないが、辰巳の知る日本の音楽をもう少し教えることにした。
タランドもその条件を受け入れ、こうして辰巳たちをもう一人の《天翔》の元へと案内しているのである。
「ささ、こちらです師匠、そして奥様とご友人方。こちらの宿に《天翔》殿はご宿泊されております。いやしかし、こちらの美しき方が師匠の奥様だったとは……さすがは師匠、女性の趣味も素晴らしいですな!」
「だから、師匠じゃないってば……」
「いえいえ、例え直弟子ではなくとも、私にとってあなた様は師匠以外の何者でもありません! 今後も師匠として敬らせていただく所存です! もちろん、以後は二度と奥様に無礼なことは致しません!」
まあ、今後カルセドニアに無礼な行いをしないと言うのならば、師匠呼ばわりされるぐらいは我慢するかと心の中で考える辰巳であった。
「ふーん、ここが噂の《天翔》が泊まっている宿屋かぁ……」
「……ねえ、ジョルトくん。ここって、思っていたよりもかなり程度の低い宿屋じゃないですか?」
「あ、イエリマオ先生もそう思った? 実は俺もなんだよねー」
一方、ジョルトとイエリマオはタランドが指し示した宿屋を眺めていた。
その宿屋は彼らの言葉通り、彼らが泊まっている宿屋と比べるとかなり格下の印象を受ける。
ジョルトとイエリマオとしては、《天翔》を騙る何者かはもっと程度が上の宿屋に泊まっているとばかり思っていたのだ。
「いや、何となくだけどさ? 『うわはははは、俺様が今噂の飛竜殺しの《天翔》のタツミ様だっ!! 俺様に逆らったらどうなるか分かっているだろうな、ああン?』って感じで周囲に威張り散らしているような奴だとばかり思っていたんだけど……」
「ジョルトくんの言うような分かりやすい偽者ならば、こんな安宿には泊まっていないでしょうねぇ」
ジョルトとイエリマオが、目の前の宿屋を見上げながら首を傾げている。
その宿の店構えから、この宿を利用するのはそれほど裕福な者ではないだろうことは辰巳にも想像できた。
《天翔》を騙る者が確かにジョルトの言うような者ならば、あれこれと理由をつけてもっといい宿を格安、もしくは無料で利用するのではないか、と辰巳にも思える。
「では、私が中へ入って《天翔》殿と話をしてきますので、申しわけありませんがしばらくお待ちいただきたい」
そう辰巳たちに言い残したタランドは、一人で目の前の宿の中へと入って行った。
宿の中へとタランドが消えるのを見送った辰巳は、無意識のうちに腰に佩いた愛剣に手をかけていた。
一応は話し合いのために来たので、鎧までは装着していない。それでも念のために剣だけは装備してきたのだ。そして、必要以上に目立つ『アマリリス』には、現在は布が巻き付けてある。
「旦那様? 何やら緊張されているようですが、どうかしましたか?」
剣にかけた辰巳の手に己の手を重ねながら、カルセドニアがこくんと首をかしげる。
カルセドニアにそう尋ねられて、辰巳はここまで来る間にずっと考えていたことをカルセドニアに話した。
もしもタランドの言っていた者が本当に《天翔》を騙っているならば、辰巳はその者を罰せねばならない。
称号の詐称がどの程度の罪になるのかをジョルトやイエリマオに尋ねたところ、明確に定められた法律は存在しないという。これまでに称号を授かった者はそれほど多くないからだ。
だが、正式な称号の詐称は貴族を詐称するのに等しいらしい。貴族の詐称は重罪であるため、最悪の場合は死罪さえも適用されかねない。
そんな重大な決断が、辰巳の判断一つににかかっているのだ。
────と、辰巳は思っていたのだが。
「あのね? タツミがこの場で偽物を断罪する必要は全くないよ? もしも本当に《天翔》を詐称していたとしても、捕えた後でこの辺りの領主にでも突き出せばいいんだ。そうすれば、後はその領主がなんとでもしてくれるさ」
「ジョルトさんの言う通りです。確かに旦那様は称号を騙られた本人ですから、例えこの場で偽者を斬り捨てても罪には問われません。ですが、必ずしも旦那様の手で偽者を裁く必要はないんですよ?」
ジョルトとカルセドニアに言われて、辰巳は自身が思い違いをしていることにようやく気づいた。
彼らの言う通り、辰巳には偽者を裁く権利がある。だが、それは必ずしも義務ではないのだ。
「そ、そうか……俺はてっきり、自分の偽者は自分で何とかしなくちゃいけないんだってずっと思い込んでいたよ……」
がくりと肩を落とし、盛大に安堵の溜め息を吐き出す辰巳。
彼の顔にようやく笑顔が戻り、カルセドニアもジョルトも、そしてイエリマオも安心したようだ。
そうやって彼らがようやく人心地つけた時、宿の中からタランドが戻ってきた。
「師匠、《天翔》殿がお会いしてくださるそうです」
タランドに無言で頷き、辰巳は再びカルセドニアたちを見回した。
そして、妻たちを安心させるように頷いて見せると、タランドの後に続いて宿屋の中へと足を踏み入れた。
宿屋の中は薄暗い。
辰巳たちが泊まっている宿屋は、蝋燭やランプをたくさん使用して店内を明るくしていた。
だが、ここは随分と暗い。おそらくは、それだけ儲かっていないからだろう。一夜の照明代とて、決し安くはないのだから。
宿の中は様々な匂いと音が充満していた。
匂いは安物の酒や料理、そして店内のあちこちに見かけられる、娼婦が使う安っぽい化粧品の匂い。
音は客たちの話し声や歌声、時には娼婦たちの甲高い笑い声。中には何かの賭博でもしているのか、どっと歓声が上がる一角もある。
どうやら主な客層は魔獣狩りや傭兵たちのようで、見るからにガラの悪そうな連中が一階の酒場兼食堂のあちこちで少人数ずつの集団を形成している。
彼らは宿に入ってきた辰巳たちに、胡乱な視線を投げかける。だが、彼らの中にカルセドニアの姿を見つけると、たちまち下卑た視線へと変化した。
中には口笛を吹いたり、明白に下品な言葉を投げかけてくる者もいるが、そんなものは一切無視。
だが、辰巳は心の中で店の中にジョルトたちを連れて来なくて良かった、とこっそりと胸を撫で下ろしていた。
一応、荒事になるかもしれない以上、護衛対象である彼らを連れて店に入ることは憚られた。念のため、ジョルトとイエリマオには、店から少し離れた人通りの多い所で待機してもらっている。
もしかすると、この宿場町の衛兵の協力が必要となるかもしれない。そのような時は、国の上級官吏であるイエリマオの肩書きが役に立つだろう。
そう考えながら、辰巳は客たちの視線からカルセドニアを守りつつ、タランドの後に続いて店の中を進む。
やがて、タランドの進む先に、一人の男性が静かに酒を飲んでいるのが見えてくる。
歳の頃は四十代ほどだろうか。上背のあるがっしりとした身体は、座って酒を飲んでいるだけで周囲に独特の威圧感を振り撒いている。
髪と眼の色は濃い茶色。だが、薄暗い店の中では、その色は辰巳と同じ漆黒にも見える。
鍛え込まれた鋼の如き肉体を、見たこともない素材の鎧で包んでいる。おそらくは何らかの魔獣の素材を利用した鎧なのだろう。
鮮やかでどこか不思議な光沢を持つ緑色のその鎧は、薄暗い店内でもその存在をしっかりと主張していた。
「……あの人が例の《天翔》か……?」
「はい、師匠。あの方こそが、飛竜殺しと名高い《天翔》殿です」
まるで我がことのように、タランドが自慢気に解説する。
と、タランドの声が耳に入ったのか、その男は酒の入ったジョッキをテーブルに置きながら、顔を巡らせてじろりとタランドと辰巳たちを睨め付けた。
「同志タランドよ。何度も言っているが、某が殺したのは飛竜ではないし、二つ名も《テンショウ》ではない」
不意に男が立ち上がる。
その身長はかなり高く、間違いなくモルガーナイクよりも高く、ジャドックさえ凌駕しそうだ。
そして、その手の中にはじゃらりと音を立てる鎖が存在した。子供の手首ほどもありそうな太い鎖を、その男はじゃりりりっと音を立てながら何度も扱き立てる。
「某の二つ名は《テンショウ》ではなく《テンホウ》! 殺した竜も飛竜ではなく刀竜! そして某の名前は────」
かっと男の眼が鋭い光を放った──ように、辰巳には感じられた。
「────天下無双の豪落鉄鎖鞭の使い手にして刀竜を倒せし者! 《天崩》のターツミルとは某のことなりっ!!」
その瞬間、辰巳とカルセドニアが言葉を失ったのは言うまでもない。