再会
がたり、という扉が開閉する音がして、カルセドニアは顔を輝かせた。そして、慌てた様子で玄関へと駆けていく。
玄関に到達した彼女の瞳は、予想通りの人物がそこにいることを確かに映す。
「お帰りなさいませ、旦那様っ!!」
「うん。ただいま、カルセ」
辰巳はにこやかに笑うと、駆け寄ってきた妻をしっかりと抱き締めた。
「ごめん。例の試練、だめだったよ」
居間に腰を落ち着け、カルセドニアが淹れたお茶を飲みながら、辰巳は試練の結果を彼女に告げた。
「そうですか……」
やはり予想していた通り、辰巳たちは斑山猫を狩ることに失敗したようだ。
そのこと自体は予め想像できていたことであり、カルセドニアも辰巳が狩りに失敗したと知っても落胆することはない。
だが、カルセドニアは眉を寄せて首を傾げる。
「いやぁ、魔獣って凄いなぁ。あんな魔獣を狩ることができるカルセや先輩の魔獣狩りたちって、本当に凄いよなぁ」
辰巳はにこやかに会話する。
表面上はいつもの辰巳だ。だが、カルセドニアには──辰巳の妻である彼女には、彼が仮面を被っていることにすぐに気づいた。
だから。
だから、カルセドニアは椅子から立ち上がって辰巳に近づくと、そのまま彼を抱き締めた。
丁度、辰巳の顔がカルセドニアの柔らかな胸に埋まるように。
「え、え……?」
「無理をしなくてもいいんですよ?」
カルセドニアの弾力に豊んだ柔らかな胸──あえて表現するならやはり「ぽよんぽよん」だろうか──で溺死しそうになりながらも、辰巳は頭上から降ってくる悲しみを帯びた声に思わず身体を硬直させた。
「旦那様が……いえ、ご主人様が今回の試練に失敗することは、私には分かっていました。ですから、無理に笑うことはないのです」
辰巳が無理に笑っていたのは、もちろんカルセドニアに心配をかけないためだ。
だが辰巳の下手な芝居など、彼の妻には通用しない。
「私自身も経験しましたから……ご主人様が感じた恐怖は分かるつもりです」
カルセドニアに抱き締められた辰巳の身体が、ぴくりと震える。彼の心の中に、斑山猫と対峙した時の恐怖心が甦ったのだろう。
「いいじゃないですか。別に魔祓い師になれなくても。前にも言いましたけど、ご主人様一人ぐらい……いえ、私とご主人様の間に何人子供ができたとしても、全て私が養ってみせます」
辰巳からカルセドニアの顔は見えないが、きっと彼女はその二つ名の《聖女》のような慈愛の笑みを浮かべているに違いない。
そして、その《聖女》の笑みは、彼女の夫にのみ向けられているのだ。
魔獣に感じた恐怖と妻の甘い囁きに、辰巳の心が激しく揺れる。
魔獣狩りとしての自信、そして、魔祓い師になるという目標が崩れかけている今の辰巳には、カルセドニアのその言葉はまさに「悪魔の囁き」に等しい。
このまま彼女の言葉に甘えてもいいんじゃないか。
そもそも自分をこちらの世界に呼んだのは彼女の勝手なのだ。ならば、彼女の言葉通りにしたって自分は悪くはない。
そんな後向きな考えが、辰巳の心の中にいくつも湧き上がる。
彼女の言葉に甘え、彼女に養ってもらいながら、そして、彼女のこの柔らかな身体を思うがままに堪能して暮らす。
そんな暮らしでも、彼女はきっと幸せだと言ってくれるに違いない。辰巳と共にいるだけで満ち足りている、と言ってくれるに違いない。
ぐらぐらと揺れる辰巳の心は、差し伸べられた甘い誘いにふらふらと傾いていく。
突然、辰巳の手がカルセドニアの胸を掴むと、そのままふにふにと揉みしだいた。
「ひょ、ひょええええええっ!?」
あまりに突然のことに、カルセドニアは反射的に辰巳を突き飛ばし、両手で胸を抱き締める。
呆然とした彼女が辰巳を見れば、そこには悪戯に成功した子供のような表情の彼がいた。
「だめだよ、チーコ。そんなに俺を甘やかさないでくれ」
「ご、ご主人様……?」
「だって、チーコみたいな美人にそんなことを言われたら、大抵の男はほいほいと従っちゃうぞ? かく言う俺も、もう少しでそうなるところだったし。でも────」
辰巳の顔から笑みが消え、真剣な表情を浮かべる。だが、そこにはまだまだ影が貼り付いている。
「────俺だって前にも言ったけど、ヒモになるつもりはないんだよ」
影は完全に払拭されていないが、それでも辰巳の瞳には僅かに光が戻っていた。
一度崩れかけた自信はまだまだ取り戻してはいない。しかし、カルセドニアのお陰で前を向くことはできるようにはなった。
そもそも、辰巳が魔祓い師になろうとした理由は、目の前のこの女性を守れるようになりたいがためだ。
それなのに、その守るべき女性に養ってもらうなど本末転倒も甚だしい。
辰巳は本来の目標の根本的な理由を思い出して、ほんの少しだけだが気持ちを上向きにすることができたのだ。
「ご主人様……」
辰巳の様子が変わったのを見て、カルセドニアもほっと息を吐く。
と同時に、ちょっと不満そうな顔を辰巳に向けた。
「でも……少し残念です。ご主人様と……そ、その……毎日……ちょっとふしだらに暮らすのも……わ、悪くないと思うのですが……」
「だからさっ!! そういう人を堕落させるようなことを言うのは止めようよっ!!」
頬を染めてもじもじとしながら、何かに期待するようにちらちらと上目使いに辰巳を見るカルセドニアに、彼女の夫は疲れたように突っ込みを入れた。
何となく家に居づらくなった辰巳は、夕暮れに赤く染まるレバンティスの街を歩いていた。
なぜ、彼が自分の家に居づらくなったのか。それは彼の愛する妻に原因があった。
ほんの少しだけ自信を取り戻した辰巳。とはいえ、再びあの魔獣と対峙を決意するまでにはまだまだ至らず、内心ではこれからどうしようかと途方に暮れている。
そんな辰巳へ、カルセドニアはある種の期待に満ちた目を向けてくる。
彼らは正式に結婚したばかりだし、更には斑山猫を狩るために辰巳は数日家を留守にしていた。
当然、帰ってきた辰巳にカルセドニアが「期待」するのは無理もないことではある。
だが、辰巳の方はそうでもなかったのだ。
確かにカルセドニアとの情事は、嫌なことを一時とはいえ忘れさせてくれるだろう。
あの柔らかくも熱い身体と肌を交えることは、辰巳にとっても嬉しくも楽しい一時である。
しかし、今の胸にもやもやとしたものを抱えた状態で、妻と肌を交える気にはなれなかったのだ。
こんな心境で彼女を抱くのは、あまりにも彼女に失礼なような気がしたから。
そんな夫の気持ちに気づいていないのか、それとも気づいていてそれでもあえて誘っているのか。妻が彼を見る視線は熱く潤みを帯びていた。
このままでは済し崩し的にカルセドニアを抱いてしまいそうで、辰巳は頭を冷やすために外に出たのだ。
残念そうな視線を送るカルセドニアに、盛大に後ろ髪を引かれながらも外に出た辰巳。
しかし、何かの目的があっての外出ではない。そのため、宛てもなく夕暮れの街を歩いているのだった。
どこかの酒場にでも入って、少し飲んでから帰ろうか。
そんなことを考えていた時、彼の傍らをオークに牽かれた馬車ならぬ猪車が通りかかる。
荷台には巨大な狼に似た魔獣らしき死体。どうやら、どこかの魔獣狩りが仕留めた獲物を運んでいる最中のようだ。
御者台には二十代ほどの男性。他に猪車に乗っている者はおらず、この男性は一人で狼のような魔獣を仕留めたのだろう。
狼のようなその魔獣は、斑山猫よりも確実に上位に位置する魔獣と思われる。そんな魔獣を一人で狩るとは、今の辰巳からするととても信じられない。
一体どんな人物が一人でこの魔獣を狩ったのかと、辰巳は御者台の男に注目した。
「あ、あれ……?」
短めに刈り込んだ赤い髪と赤茶色の瞳。そして何より、その整った涼しげな容貌に辰巳は見覚えがあった。
そして御者台の男もまた、辰巳の発した声が聞こえたのか、彼の方へと振り向いた。
男が軽く目を見開く。そして、すぐに親しげな笑みを浮かべる。
「タツミ……? タツミか?」
「も、モルガー……さん?」
それは以前にサヴァイヴ神殿の神官戦士であり、カルセドニアと組んで魔払い師としても活躍していた《自由騎士》モルガーナイク・タイコールスその人であった。
辰巳とモルガーナイクは、手にした木製の杯を打ち合わせた。
ここんという小さな響きは、その酒場を支配する喧騒に飲み込まれて消えていく。
モルガーナイクは辰巳を彼が行きつけの酒場へと誘い、辰巳もまたそれに応じた。
そうして辰巳がモルガーナイクに連れて来られたのは、〔エルフの憩い亭〕と同じような魔獣狩りたちが利用する酒場だった。
モルガーナイクは猪車を店の前に止め、店主らしき男性とあれこれ話して猪車を彼に託した後、辰巳の方へと戻ってきた。
そして、テーブルの一つを占拠すると互いの杯を打ち合わせたのだ。
「久しぶりですね。もう……一年ですか」
「そうだな。同じ街にいるというのに、なかなか顔を合わせないものだな」
「この街、広いですからね」
「まあ、オレの場合は魔獣を狩るために度々遠出することもあるからな」
二人は笑い合うと、再び杯をぶつける。
「そうだ。遅くなったが、おめでとう。カルセと結婚したそうだな。オレは新年祭の時は狩りのためにこの街から離れていたが、噂は聞いているぞ」
「ありがとうございます」
「ところで、今日は一人なのか? カルセはどうした? 噂によると、君たちはいつも一緒だと聞いていたのだが?」
「え、えっと……そ、その……ははは」
まさか、「新妻が妖しい目で見るので家を飛び出して来た」とは言えない辰巳である。
それに加えて、自分とカルセドニアについてどんな噂が流れているのやら。そのことも辰巳を憂鬱にさせた。
「もしかして、結婚早々に喧嘩でもしたのか?」
「い、いえ、そうじゃないんですけど……」
歯切れの悪い辰巳の言葉に、モルガーナイクは何かあったのだろうと悟る。
「どうだ? ここでこうして再会したのも何かの縁だろう。悩んでいることがあれば、聞いてやることぐらいはできるぞ? タツミも知っているだろうが、これでも元神官だからな」
酒を喉に流し込みながら、モルガーナイクが少し砕けた調子で辰巳に勧める。
辰巳もモルガーナイクも、確かに一度は刃を交えた間柄ではある。だが、それは〈魔〉によって引き起こされたものであり、別段相手を憎んでいたわけではない。
モルガーナイクにしてみれば、辰巳は想い人を横から掻っさらった人物だが、あれからもう一年が経過している。今の彼の中では、辰巳に対してもカルセドニアに対しても、すっぱりと割り切ることができていた。
だから、モルガーナイクが辰巳にそう切り出したのも完全な親切心からだ。
辰巳からしても、モルガーナイクは魔獣狩りとして、そして魔祓い師としても先輩だ。その先輩に悩みを相談するのは悪いことではないように思える。
それにカルセドニアには話せなくても、同性である先輩には話せることだってあるのだ。
斑山猫から受けた恐怖が大きすぎて、いまだに怖じ気づいているなどと、どうして最愛の妻に話せるだろう。辰巳にだって、男としての矜持はあるのだから。
そう思い至った辰巳は、斑山猫の狩りに失敗した経緯をぽつりぽつりとモルガーナイクに話していった。