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過去

 その少年の姿を初めて見たのは、一体何歳の時だっただろう。

 ようやく物心がつき始めた頃だから三歳か四歳、それぐらいだったのではないだろうか。

 ある日の夜に見た夢の中で、自分よりも少し年上と覚しきその少年は、きらきら輝く黒曜石のような黒い瞳で自分を見ていた。

『さあ、チーコ。ごはんだよー』

 にっこりと微笑みながら、その少年は白い匙のようなもので、小さな穀物らしきものを自分へと差し出した。

──え、なに? わたしにこんなものをたべろというの?

 水でふやかされ、少しどろりとした穀物。どう見ても美味しそうには見えない。

 だけど夢の中の自分は、それを至上の喜びとばかりに嬉しがってがつがつと食べていく。

 夢なので味までは分からないが、それを食べた自分がすごく満たされた思いを抱いたのが、彼女にははっきりと感じ取れた。

 そして、穀物を食べた自分を見て、黒い瞳の少年もまた幸せそうに微笑んでいた。

 何となく、少年のその幸せそうな顔をもっと見ていたくなって。彼女は差し出される穀物をお腹が一杯になるまで食べ続けた。




 数多く集まった信者たちを前にして、カルセドニアは壇上で熱心に神の言葉を代弁する。

 教典などに記されている戒律や神の言葉。それらを信者に語って聞かせるのは、神に仕える神官たちの大切な仕事の一つである。

 この世界──カルセドニアが辰巳を呼び寄せた世界に暮らす人々の大半は、文字を書くことも読むこともできない。そのため、神の教えを伝えるためには、こうして神官が口頭で語って聞かせなくてはならないのだ。

 もちろん、この説法を行うのはカルセドニアだけではなく、持ち回りで他の神官や司祭たちも行う。だが、彼女が説法を行う時は、今日のように常に多くの信者たちで神殿の礼拝堂は埋め尽くされる。

 彼らの目的は、神官が語るありがたい神の言葉を聞くことである。だが、それ以外の目的でこうして礼拝堂へと足を運ぶ者もいた。

 礼拝堂の一番奥。礼拝堂全体が見渡せるように少し高くなった演説壇で、厳かな雰囲気で神の言葉を代弁する《聖女》の姿を一目見ようと、彼女が説法の当番の時は常以上の信者たちが集まるのだ。

 だが、いつものように《聖女》の姿を一目見ようと集まった信者たちは、軽い困惑を覚えていた。

 普段ならば厳粛な雰囲気を纏いながら、淡々と神の言葉を代弁する《聖女》。だが、今日はちょっと様子が違っていた。




 それからも、時々その少年の夢を見た。

 何度もその夢を見ている内に、夢の中の自分がすごく小さな存在だと気づいた。おまけに、どうも自分は人間でさえないようだった。

 少年の掌に乗せられ、彼の目の高さまで持ち上げられる。そして、彼が差し出した何かの種のようなものを、自分は嬉しそうにその嘴で啄む。

 そう。夢の中の自分はどうやら小鳥らしい。銀に近い灰色の羽毛で、頭の上にひょこんと何かが飛び出しているらしく、頭をふるとそれがふらふらと揺れる感覚がある。

 少年が差し出した種を器用に嘴で割り、種の中味だけを食べる。そして、自分は「ひょえー」と嬉しそうな声を上げるのだ。

「美味しかった、チーコ?」

 少年が笑いながら声をかけてくる。「チーコ」というのが夢の中の自分の名前らしい。

 少年はいつも一緒にいてくれた。

 少年の肩の上で。少年の手の上で。少年の頭の上で。夢の中の自分は常に少年の傍にいた。

 実際の自分が年を重ねていくにつれ、時々夢の中で出会う少年もまた、年を重ねていくようだった。

 そしていつしか。彼女は夢の中の少年に恋心を抱くようになる。

 いつも傍にいてくれて、心の中を温かいもので満たしてくれる少年に、彼女は徐々に惹かれていったのだ。

 そして時は流れて、実際の彼女の年齢が十歳に近くなった時。突然、彼女は悟った。

 時々見る少年の夢。あれが夢などではなく、かつての自分が体験した過去であることを。自分は夢という形で、過去の自分を追体験しているのだ、ということを。

 それを契機に一気に甦る過去の記憶。中でも、天寿を迎える直前の自分を、この世の終わりのような顔でじっと見つめる少年──自分の飼い主であり自分の主人である少年の顔が、激しく彼女の心を揺さぶった。




 いつものように壇上から説法をするカルセドニア。だが、今日はなぜか様子がおかしかった。

 いつもなら凛とした佇まいを崩すことなく、《聖女》は流れる水のように絶え間なく神の言葉を代弁する。その美しくも凛々しい姿に、彼女自身の信者たちは熱い眼差しを注ぐのだが、今日は困惑の視線を向けていた。

 普段は表情を変えることもなく、淡い微笑みを浮かべたままとくとくと説法をするはずの彼女が、今日はどこか熱に浮かされたような妙に潤んだ瞳に陶然とした光を浮かべ、途切れ途切れに神の言葉を代弁していた。そして時折その愛らしい唇から零れ出るのは、胸に秘めた熱い想いが宿るような艶めかしい溜め息だった。

 そんないつもと違う《聖女》の姿を、信者や同僚たちは首を傾げながら不思議そうに見つめる。

 中には今日の彼女が纏う妙な色気に、いつも以上に心を奪われる信者もいたりしたが。

 そんな視線がいくつも注がれる中、カルセドニアの心の中は、文字通り夢にまで見、そして遂に再会した一人の少年のことで完全に埋め尽くされていた。




 彼女の心に湧き上がったのは、二つの思いだった。何とかしてもう一度あの少年──ご主人様と再会したいという思いと、自分という存在を失うことで彼が抱えることになる大きな絶望に対する憂い。

 だから、彼女は決意した。何とかして魔法を覚え、それを用いて彼の元へ舞い戻ろうと。

 今の彼女のいる世界には、魔法という技術が存在する。それを用いれば、彼の元へと行けるのではないか、と幼い頃の彼女は安直に考えたのだ。

 この時の彼女はまだ知らない。世界を越える魔法は確かに存在するが、すでに忘れられて久しく扱いも極めて難しい伝説級の大魔法であることを。

 それを知らない幼い彼女は、まず両親に相談した。

 これまでも、夢の中の少年のことは両親に話していた。

 彼女の両親は、夢の中の少年に淡い恋心を抱く娘を、最初こそは微笑ましげに見守っていた。だが、いつまで経っても彼女が夢の中の少年のことばかり話すので、次第に気味悪く感じ始めていたのだ。

 そこへ、突然その娘が魔法を覚えたいと言い出した。しかもその理由を聞けば、またもや夢の中の少年のためだという。

 両親はとうとう娘が気がふれてしまったと思い、彼らは娘を捨てることを決意する。

 彼女とその両親が暮らしていたのは、ラルゴフィーリ王国の中でも辺境に位置する寒村であった。

 そんな辺境の小さな村でおかしな噂を立てられてしまえば、娘だけではなく家族全体が村から汚いものを見る目で見られかねない。

 だから両親は、娘に夢の話は外でするなと言い含めておいた。それでも幼い子供でしかなかったその頃の彼女は、その言いつけを守らずに時々他の村人にも夢の話を聞かせていたようだった。

 徐々に余所余所しくなる村人たちの態度。それらがあって、両親は娘を捨てることにしたのだ。

 さすがに愛娘を奴隷などに売り飛ばすことはしのびなく、偶々通りかかった旅の司祭に娘を預けることにした。

 司祭になけなしの蓄えであった金銭を提供し、どこか他の町で孤児院のような所に引き取ってもらえるように頼み込む。娘に対しては、こんな田舎の村では魔法の勉強などできるわけがないから、もっと大きな町で魔法の勉強ができるように旅の司祭様に頼んだのだともっともらしいことを言って。

 そして、彼女は旅の司祭に手を引かれ、誰も見送りのないままに生まれ故郷の村を後にした。

 その道中、司祭は彼女とはまともに口もきかなかった。彼女の両親から彼女が気がふれていると聞いていたので、まともに相手をする必要もないと考えていたのだ。

 最低限の食事と休憩だけを彼女に与えて、司祭は旅を続けた。そうして辿り着いたのが、ラルゴフィーリ王国の王都、レバンティスの街である。

 この司祭は、レバンティスの街のサヴァイヴ神殿に所属する者で、彼はとある町で執り行われたその村の有力者の息子の結婚式の立会人として、王都レバンティスから呼ばれたのだ。

 地方の有力者の結婚式などでは、その者の財力や権力などを見せつける手段として、今回のように中央の神殿からわざわざ司祭を呼び寄せ結婚式の立会人を頼むことがある。

 彼の今回の旅もまた、そんな地方の有力者からの依頼であった。その帰り道で、彼は彼女を託されたのだ。

 レバンティスの街に到着した司祭は、そのまま幼い彼女を小間使いとして教会に放り込んだ。

 彼女の両親から託された金銭には、彼女の食費や宿代などの意味も含まれていた。だが、道中でそれを最低限しか使わなかった司祭の手元には、それなりの額の金銭が残ることになった。

 そのことにこっそりとほくそ笑みながら、司祭の記憶から彼女のことが消えるまでそれほどの時間は必要なかった。

 教会には彼女と同じような境遇の子供たち──何らかの理由で家族を失った者や、家族に捨てられた者がいた。そんな子供たちの中に紛れ込んだ彼女のことなど、司祭には何の興味もなかったのだ。

 だが、このことが結果的には彼女には幸いとなった。

 なぜなら、神殿の小間使いとして働いていた彼女は、偶然にもこの神殿の最高司祭の目に留まり、彼女が秘めたその希有なる魔法の才能を最高司祭が見抜いたからだ。




「……そんなことが……」

 ジュゼッペからカルセドニアの生立ちを聞き、辰巳は呆然としながらそんな言葉を零した。

「ああ見えて、あの()も色々と苦労してきたのじゃよ」

 ジュゼッペがカルセドニアを養女として迎えるまで。それは辰巳が想像していたよりも、遥かに重いものだった。

 辰巳とジュゼッペはカルセドニアが説法のために退室した後も、応接室に残って話を続けていた。

「儂の養女となった後も、あの娘はそれはもう努力してきた。魔法使いとしての日々の研鑚に、神官としての務め……それ以外にもいろいろとな。あの娘は何年もそれらの全てを手を抜くことなくこなし……とうとうその悲願を達成させたというわけじゃ」

 王城の書庫の片隅に埋もれていた召喚儀式を復活させ、何年もかけて準備をし、遂には辰巳の召喚に成功した。まさに彼女の努力の積み重ねの結果として、辰巳は今、ここにいるのだ。

「じゃからの、婿殿。お主には改めて礼を言わねばならん」

「はい?」

「婿殿は、儂の孫娘を受け入れてくれたからの。婿殿の立場としては、一方的にあの娘をなじることだってできたはずじゃし、そのことに誰も異議を唱えることはできんじゃろう」

 確かに事前に何の相談もなく、いきなり異世界から召喚されれば「何勝手なことしやがったんだ」と文句の一つも言うのが普通だろう。

 だが辰巳は召喚に対して文句を言うどころか、カルセドニアに感謝さえしているという。カルセドニアのことをすんなりと受け入れてくれた辰巳を、ジュゼッペは内心で大いに感心し、同時に感謝していたのだ。

「できればお主には、このまま本当にあの娘の婿殿になってもらいたいものじゃの」

 ほっほっほっといつものように、朗らかに笑うジュゼッペ。だが、辰巳は笑うどころではなかった。

 最初、ジュゼッペに言われたことが理解できなかった。やがて、徐々に言葉の意味が彼の脳に浸透していき、ようやく彼の言いたいことをしっかりと理解した時。

 辰巳は飲みかけていたお茶を、盛大に吹き出した。




 夢はそれからも、時々ではあるが続いた。

 サヴァイヴ神殿の最高司祭の養女として迎えられたことで、本格的に魔法の勉強を開始することができるようになった彼女は、自身に秘められていた魔法使いとしての素質を開花させ、更にその実力を高める努力を積み上げ、同時に世界を越える方法を探した。

 もちろん、神官として日々の務めを果たし、時には怪我人などに治癒魔法を施すこともあった。

 そんな多忙な日々を送りながら、時々見る彼の夢──かつての記憶の追体験──は、彼女の最大の楽しみだった。

 もう二度と会うことはないと思っていた大好きなご主人様と、夢の中とはいえ再会することができるのだから。

 彼女の成長と合わせて、夢の中の少年も同じように成長していく。

 もしかすると、自分と少年のために救いの手を差し伸べてくださった神様が、自分を少年と同じ年頃になるように転生させてくださったのかも。

 幼いながらも彼女はそう判断し、サヴァイヴ神──辺境の農村ゆえに当時の彼女はサヴァイヴ神しか知らなかった──に感謝した。

 夢の中の少年と自分が同じ年代ならば、やはりそれだけ親近感が増すし、その分少年に対する想いも強くなる。

 夢の中で少年の──ご主人様の姿を見るたびに、彼女の彼に対する想いは日増しに強くなっていった。

 しかし、夢は幸福な夢ばかりではなかった。

 彼女もはっきりと覚えている。ご主人様が家族を失った時のことを。

 ご主人様とその家族が、どこか遠くで大怪我をした。当時の彼女はそう理解する程度だったが、夢で改めて当時のことを思い出し、彼女は我がことのように悲しみに襲われた。

 彼女のご主人様は夢の中の少年ただ一人だが、彼の家族もまた彼女は大好きだった。

 彼と同様に、彼女のことを可愛がってくれた彼の家族たち。その家族が彼だけを残して一度に命を落としてしまうなんて。

 当時の彼女は、彼と彼の家族と会えない日がずっと続いたという認識でしかなかったが、今なら当時の彼がどれほど酷い怪我をしたのかよく分かる。

 あちらの世界には、こちらのような治癒魔法は存在しない。そのため大きな怪我をすれば、その怪我が治るまではかなりの時間がかかる。

 その間、彼女の世話は顔馴染みの近所の人がしてくれた。彼の肩に乗って散歩した時など、何度も挨拶をした覚えのある人物だ。

 そして長い時間が経ち、ようやく彼は帰って来た。彼一人だけが悲しみに包まれて帰ってきたのだ。

 それまで家族と共に住んでいた家から、もっと小さな家に移った彼と彼女。それからだ。彼女が彼の夢を毎日見るようになったのは。

 だから、彼女は準備を急いだ。彼女の記憶に残る少年との別離。その時はもう遠くはないだろう。自分を失った後の彼が心配で、彼女は彼を召喚する準備を急いだ。

 計画よりもいくつかの手順を前倒し、最低限の休息だけを取り、遂に召喚の準備が完了した。そんな中で、夢の中ではとうとう彼と彼女の離別の時が訪れていた。

 夢の中で、彼女を失った少年は深い悲しみに囚われていた。そんな少年を励ましたくて。少しでも力になりたくて。傍に寄り添いたくて。彼女は少年を召喚する儀式を始める。

 儀式は、数日間に渡って不眠不休で行わなければならない。いくら彼女が魔法の才能に溢れ、年齢的にも体力があるとしても、儀式が必ずしも成功するとは限らなかった。

 しかも、儀式を試みることができるのは一度きり。もしも召喚に失敗すれば、また数年かけて最初から準備をやり直さなければならない。

 儀式に集中する彼女の脳裏に、彼女と死別した後の少年の姿が浮かび上がる。

 なぜ、起きている時に彼の姿がこれほどまでに明確に浮かぶのか。それは彼女にも分からない。もしかすると、儀式を行っていることで彼との間に何かが繋がったのかもしれない。

 世界に絶望し、気力を失った彼の姿は見ていて痛々しい。どんよりとした虚ろな目で、かつての彼女が入っていた小さな籠をぼんやりと眺めながら、一日中何をすることもなく過ごしている少年。

 このままでは、少年は衰弱して死んでしまうのではないか。もしくは、悲嘆のあまりに本当に自ら命を絶つのではないか。

 そんな心配に心を締め付けられながらも、彼女は儀式を進めていく。

 そして。

 そして、彼女の願いは彼の元へと届いた。

 もう、彼女が少年の夢を見ることはないだろう。夢の中でしか会えなかった彼女の大切な少年は、今、現実に彼女の前に現れたのだから。


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[気になる点] 最近、読み始めました。 途中で気になった事をひとつ。 ↓ 儀式は、数日間に渡って不眠不休で行わなければならない。いくら彼女が魔法の才能に溢れ、年齢的にも体力があるとしても、儀式が必ずし…
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