トリアージ
その声の主は、がっちりとした長身の男性で、見た目の年齢は40歳前後といったところだろうか。
顔は整っている方だが、その下半分が濃い髭で覆われているため、武骨な印象の方が強い。
そして、身に纏っている物やその物腰から、その男性が身分の高い人物だということが容易に知れた。
「それで? 何を騒いでいる? 今はそれどころではないだろう?」
男性は鋭い視線で集まっている者たちを見回した。
「タウロード隊長! 実はこの生意気な神官が、《聖女》殿の治癒を邪魔しておるのです!」
剣を抜こうとしていた騎士が、辰巳を指差しながら告げる。
「治癒の邪魔だと……?」
タウロードと呼ばれた男性は、その鋭い視線を辰巳へと向ける。
しかし、辰巳はその視線に動じることはない。彼の傍にいたカルセドニアに至っては、嬉しそうな顔をしている。
「貴君の言う生意気な神官とは、俺の義弟のことか?」
「は……はっ!? タウロード隊長の義弟……ですとっ!?」
「正確に言えば『もうすぐ義弟になる』だが、俺はこいつのことを既に義弟だと思っている」
それまで息巻いていた騎士は、驚きの表情を浮かべてタウロードと辰巳を何度も見比べた。
「タツミ、カルセ。状況を教えろ」
タウロードは厳しい表情のまま、辰巳とカルセドニアにそう告げた。
タウロード・クリソプレーズ。
王国騎士団第二分隊の隊長を務める男性で、ジュゼッペの長男であり、カルセドニアの義兄に当たる人物である。
年齢的に言えばカルセドニアとは親子でも通じるのだが、彼は末の義妹となったカルセドニアのことを家族として可愛がっていた。
そして、そのカルセドニアの伴侶となる辰巳のことは、最初こそ胡散臭く感じていたのものの、父親であるジュゼッペやカルセドニアから彼の話を聞き、実際に彼と会って言葉を交わしてみて、可愛い義妹を任せるに足る男だと判断した。
それからは彼の言葉通り辰巳のことは義弟として、そして家族として接しており、辰巳もまた、この年齢の離れた義兄を信頼していた。
「タウロード義兄様。それが……」
カルセドニアは、困った表情で義兄と辰巳を交互に見る。
「あ、あのですね、タウロードさん……」
「……タツミ?」
タウロードは見るからに機嫌の悪そうな顔つきになると、辰巳を鋭い視線で睨み付ける。
一瞬、びくりと身体を震わせた辰巳だが、すぐにどこか照れ臭そうに言葉を改めた。
「え、えっと……タウロード義兄さん」
「うむ、それでいい」
辰巳に「義兄さん」と呼ばれ、タウロードは満足そうに頷く。
タウロードは辰巳を認めて以来、「義兄さん」もしくは「兄貴」と呼べと辰巳に強要している。
辰巳がそう呼ばないと先程のように明白に機嫌を悪くするほど、彼は家族に対しては甘い人物なのであった。
「緊急事態だ。手短に説明しろ」
タウロードに促され、辰巳は手短に説明していく。
このような災害や事故の現場などの医療物資の限られた局面で、多数の負傷者が出た場合は、緊急を要する者から治療を行うべきであること、そのためには、実際に治療する前に負傷者を緊急度によって分別する必要があるなど、辰巳はテレビのドラマなどから聞きかじった知識を必死に思い出しながらタウロードに説明した。
「……このような考え方を、俺の故郷では『トリアージ』、もしくは『識別救急』と言います」
「ふむ。確かにそれは理にかなった考え方だな。だが、この国の常識からすると、その考えは異質だ」
タウロードによれば、この国ではやはり貴族などの身分の高い者ほど、優先して治療を受けられるものらしい。
ことの是非はともかく、この国の常識という点からみれば、辰巳の言い出したことの方が異質であるのは間違いないだろう。
「それから、皆がばらばらに救助活動している点も問題ではないですか? 誰かが指揮を取って、その指示に従って治療に当たった方が効率的なはずです」
「その点に関しては、この事故をお聞きになられた国王陛下から、現場の指揮を執るようにと俺に命令が下った。俺がこの場に来たのはそのためだが…………」
タウロードは現場を見回した。
あちこちに怪我人などが倒れており、中には意識のない者もいるらしい。
「よし。この場の指揮はおまえが執れ」
と、タウロードは突然辰巳に向かってとんでもないことを言い出した。
「お、俺がこの場の指揮を……っ!? む、無理ですよっ!!」
「だが、おまえの言う『とりあーじ』という考えは俺たちには縁遠いものだ。しかし、おまえの言ったやり方の方が救える命は増えるだろうと俺は判断した。ならば、そのやり方に精通しているお前が指揮を執るのは当然だろう?」
「せ、精通しているなんて……俺も聞きかじった程度ですよっ!?」
「それでも、何も知らない俺たちよりマシだ。心配するな、至らぬところや細かいところは俺が補佐する。カルセだって、おまえの指示には喜んで従うだろう」
タウロードに言われてカルセドニアの方を振り返れば、彼女は微笑みながら頷いていた。
「先程は思わず先走ってしまって申し訳ありません。少しでも早く怪我人の治癒に当たるべきだと思いまして……」
「それは仕方ないさ。俺はやっぱり、まだまだこの国の常識には疎いし」
この場でカルセドニアが名乗りを上げれば、《聖女》として名高い彼女が治癒を施すためには都合がいいだろう。
だが、それはあくまでもカルセドニア個人が治癒を施す場合だ。この場にいる治癒魔法の使い手全てを効率良く運用するには、辰巳の言い出したトリアージを行った方がいいのは間違いない。
「……分かりました。やってみます」
辰巳は少し悩んだ後、そう決断した。
今はあれこれ悩んでいる場合ではない。すぐにでも治癒を施さないといけない負傷者だっているかもしれないのだ。
「では、タウロード義兄さん。まずは治癒魔法の使い手を全員集めてください。それから、魔法は使えなくても医療知識のある人たち……医師も一緒に」
「承知した」
タウロードは部下たちに、治癒魔法の使える魔法使いと医師を集めに走らせる。
彼の部下たちは、すぐに辰巳の要求通りの人手を集め、辰巳の元へと戻って来た。
そして、辰巳はそれらの人々を前にして、意を決して口を開いた。
「サヴァイヴ神殿のヤマガタ上級神官です。王国騎士のタウロード殿の要請により、この場の指揮を任されました。思うところはあるでしょうが、今は緊急事態です。この場は自分の指示に従ってください」
集まった魔法使いや医師たちは、見慣れぬ黒髪黒目の青年を前にして困惑を露にしている。
だが、辰巳の背後に王国騎士であるタウロードと高名な《聖女》が控えているためか、文句を言い出すような者はいなかった。
「では、まず医師の方々にお願いします。負傷者たちを一人ずつ診断していき、怪我の酷さに応じて目印を付けていってください」
「目印だと……なんのために目印を付けるんだ?」
医師の一人が質問する。それに合わせて、他の医師や魔法使いたちも一様に頷いていた。
「怪我の酷さを一目で分かるようにするためです。そして、怪我の酷い人から優先して治癒の魔法をかけていきます」
「何? 貴族を優先するのではないのか?」
「はい。皆さんには馴染みのないことかもしれませんが、ここはこれまでの慣例は無視してください」
医師や魔法使いたちは、困った顔で辰巳の背後にいるタウロードを見る。
「ことの責任は俺が取る。今は黙ってこいつの指示に従ってくれ」
タウロードがそう言いながら、辰巳の肩を叩く。
医師たちからすれば、後々に貴族たちから文句を言われるのが怖かったのだろう。
身分の高い者から治療するのが常識のこの国で、身分を問わずに怪我の酷い者から治療をすれば、それに腹を立てた貴族などが文句を言うのは明白である。
だが、王国の騎士隊長であるタウロードが責任を取るというのであれば、医師たちも辰巳の指示に従うことに異はない。
彼らとて、助けることができる命は助けたいのだ。
「そうですね……すぐに治癒魔法を施さないと危険な者は、見やすい場所に大きく「○」を描き込んでください。緊急性は低いけど怪我が酷い者には「△」を、明らかに軽傷の者には「#」をお願いします」
辰巳は分かりやすいように地面に図形を描いて説明する。
「描くものはありますか? なければタウロード殿に至急手配してもらいますが?」
「医師という職業柄、ペンやインクは常に持ち歩いているさ」
医師の一人が手に持った鞄をぽんと叩くと、他の医師たちは同意を示す。そして、すぐに負傷者たちの様子を見るために動き出した。
「カルセを始めとした治癒魔法が使える魔法使いの人たちは、「○」の描かれた負傷者から優先的に治癒をお願いします」
「承知しました」
カルセドニアが一礼すると、他の魔法使いも頷く。
「義兄さんは部下の人たちに命じて、負傷者を同じ場所に集めてください。できれば、同じ目印の付いた者が集まるように。その方が魔法使いたちが治療に当たるのに都合がいいでしょう。ただし、意識のない者や動けない者は無理に動かさないで。同じように頭を打っている負傷者も下手に動かすと危険ですから動かさないように」
「了解した」
タウロードは頷くと、すぐに部下を辰巳の指示通りに走らせた。
その後、辰巳はタウロードと共に練兵場の一角に腰を据えて、負傷者への対応に細かな指示を出していく。
辰巳とて決して専門家ではないが、それでもこの場の誰よりもトリアージに対する知識はある。
尋ねられる質問を真剣に考え、必死に最善と思われる答えを模索していく。
常に傍にいるタウロードや、時々様子を見にきてくれるカルセドニアに支えられつつ、辰巳は必死に指示を飛ばす。
そうやって辰巳があれこれと対応していると、一人の騎士が辰巳の元へと歩み寄って来た。
「あ、あなたは……」
辰巳はそれが誰なのかすぐに気づいた。彼は先程、辰巳に食ってかかってきた騎士であった。
「神官殿……先程は申し訳なかった」
騎士は辰巳の傍まで来ると、深々と頭を下げた。
「この腕の手当てをしてくれた医師から、貴殿の治癒に関する考えを聞かされた」
騎士は包帯が巻かれている左腕を掲げながら、苦笑いを浮かべている。どうやら軽傷だったようで、包帯を巻く程度で済んだらしい。
「改めて考えれば、貴殿の考え方は正しい。《聖女》殿や他の魔法使いたちとて魔力は無限ではないのだ。いや、無限の魔力を持つ人間なんているわけがない」
今度は辰巳が苦笑する番だった。彼は実質的に無限の魔力を持つ人間なのだから。
「どうやら、私は貴族の出身という身分に甘えていたようだ。自分では貴族ではなく騎士だと思っていたのだがな……」
聞けば、この人物はとある貴族の三男らしい。彼自身は家を継ぐことはできないので、こうして軍に入って騎士となったのだとか。
「本当に申し訳なかった。償いというわけではないが、私にできることがあれば何でも言って欲しい」
「怪我の方は大丈夫ですか?」
「ああ、大したことはない。今となってはこの程度の傷で、《聖女》殿の治癒魔法に頼ろうとしたことが恥ずかしいぐらいだ」
騎士は怪我をした腕をぽんと叩きながら笑う。
「分かりました。宛てにさせてもらいます」
「ああ、申し後れたが、私はガイル・ユトリロスという。気軽にガイルと呼んでもらえると嬉しい」
「俺はタツミ・ヤマガタです。こちらこそ、タツミと呼んでください」
辰巳とガイルは、互いに互いの手を握り合った。
「旦那様っ!!」
辰巳とガイルが握手をしていると、カルセドニアが切羽詰まった表情で駆け寄ってきた。
「すぐに来てくださいっ!! 旦那様の力が必要なんですっ!!」
「分かったっ!! 案内してくれっ!!」
辰巳は詳しい説明を求めない。カルセドニアが自分の力が必要だと言う以上、そこに疑いを挟むことなど彼にはありえない。
辰巳とカルセドニアが一緒に駆け出すと、そのすぐ後からガイルも二人に続いて走り出した。
カルセドニアに先導される形で到着した場所には、一本の丸太が転がっていた。そして、その丸太の横の地面が黒く湿っており、その湿った地面に一人の兵士が倒れている。
到着した辰巳が確認すると、その兵士の右の太股に直径10センチぐらいの太さの杭が突き刺さっているではないか。
運が悪いことにこの兵士は丸太が崩れてきた際、たまたま置いてあった丸太を地面に固定するための杭の上に倒れてしまったようだ。
しかも、丸太が崩れ落ちた時に、頭部などにも怪我を負ったようで、現在は意識がない。
「おそらく、丸太が崩れた時に逃げようとして杭の端でも踏んでしまったのでしょう。そのため杭の尖っている方が上を向いてしまい、そこに転んでしまったのだと思われます」
悲痛な表情を浮かべながら、カルセドニアが辰巳に説明する。
よく見れば、頭部の傷などはすでに治療を受けたらしく出血は止まっている。残るは足に突き刺さった杭だけ。
「……だが、このまま杭を抜いてしまえば……おそらく、一気に出血してこの兵士は命を落とすかもしれんぞ?」
辰巳たちの後ろから覗き込んだガイルが、やはり悲痛な表情で口を挟んだ。
「ですから、この杭を抜いた瞬間に私が治癒魔法を施します。そうすれば、出血は最小限に抑えることができるでしょう」
「だが、これだけの太さの杭だ。そう簡単には引き抜けまい」
直径10センチほどの杭が、完全に兵士の太股を貫通しているのだ。外科手術などを用いれば抜けるだろうが、この世界に高度な外科技術は存在しない。
となれば、このような場合は力任せに引き抜くしかない。当然、兵士にも相当な負担がかかるだろう。
「すぐに人手を集めよう」
「いえ、その必要はありません」
駆け出そうとしたガイルを辰巳が引き止める。
その辰巳はガイルに振り返ることもなく、ただ、カルセドニアを見つめる。
辰巳の視線を受けて、カルセドニアが頷く。そして、倒れている兵士の傍に跪くと、神官服が血で汚れるのを気にもせずに呪文の詠唱を始めた。
辰巳も彼女に倣って兵士の傍らにしゃがみ込むと、魔力を解放する準備をする。
「お、おい……タツミも《聖女》殿も何を……?」
ただ一人、ガイルだけが彼らの意図を読み取れずに困惑している。
カルセドニアの詠唱が完了する直前、彼女は辰巳を一瞥する。
それを待っていた辰巳は、準備していた魔力を一気に解放、兵士の太股に突き刺さっていた杭に触れる。
太股に刺さっていた杭が一瞬で消失し、次の瞬間には辰巳の傍らの地面にからんという音を立てて転がった。
「え……?」
目の前で起きた光景を見て、ガイルが思わず目を丸くする。
杭が消えた瞬間、太股に開いた傷口から一気に血が吹き出し、傍にいた辰巳とカルセドニアの顔や身体を汚す。だが、同時に展開されたカルセドニアの治癒魔法が、見る間にその傷口を癒していく。
見る見るうちに塞がっていく傷口。それに合わせて出血も収まっていき、カルセドニアの見込んだ通りに出血は最小限に抑えることができたようだ。
無論、治癒魔法は傷口を塞いだだけではなく、骨や筋肉などの損傷も回復させている。
カルセドニアは改めて兵士の様子を確認する。
意識こそ失っているが、これでもう命の心配はないだろう。
安堵の溜め息を吐いたカルセドニアは、笑顔を浮かべながら辰巳へと振り返る。
それだけで全てを察した辰巳もまた、ゆっくりと息を吐き出した。
「な……何だ……? 何が起きたのだ……?」
呆然としたまま呟いたガイル。
彼の頭は、目の前で起きたことをすぐには理解できなかった。
傷口が癒えたのは理解できる。治癒魔法を施したのが高名な《聖女》なのだ。彼女ならば、これより酷い怪我でも瞬く間に癒してしまうだろう。
しかし、兵士の太股に刺さっていた杭が一瞬で消え去ったことは、彼の理解の外側である。
しばらく呆然と辰巳とカルセドニアを眺めていたガイル。時が経つにつれて、彼は最近耳にしたとある噂を思い出した。
それは、城下の街に現れたという〈天〉の魔法使いの噂。
これまで御伽噺や伝説の中でしか存在しなかった、〈天〉の魔法使いが実在するというのだ。
ガイルはその噂を信じようとはしていなかった。〈天〉の魔法使いなど、御伽噺の中だけの存在だと思っていた。
しかし今、彼の目の前で起きた現象こそ、その御伽噺でよく語られる〈天〉の代表的な魔法そのものではないか。
御伽噺に登場する〈天〉の魔法使いは、遠くにあるものを手の中に引き寄せたり、逆に手の中にあるものを遠くに一瞬で送ったり、そして巨大な岩を空へと放り上げたりもする。
ガイルの目の前で辰巳が使った魔法こそ、その〈天〉の魔法そのものに彼の目には映った。
そして噂では、最近現れたという〈天〉の魔法使いは黒髪黒目で薄い琥珀色の肌をした、遠い異国の青年だと言われていることを思い出す。
「……い、今のは〈天〉の魔法……? で、では……タツミが……噂の〈天〉の魔法使い……?」
ガイルは呆然としたまま、誰に聞かせるでもなく呟いた。




