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もう一人の転移者

 朝。

 窓から差し込む眩しい光と、お腹の辺りをもぞもぞと何かが蠢く感触に、カルセドニアはゆっくりと意識を眠りの底から浮上させた。

 意識がはっきりとしてくるに従い、お腹に感じる感触もはっきりとしてくる。

 そして、背中に感じる暖かい感触もまた。

「えっと……何をしているんですか?」

 自分を背後から抱き締めているその人物に、カルセドニアは振り向きながら尋ねれば。

「んー、カルセのお腹を触っている」

 彼女の運命の人とも言うべきその男性は、楽しげな口調でそう答えた。

「カルセの肌ってすべすべで手触りがいいんだよなー。いつまでだってこうしていられそうだ」

「やぁん。擽ったいですよぅ」

 口ではそう言うものの、その声にははっきりとした喜びの響きが混じっている。

 それが分かっているからこそ、男性──辰巳は手を動かすことを止めない。

 今、二人はその身に何も纏っていない。互いに全てを晒したまま、暖かい毛皮の中で身を寄せ合っていた。

 例の「魔法の絵」が切欠で初めて結ばれたあの夜から、二人はほぼ毎日のようにこうして素肌同士を触れ合わせて眠るようになった。

 別に愛の肉体言語を毎日交わしているわけではない。そうでなくても、こうしているだけで互いに満ち足りた思いに至れるのだ。

 辰巳は擽ったそうに身を捩るカルセドニアの髪に鼻先を埋めながら、その香りをじっくりと堪能する。

「なんか……昔のチーコと同じ匂いがするな……単なる気のせいかもしれないけれど……」

 ぽつりと零された辰巳の言葉。カルセドニアは腹に回された辰巳の手に自分の掌を重ねながら、幸せそうに目を閉じた。

「…………旦那様。一つだけお願いがあるのですが……」

「お願い?」

「はい。できれば……こうしている時だけ、私のことを以前のように『チーコ』と呼んでくださいませんか?」

「え? でも、それは……」

「旦那様が私を一人の女性として、『カルセドニア』と呼んでくださるのはとても嬉しいです。でも、『チーコ』という名前もまた、私が旦那様よりいただいた大切な名前……この世界で只一人、旦那様だけが呼んでくださる特別な名前なのです。普段は『カルセドニア』で構いません。でも、こうして肌を触れ合わせている時だけは……私は『チーコ』と呼ばれたいのです」

 彼女の想いを理解した辰巳は、その柔らかな身体をぎゅっと抱き締める。

「分かった。こうしている時だけは、以前のように『チーコ』って呼ぶよ」

「ありがとうございます、旦那様」

 辰巳の心地よい体温を背中全体で感じながら、カルセドニアは嬉しそうに微笑みを浮かべた。




 幸福な空気にどっぷりと浸かりながら、それでもカルセドニアは寝台から出るべく動き始める。

「さあ、旦那様。今日は旦那様が初めて魔獣狩りが集まる酒場へ行ってみる日ですよ? そろそろ起きて準備をしないと」

「そうだな。ベッドの中のこの暖かさには後ろ髪を引かれるけど仕方ない。うん、それじゃあ、カルセが先にベッドから出てくれ」

「え?」

 辰巳の言葉が終わると同時に、不意に感じられる浮遊感。思わず目をぱちくりとさせたカルセドニアは、一瞬でベッドの外へと転移させられた。

 慌てて空中で体勢を整え、床に落下するのを辛うじて防ぐ。だが、それは明るい光の中で、何も身に着けていない身体を辰巳の目に晒すことを意味した。

 全裸を辰巳に晒していることに思い至ったカルセドニアは、可愛い悲鳴と共に両手で胸をかき抱きながらその場にしゃがみ込む。

 そんなカルセドニアを、辰巳はベッドに上半身を起こしたままにこにこと見つめていた。

「うん、眼福眼福」

「もぅ。最近の旦那様はちょっと意地悪ですっ!!」

 カルセドニアは踞ったまま、手を伸ばしてベッドの上の枕を掴み取ると、それを辰巳に向かって投げつける。

 だが、投げつけられた枕は軽々と辰巳に受け止められてしまう。

 その後、どちらからともなく、二人は笑い合う。

 なんだかんだ言いつつも、やっぱり幸せな二人だった。




 朝食を済ませ、しばらく寛いだ二人は、四の刻の鐘──日本で言えば正午──が鳴る頃に家を出た。

 二人が目指すのは、かつて修行時代のカルセドニアが利用していたという、魔獣狩りが拠点とする酒場の一つ。

 ちらちらと雪がちらつく中、二人は身を寄せ合いながらゆっくりと歩く。

 すでにご近所ではお馴染みの光景となっている二人の様子を見て、顔馴染みの主婦たちが微笑ましそうに目を細めたり、親しげに声をかけてきたりする。

「おや、タツミくんとカルセちゃん。今日も二人揃ってお出かけかい?」

「いつも仲が良いいわよねぇ」

「ホント。お二人さんがいると、積もった雪だって溶けちゃいそうだね」

 口々に交わされる悪意のない冷やかしの言葉。そんな言葉をかけられて、辰巳は照れて視線を泳がせ、カルセドニアは嬉しそうに微笑む。

 二人は目抜き通りへと出ると、ゆっくりと街の中央へと向かう。

 そしてカルセドニアの案内で、表通りから一本外れた通りへと入り、目的地である酒場兼宿屋を目指す。

「……それで、カルセも以前にお世話になったって言う、その酒場の店主さんはどんな人なんだ?」

「何でも、遠い異国から20年ほど前にこのゾイサライト大陸へと渡って来られたそうです。その後は大陸のあちこちを彷徨い、このレバンティスの街には大体5、6年ぐらい前にやって来て、今の酒場を開いたと聞きました」

 カルセドニアの言葉を聞きながら、辰巳は脳裏にいかにも歴戦の勇士といった感じの、厳つい中年の男性を思い浮かべた。

 傭兵や魔獣狩りとして大陸中を渡り歩き、怪我などの理由で引退した後は、酒場を営みながら後進を育てていく。

 うん、いかにもありそうな設定だ。と辰巳が内心で頷いている横で、カルセドニアの話は尚も続いていた。

「最近ではお店の評判も上々で、腕のいい魔獣狩りたちがそのお店を拠点としていると聞いています。私が出入りしていた頃は、まだまだ開店したばかりでそれほど評判ではなかったのですが、今ではすっかりこの街の代表的な酒場に成長したそうです」

 と語るカルセドニアの言葉には、懐かしそうなものが含まれていた。どうやら、彼女もその店主をかなり慕っているようだ。

「……私も魔祓い師となってからは、あのお店に顔を出さなくなってしまいましたが……女将さん、元気かしら?」

 なるほど。どうやら件の店主には奥さんがいるらしい。

 厳つくて頑固な店主と、その店主を支える明るくて器量好しの女将さん。これまた、よくありそうな設定である。

 辰巳が脳裏でそんな酒場の様子などを思い浮かべていると、一際弾んだカルセドニアの声がした。

「あっ!! あそこですっ!! あそこが目的地である〔エルフの憩い亭〕ですっ!!」

 カルセドニアが指差すその先。そこには確かに一見の酒場兼宿屋があった。

 普通の家よりも大きめの木製の扉。多少年季が入っているものの、よく手入れされているらしく綺麗な木目を浮かび上がらせている。

 全体は一般住宅にみられるような赤茶けた煉瓦作り。見たところ三階建てのようで、おそらくは一階は酒場で二階より上が客室なのだろう。

 だが、何より辰巳の目を引いたのは、出入り口の扉の横に掲げられている看板だった。

 フォークとナイフとジョッキを図案化したものは、ここが酒場であることを示しているのだろう。そして、その図柄の下にはベッドの図柄もあった。これまた、ここが宿屋も兼ねていることを表しているに違いない。

 最近、辰巳もようやくこの世界の文字の読み書きの方もできるようになってきた。だが、この世界の識字率はかなり低い。

 となれば、店の看板に文字だけではなく図柄を入れるのは、おそらくよくあることなのだろう。

 しかし、彼の目を引いたのはそれらの図柄ではなかった。

 看板に書かれた文字こそが、彼の目を引きつけて離さない。

 この国の流れるような文字とは明らかに異なった、かくかくした字体。だがその文字は、辰巳にしてみればこの国の文字よりも遥かに馴染みのあるもので。

 そしてその文字は、この国にあるはずがないものでもあるのだ。

「ど、どうして……どうして、ここに日本語が書かれているんだ……?」

 呆然と辰巳が見上げるその看板。

 そこに書かれている「エルフの憩い亭」という文字は、どうみても平仮名と片仮名、そして漢字の組み合わせ──すなわち、日本語だったのだ。




 呆然と看板を見上げている辰巳を見て、カルセドニアは首を傾げた。

「旦那様? どうかされましたか?」

「あ、ああ……な、なあ、カルセ。あの看板の文字だけど……」

「あれは、この店の女将さんが以前にいた国の文字だそうですけど?」

 カルセドニアが辰巳が指差す看板を見て解説する。

 どうやらカルセドニアは、日本語の会話はできても読めないようだ。

 考えてみれば、前世の彼女はオカメインコでしかなかったのだ。日本語の会話の方は、辰巳やその家族たちの言葉を聞いていたのである程度は理解できるのだろうが、当然読み書きができるわけがない。

「ってことは……まさか、この店の女将さんて、俺と同じ日本人……?」

 自分以外にも、この国……いや、この世界に日本人がいたとは。

 不意に辰巳の胸に広がったのは、郷愁と言うべき感情だろう。

 日本での生活に未練はないと断ち切ったとはいえ、時にはどうしたって懐かしく感じてしまうことはある。

 もしも、本当にこの店の女将さんが日本人ならば、この懐かしい思いを共有できるかもしれない。

 そんな期待を抱きつつ、辰巳はカルセドニアに促されて店の中へと足を踏み入れた。




 店に入った途端、酒と各種の料理の匂いが辰巳の鼻を刺激した。

 辰巳の予想通り、一階は酒場となっているようで、店の奥にカウンター、そして広い店内には四人用のテーブルと椅子が幾つも見受けられた。

 それらの内のいくつかには魔獣狩りらしき男たちが鎧姿で座っており、無遠慮な視線を辰巳とカルセドニアに向けてくる。

 中には明白に下卑た視線をカルセドニアに向ける者もいて、辰巳は何気なくその視線からカルセドニアを遮る位置へと身体を割り込ませた。

 今の辰巳とカルセドニアは、分厚い毛皮の上着を着込んでいる。

 その下はカルセドニアは普段着だが、辰巳は煮固めた革鎧と腰には鋼製の剣を装備している。

 毛皮の上着を着ているとはいえ、それらを装備していることは歴戦の魔獣狩りたちには一目瞭然。

 また、今の辰巳は神官戦士としてしっかりと鍛えられている。足運び一つ取っても、彼がただの素人ではないことはすぐに分かるのだろう。

 だからこそ、魔獣狩りたちは無遠慮な視線は向けても、何かを言ってくるようなことはない。逆に言えば、ここで何か因縁をつけてくるような連中がいれば、それは経験の浅い魔獣狩りだという証でもある。

 中にはカルセドニアが「サヴァイヴ神殿の《聖女》」だと気づいた者もいるようで、仲間内で小声で囁き合っている者もいた。

 そんな魔獣狩りたちの探るような視線の中を、カルセドニアは気にした風もなくゆっくりと店の奥を目指す。

 カルセドニアと共に足を進める辰巳の目に、カウンターの奥で忙しそうに働いている一人の女性が映った。

 おそらく、あの人がこの店の女将さんだろう。だとすると、あの人が日本人なのだろうか。

 そんな期待を抱いた辰巳。だが、すぐにその目が驚愕に見開かれることになった。

「え?」

 思わず間抜けな声を出しつつ、辰巳はその女性を見た。

 身長は辰巳より低く、大体160センチ前後だろうか。ほっそりとした体つきと、カルセドニアといい勝負の白い肌が印象的だった。

 長く伸ばされた髪は淡い金髪。白金色のカルセドニアよりは、若干色合いが濃い。そして瞳の色は紅玉(ルビー)のようなカルセドニアとは、対照的な蒼玉(サファイア)のような蒼。

 そして何より、細長くぴんと上を向いた尖り気味の耳。それはファンタジーでは有名なあの種族の特長でもあり。

「え、エルフ……?」

 そう。

 その女性はエルフだったのだ。

 これまで辰巳は、亜人と呼ばれる人たちとの交流はない。

 この街のサヴァイヴ神殿には人間しかおらず、街の中でも亜人は少数派らしい。

 街でごく稀にすれ違う程度はあっても、こうして間近で亜人を見るのは初めてなのだ。

 辰巳の先程の呟きが聞こえたのか、エルフの女性が辰巳たちへと顔を向けた。途端、その顔に驚きと喜びが浮かび上がる。

「カルセさんっ!! カルセさんじゃないですかっ!! うわー、お久しぶりですねー。お元気でしたか?」

「はい。私の方こそご無沙汰しておりました。女将さんもお元気ですか?」

「ええ、もちろんですよっ!! 私もカルセさんの活躍……『サヴァイヴ神殿の《聖女》』の噂は耳にしていますよ?」

 にこやかに談笑するカルセドニアとエルフの女性。

 どうやらこのエルフの女性こそが、この店の女将さんらしい。

 とすると、看板の日本語は一体誰が書いたものなのだろう。まさか、エルフが日本語を知っているはずがないし、と辰巳が心の中であれこれと考えていた時。

 それまでカルセドニアと話していたエルフの女性の目が、辰巳へと向けられた。

 途端、エルフの女性の顔に広がる、大きな驚愕。

 彼女は蒼い瞳を一杯に見開きながら、掠れるような声で呟いた。

「え…………? も、もしかして……日本の方……ですか?」

 エルフの女性の唇から零れ出た言葉。それは、間違いなく辰巳が慣れ親しんだ日本語であった。


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