婚約の儀
ジュゼッペのその言葉に、辰巳はびくりと身を震わせた。
それは彼自身もまた、ガルガードン母子の事件の時から考えていたことだったから。
「以前、お主から結婚に関してどう考えておるか聞いておる。儂とてお主の意志は尊重したい。カルセとて、お主が待てと言うのならば、いくらでも待つじゃろう」
ジュゼッペがちらりと辰巳の隣に座る孫娘に視線を向ければ、彼女はふわりと柔らかく笑った。
家族が養えるぐらいの収入を得られるようになるまで待って欲しい。
カルセドニアもまた、辰巳が結婚に関してそう考えていることは承知している。
辰巳は詰まらない意地だと言うが、彼の気持ちは嬉しい。それだけ彼が自分との生活を、真剣に考えていてくれるという証なのだから。
だから祖父が言うように、辰巳が自分で納得するまでいつまでも待つつもりでいる。
「お主も上級神官となった。それに加えて、正式な神官戦士でもある。この二つの俸給だけでも、市井の一般的な家族よりも収入は上じゃろう。無論、お主が最終的には魔祓い師を目指していることは重々承知じゃ。じゃが、せめて婚約という形だけでも整えてもいいのではなかろうか。儂はそう考えるが……お主はどう思うかの?」
カルセドニアと正式に婚約する。
既に半年以上彼女と一緒に暮らしているが、改めてそう言われるとやはり照れを感じる辰巳だった。
「あ、あのー……俺としましても、チーコと正式に婚約することは構いません……いや、そうした方がいいことも理解しています。ですが……具体的にどんなことをするんですか?」
元の世界では、婚約どころか女の子と付き合ったことさえない辰巳である。
婚約という言葉に漠然的なイメージはあるものの、具体的にはどんなことをするものなのか。当然ながら知識はまるでない。
「そうさの。神殿で婚約の儀と呼ばれる儀式を上げるのが一般的じゃな。その儀式には儀式を司る立会人の神官と、当事者である二人だけが参加する。神──当然サヴァイヴ神の前で、婚約を宣言し神の祝福を受ける。簡単に言うとそんなところじゃな。ああ、そうそう。もしもお主らが儀式を上げるならば、儂が立会人の神官を務めよう」
長く白い髭を扱きながらジュゼッペが大まかな段取りを説明すれば、カルセドニアが目を見開いて驚いた。
「よ、よろしいのですか? 最高司祭であるお祖父様が立会人を務めるなど、普通は王族の婚約か、貴族の中でも上位の方たちの儀式の時だけではありませんか」
「確かにカルセの言うとおりじゃが、婿殿にはいろいろとカルセが世話になっておるでな。カルセの祖父……いや、養父として、せめてそれぐらいはしたいんじゃよ」
辰巳はこちらの世界へと強引に呼び出したカルセドニアを、なじるでもなく責めるでもなく、それどころか前向きに受け入れて仲睦まじく一緒に暮らしてくれている。
辰巳からすれば、自分の方こそカルセドニアにいろいろと世話になっていると言うだろうが、ジュゼッペも辰巳には養女のことで感謝しているのだ。
辰巳とカルセドニアの婚姻の儀の立会人を務めることで、その感謝を彼なりに表わしたい。それがジュゼッペの思いであった。
もちろん、最高司祭であるジュゼッペが立会人を務めることで、様々な方面への圧力となることも考慮に入っているのだろう。
「分かりました。では、その儀式に関してはジュゼッペさんにお任せします。それで、その儀式はいつ執り行うのですか?」
辰巳が了承してくれたことに安堵の息を吐きつつ、ジュゼッペはあれこれと頭の中で素早く計算する。
「ふむ……神殿としてもいろいろと都合があるでな。今日から十日の後、ということでどうじゃろう?」
ジュゼッペの提案に、辰巳も素直に頷いた。
そして、そんな辰巳の背後では、カルセドニアが幸せそうな笑みを浮かべていた。
「は? 宝飾品を扱っている店を教えて欲しい?」
ジュゼッペからカルセドニアとの婚約を切り出された翌日。
神官戦士としての鍛錬を終えた辰巳は、同じように鍛錬を受けていたバースにそう質問した。
「ああ。俺、この街でそういった商店へ行ったことがなくてさ。質のいい宝飾品を扱っている店を知っていたら教えて欲しいんだ」
「別に構わないが、どうして急に……ああ、そういうことか」
何やら勝手に納得して、にやりと含みのある笑みを浮かべるバース。
心の中を見透かされたようで、辰巳は照れ臭くなって視線を泳がせる。
「そういうことなら、俺よりもニーズたちに聞いた方がいいと思うぜ? あいつらの実家は基本は魔獣狩り相手に武具を売っている商店だが、古くから続いている店らしいからな。この街の商人たちのことに関しては、俺よりも詳しいだろ?」
「そ、そうか。じゃあ、ニーズたちに聞いてみるよ」
「おう、そうしろ。んで、がんばっていい品を選べよ?」
「う、うるさいなっ!!」
顔を真っ赤にし、足早に去っていく辰巳の背中を、バースは呆れたような表情を浮かべてじっと見つめる。
「半年以上一緒に暮らしているってのに、本当にいつまでも初々しいこって。まあ、それがタツミたちらしいと言えばらしいけどな」
そして十日という時間はあっと言う間に過ぎ、その十日間は辰巳も実に多忙だった。
ニーズに紹介してもらった宝飾店で、婚約の儀に使用する装飾品も購入した。
どうやらこの国では指輪ではなく、イヤリングやピアスなどの耳飾りで婚約の証とするらしい。
紹介してもらった宝飾店の店員とも相談しつつ、何とかカルセドニアによく似合いそうな耳飾りを選ぶことができた。
その際、若干予算がオーバーしてしまったため、ジュゼッペに代金を借りるなどの一幕もあったりしたが。
さすがにカルセドニアに贈る品物のための代金を、彼女に借りるわけにはいかなかったのだ。
辰巳は神殿で得られる俸給の全てを一旦カルセドニアに預けている。そしてその中から、改めて彼が自由に使えるだけの金額をもらうという、いわゆる「お小遣い制」である。
カルセドニアとの婚約がこんなに急でなければ、辰巳ももう少しじっくりと予算を組んでから買い物したことであろう。
その他には、ジュゼッペの家族たちとの面会もした。
ジュゼッペの妻やその息子たち。ジュゼッペは男ばかり三人も実子がいて、全員既に結婚して子供までいる。
ジュゼッペの年齢を考えれば当然と言えば当然なのだが、カルセドニアとは随分と年の離れた義兄たちであった。
辰巳にとっても義兄となる人物たちと顔を合わせるのは、並大抵の緊張ではなかったが、前もってジュゼッペやカルセドニアから辰巳のことは聞かされていたらしく、ジュゼッペの家族たちからは暖かく迎えられた。
それでもやはり義妹──年齢的には義娘と言っても過言ではない──の伴侶となる辰巳に向ける、義兄たちの視線は厳しいものがあった。
だが、それもすぐに打ち解けた。特にジュゼッペの次男はサヴァイヴ神殿で神官戦士を束ねる総戦士長である。
辰巳にとっては直属の上司とも言える人物で、彼の評判は聞き及んでいたようだ。
ちなみに、ジュゼッペの妻は海洋神ダラガーベ神殿の重鎮、長男は王国騎士、三男は太陽神ゴライバの神官戦士と、実に多彩な経歴を持つ家族たちであった。
辰巳は上級神官としての儀礼用の神官服と聖印を身に着け、サヴァイヴ神殿の礼拝堂に鎮座する、巨大なサヴァイヴ神の石像の前で跪いていた。
辰巳の隣には、同じく司祭としての儀礼服と聖印を身に着けたカルセドニアが跪き、サヴァイヴ神の像の前には、煌びやかな最高司祭としての正装を纏ったジュゼッペの姿がある。
「──今ここに、若き二人が新たな縁を結ぶことを偉大なるサヴァイヴ神へと誓うものなり。この誓いは決して破られることなく、未来永劫二人を結びつける強固な鎖とならん」
朗々としたジュゼッペの声が広い礼拝堂に響く。
普段ならば信者たちで溢れ返るこの礼拝堂も、今は辰巳たち三人のみ。本日この場で婚約の儀が執り行われることは事前に通知されているため、一般の信者たちは儀式が終わるまで礼拝堂の外で待っている。
そして、その中には辰巳やカルセドニアと親しい者たちもいるはずだ。
「──では、誓いの耳飾りを身に着けることで、婚約は成立するものとする」
厳粛な表情を浮かべたジュゼッペが、神像の前に供えて聖別しておいた耳飾りを丸い盆の上に乗せて、辰巳たちへと振り返った。
ジュゼッペに指示されて、辰巳とカルセドニアが立ち上がる。
そして辰巳の前に、ジュゼッペが聖別された耳飾りを恭しく差し出した。
辰巳が選んだ耳飾りは、細く板状にした銀を複雑に絡み合わせた意匠のもの。そして、その中央には小粒ながらも透明度の高い真紅の宝石が嵌め込まれていた。
この耳飾りは、炎に親しく細工物が得意な亜人であるドワーフの職人による逸品である。
辰巳はその耳飾りを二つとも取り上げ、その一方をカルセドニアに手渡した。
「ごめんな、チーコ」
「え?」
突然謝られて、思わずぽかんとした表情のカルセドニア。
「そ、その……本当なら、婚約じゃなくて更にその一歩先でもいいはずなのに……俺の我が儘で婚約止まりになっちゃって……本当にごめん」
「い、いえ、そんな……我が儘と言えば私の方こそ……私の方こそ、自分の都合だけでこちらの世界にご主人様を召喚してしまっ────っ!?」
言葉を続けようとしたカルセドニアの唇に、辰巳の指先がそっと触れてその先を遮る。
「そんなことはない。俺は召喚してくれたことを本当に嬉しく思っているんだ。本音を言ってしまうと、以前の暮らしに……日本での生活に全く未練がないわけじゃない」
現代日本に比べれば、どうしたってこちらの世界は生活しづらい。
電気がないので夜は暗く、寒い冬も暖房と言えば暖炉ぐらい。エアコンを作動させれば常に一定の温度を保つことのできる日本に比べれば、過ごしやすさは雲泥の差がある。
それ以外にも、日本に劣るところはいくらでもあるだろう。
「それでも……こちらの世界にはチーコがいる。死別して、もう二度と会えないと思っていたチーコと、再びこうして一緒に暮らすことができる。それだけで……いや、それに勝る幸せは俺には考えられない」
「ご主人様……」
カルセドニアの真紅の瞳に、美しくも暖かい無色透明な宝石が生み出される。
そんなカルセドニアに柔らかく微笑みかけながら、辰巳は彼女の髪を掻き上げて左の耳を露出させると、そこに誓いの耳飾りを取り付けた。
「チーコ……さあ、頼むよ」
「はい……はい……っ!!」
溢れる涙を何度も何度も手の甲で拭いながら、カルセドニアも辰巳の右耳に耳飾りを取り付ける。
ラルゴフィーリ王国では男性は右の耳に、女性は左の耳に。同じ意匠の耳飾りを飾ることが、婚約の証とされる。これが結婚となると、男女で耳飾りを飾る耳が逆になるのだ。
「今ここに、若き二人の婚約が成立した!」
ジュゼッペの宣言と共に、神殿の鐘が祝福の音色を奏で始める。
荘厳な音色がレバンティスの街の隅々にまで行き届き、若き二人の新たな関係を祝う。
互いの手をしっかりと握り合いながら、辰巳とカルセドニアは至近距離で見つめ合う。
おそらく今、礼拝堂の外では婚約が成立した二人を祝福するべく、友人や知人たちが二人が出てくるのを待ち構えているだろう。
バースが。ニーズが。サーゴが。シーロが。
先輩の神官戦士たちや、下級神官時代に一緒に下働きした顔見知りたち。
カルセドニアの知人である、クーリを始めとした女性神官たち。
もしかすると、辰巳たちの家の近所に住んでいる人々も駆けつけてくれているかもしれない。
「さあ、チーコ。みんなに胸を張って報告しよう。俺たちが正式に婚約したことを」
「はい、ご主人様っ!!」
二人は手を繋いだまま、礼拝堂の入り口へと向かって歩き出す。
が。
何歩も歩かない内に、急に辰巳が歩を止めた。
「どうかなさいましたか、ご主人様?」
「いや、その『ご主人様』って呼び方だけど……そろそろ止めにしないか?」
「え?」
「だって……そ、その……チーコは確かに俺のチーコだけど、もうペットだった……オカメインコだったチーコじゃなくて、今は一人の人間の女性なんだから……お、俺もこれからは『カルセ』と呼ぶことにするから……だから、カルセも俺のことを『ご主人様』と呼ぶのは止めないか……?」
辰巳に言われて、カルセドニアは目を見開いて驚きを露にした。だが、そうしていたのも僅かな間。すぐに彼女は幸せそうに微笑んで顔を赤らめた。
「で、では……これからは『ご主人様』ではなく、『旦那様』とお呼びしたいと思います……よろしいでしょうか……?」
顔を赤らめつつ上目使いで言うカルセドニア。
一方、そんなことを言われた辰巳もまた、その顔を真っ赤に染めた。
「あー、う、うん、チーコ……じゃない、カルセがそう呼びたいのなら、べ、別に構わないぞ」
「はいっ!! 改めてこれからよろしくお願いします、旦那様っ!!」
互いに顔を赤くしつつも、至近距離で嬉しそうに微笑む辰巳とカルセドニア。
二人の唇の距離が徐々に近づき、やがてゼロになるのを、ジュゼッペは満足そうに眺めていた。
それからしばらく。
いつまで経っても唇を離そうとしない二人に、ジュゼッペが呆れたように声をかけた。
「いつまでやっとるつもりじゃ。いい加減にせんかい」
口ではそういいつつも、サヴァイヴ神の最高司祭の顔には、柔らかな笑みが浮かんだままだった。