怒りと宣言
がらがらと鳴る馬車の車輪の音を、ガルガードン伯爵家の当主であるアルモンド・ガルガードンは、どこか遠くに聞いていた。
今、彼の目の前には、ガルガードン伯爵家などその気になれば捻り潰せるだけの影響力を持った人物がいる。
その人物から向けられる冷たい目に、彼は最悪の事態──ガルガードン家の消滅──さえ覚悟した。
「伯爵は領主としては確かに優れた人物ですが、人の親として、そして夫としては少々問題があるようね」
「め、面目次第もございません、クワロート前公爵夫人」
「ガルガードン家の当主はあなたなのですよ? もっと毅然とした態度で奥方や息子に接してもいいのではなくて?」
「た、確かにおっしゃる通りです。ですが妻は……我がガルガードン伯爵家よりも高位な侯爵家の出です……それを持ち出しては私の言うことなど……」
「そこが間違っていると言っているのです。どんな家の出であろうが、嫁入りした以上は妻は夫に従うもの。ならば、妻の間違いは夫であるあなたが正すのが道理でしょう?」
ラルゴフィーリ王国において、女性の立場は決して良いとは言えない。
貴族の家督を女性が継ぐことはまずなく、結婚した婿が家督を継ぐか、男児を養子として迎えて家督を継がせる場合がほとんどである。
どうしても女性が継がなくてはならない場合、結婚していなくても未亡人を名乗り、「亡き夫の名代として家を継いだ」という体裁を取ることさえあるのだ。
「それに、ご子息はもっと厳しく躾ける必要があったのではなくて? 気に入らないことがある度に苛立ち紛れに部屋を破壊するようでは、とてもではないけど一人前の殿方とは言えませんよ?」
「そ、そのことを前公爵夫人がどうして……?」
さすがにいい年をした成人男性が、まるで子供の癇癪のように部屋を破壊するのは外聞のいいものではない。
そのためラーライクのあの癖は、伯爵家とその関係者だけの極秘事項であるはずだった。
「そんなもの、その気になれば幾らでも調べられます。あまりこの私を見縊らないで欲しいわね」
「は、申し訳ありません……。愚息も母親の影響か、私の言うことなど全く耳を貸さず……」
「だからあなたは父親としては問題があると言うのです!」
エリーシアにぴしゃりと断言され、アルモンドは思わず肩を竦めた。
「これからあなたの奥方と息子と会って話をしますが……最悪の場合の覚悟はしておくことね」
死刑の宣言にも等しいその一言。
がっくりと力なく項垂れたアルモンドを乗せ、公爵家の紋章の入った馬車はゆっくりと街の中を進む。
やがて、その前方に雪を被ったサヴァイヴ神殿の巨大な建物が見えて来た。
応接室全体がその怒声にびりびりと震える。
そう錯覚させるほど、ジュゼッペの身体から吹き出す怒気は凄まじかった。
そんな怒気を真っ正面から浴びせかけられ、シエナクァリアは座っている上質な布張りの長椅子からずり落ちて目を白黒とさせる。
「貴様はこの儂が金で動く人間だと思うたかっ!? 愛しい養女を金で売り渡す下劣な男と思うたかっ!? この儂を……サヴァイヴ教団の最高司祭である、ジュゼッペ・クリソプレーズを己のような矮小な人間と一緒にするでないわっ!! 見縊るのも大概にせい、この大たわけがっ!!」
「ひ、ひい…………っ!!」
怒気に中てられ、腰が抜けたシエナクァリアは、四つんばいのはしたない姿勢でばたばたと部屋の隅へと逃げていく。
彼女の家人もまた、ジュゼッペの怒気を間近で浴びて真っ青になってがたがたと震えていた。
ジュゼッペはまさに豚のように這うシエナクァリアに侮蔑の視線を投げかけると、部屋の外に控えていた者へと声をかけた。
「そろそろ、この豚夫人の馬鹿息子もカルセの罠にかかっておる頃合いじゃろう。馬鹿息子をすぐにここに連れて来い!」
部屋の外に控えていた者が返事をして遠ざかる足音を聞きながら、ジュゼッペは部屋の隅でがたがたと震えるシエナクァリアをひたと見据えた。
「先程は豚夫人などと呼んでしまって本当に申し訳ないわい」
思わぬ謝罪の言葉がジュゼッペの口から飛び出したことで、シエナクァリアは思わずほぅと安堵の溜め息を吐いた。
「い……い、いえ、こ、こちらこそ差し出がましいことを致しまして……」
だが、ジュゼッペはシエナクァリアのいる部屋の隅ではなく、全く明後日の方に向かって頭を下げた。
「こんな者と一緒にされては、豚の諸君らが気を悪くすると言うもの。済まんの、豚の諸君。心から謝罪しよう」
虚空に向かって告げられるその言葉。
その後、それまで以上に冷たい視線を向けられたシエナクァリアは、豚以下と言われても部屋の隅で震えることしかできなかった。
前触れもなく応接室の扉が開き、そこから一人の男性が部屋の中に放り込まれた。
その男性は身体を縄で戒められ、口にはボロ布が詰め込まれている。
床の上に無様に転がった男性の姿を見て、それまで震えているだけだったシエナクァリアが目を見開きながら立ち上がり、慌てて転がった男性の元へと駆け寄った。
「ら……ら、ラーラちゃんっ!? い、一体誰が私のラーラちゃんにこんな酷い真似をっ!? ゆ、ゆゆゆゆ、許さないわっ!!」
それまでの怯えた様子もどこへやら。怒りに燃える両の瞳を、シエナクァリアは開いたままの扉へと向けた。
その扉の向こうから、一組の若い男女が姿を見せた。言うまでもなく、辰巳とカルセドニアである。
そして、それまで実に仏頂面だったジュゼッペが、見る間にその表情を柔らかいものへと変えた。
「ご苦労ご苦労。随分とお主らには手間をかけさせてしまったのぅ。さて──」
再び冷たく細められたジュゼッペの目が、床に寝転び口に詰め込まれた布きれだけを取り除かれたラーライクと、その傍らに跪いてまるで幼子のように息子を抱き抱えるシエナクァリアへと向けられた。
「まだ役者は揃ってはおらぬが、まずはそちらの言い分から聞こうかの。のう、ラーライクとやら。お主の母親によると、お主とカルセとは相思相愛だとか。一体、いつお主とカルセは相思相愛になったのじゃな? 儂も結婚の守護神たるサヴァイヴ様の信徒じゃ。相思相愛の二人を引き裂くような真似はしたくないからの。お主がカルセと相思相愛だと思い至った理由を聞かせてもらおうか」
床に座り込んだガルガードン家の母子を、ジュゼッペは冷たく睥睨する。
口調こそ柔らかいがそこに含まれる言い様のない迫力に、辰巳は最高司祭という地位は伊達ではないと改めて理解した。
「お、畏れながらクリソプレーズ猊下。この私とカルセドニア殿が相思相愛なのは、偉大なるサヴァイヴ神もご承認であるはず! なぜならば、私がこれほどまでに彼女を愛している以上、カルセドニア殿も私を愛してくれているはず……そ、そうであろう、カルセドニア殿……?」
「そ、そうよっ!! 私のラーラちゃんがこれほどまでに愛情を注いであげているのだから、世の女性ならばそれに応えて当然よ! さあ、カルセドニアさん。あなたのお祖父様の前で……クリソプレーズ猊下の前ではっきりとあなたの気持ちを打ち明けなさいっ!! 一言ラーラちゃんを愛していると言えば、あなたを我がガルガードン家の花嫁として迎え入れてあげるわっ!!」
床に座り込んだまま喚き散らす母子に向かって、カルセドニアはにっこりと微笑んだ。
「はい、愛しております」
カルセドニアがはっきりそう口にしたことで、ガルガードン母子の顔に歓喜が浮かぶ。
だが、その歓喜は本当に一瞬だけだった。
「ですが、先程も申し上げた通り、私が愛する方はラーライク様ではありません」
「な、何をおっしゃるの、カルセドニアさんっ!? 私のラーラちゃんのどこが気に入らないと言うのっ!?」
信じられないと言った顔で喚くシエナクァリアの言葉に、ジュゼッペは「気に入る所がどこにあるか逆に聞きたいわい」とこっそりと心の中で吐き捨てた。
そしてカルセドニアは、呆然と自分を見上げるラーライクや、その傍らで喚き続けるシエナクァリアを無視して言葉を続ける。
「その方は……私が今よりももっと小さな存在だった頃から、ずっと私の傍にいてくださいました。私に餌を与え、水を与え、愛情を込めて私を育ててくださいました。時には卵を詰まらせた私を抱き抱え、夜遅くにお医者様の所へと駆け込んでくださったこともあります。私はそんな小さな存在だった頃から今日まで……ずっとその方を愛してきました」
「は……は? た、卵……?」
「あ、あなた……何をおっしゃっているの……?」
両手を胸の前で組み合わせ、まさに夢見る乙女といった雰囲気で語るカルセドニア。
だが、ガルガードン母子はカルセドニアの言っていることが理解できないらしく、ぽかんとした表情で彼女を見上げる。
そんな中、カルセドニアの言っていることを正確に理解できた唯一の人間である辰巳は、そんなこともあったなぁと場違いながらも懐かしいことを思い出していた。
それはカルセドニアが──いや、オカメインコのチーコが、辰巳の家族たちと一緒に暮らしていた時のこと。
ある日の夜──午後十時も過ぎていた時刻に、チーコが卵詰まりから卵管脱を起こしたことがあった。
オカメインコは人にとてもよく懐き、また病気にも罹りにくくて飼育しやすい鳥だが、卵詰まりを起こしやすいという欠点がある。
そしてかつてのチーコも、この卵詰まりを起こしたことがあったのだ。
しかも、ただ卵が詰まったのではなく、卵管までもが卵と一緒に体外に出てしまう卵管脱まで引き起こして。
総排泄腔から卵管で繋がったままぶらぶらとしている卵を見て、辰巳とその家族は慌てて電話帳で近所の獣医を調べて電話した。
だが、彼の住む地域の獣医は犬や猫が専門の所が多く、時間的なこともあってオカメインコを看てくれる病院はなかった。
電話帳をひっくり返すようにして調べ直し、やや遠いものの深夜でもあらゆる種類の動物の急患を受け付けてくれる獣医を見つけた辰巳たちは、チーコを抱えて父親の運転する車でその獣医へと急いだ。
予め電話でチーコの状態を知らせておいたため、そろそろ日付が変わる時間だというにも拘わらず、獣医たちは駆け込んだ辰巳たちを出迎えてくれた。
結果、チーコは何とか危険な症状を脱することができたのだ。
後に辰巳が獣医に聞いたところによると、あの卵管脱を起こしたまま朝まで放っておいたら、間違いなくチーコは死んでいただろうとのことだった。
辰巳が昔の思い出という名前の海にどっぷりと浸かっている間も、カルセドニアの言葉は続いていた。
「これも先程、ラーライク様にはお伝えいたしましたよね? こちらにおいでのタツミ・ヤマガタ様こそが、私の愛する方です」
「な、何を言うのだ、カルセドニアっ!! その男は神官とはいえただの平民ではないかっ!! どうして栄えあるガルガードン伯爵家の嫡男である私ではなく、平民の男などを選ぶのだ……っ!?」
「そ、そうよっ!! そんな男、どう見ても私のラーラちゃんより何もかも劣っているじゃないっ!! それなのにどうして…………!?」
既に薬の効果が抜けているらしく、縛られたまま必死に立ち上がろうともがくラーライクと、その言葉に便乗して喚くシエナクァリア。
二人はラーライクの方が、辰巳よりも全てにおいて勝っていると本気で信じているらしい。
「そ、そうか……やはり貴様がカルセドニアを騙しているのだな? それとも、何か弱みを握って脅しているのか? おのれ、卑怯な奴めっ!! 今すぐ、私のカルセドニアを自由にしろっ!! 今ならばこちらから金銭を払ってやってもいい。その金を持って、すぐさま我々の前から消え失せるがいいっ!!」
「そ、そうよっ!! 所詮は薄汚い異国の出の者の考えそうなことよっ!! まあ、いいわ。あなたの言い値の金額を払いましょう。そのお金を持って、今すぐこの街……いえ、この国から出ていきなさいっ!! これはガルガードン伯爵夫人としての命令ですっ!! 平民であるあなたは貴族の命令には逆らえないでしょう?」
「先程の口づけとて、貴様がカルセドニアに強制したのであろうが! どこまでも薄汚い奴だっ!!」
なぜか勝ち誇った顔で言い放つガルガードン母子。どう考えたらそのような結論に至るのか理解できない辰巳は、とうとう頭痛さえ感じ始めた。
「俺はカルセドニアを騙しても脅してもいません。純粋に彼女のことを大切に想っています」
頭痛を振り払うように辰巳が言い切る。
その辰巳の傍らにいたカルセドニアが、ぱあああああっと顔を輝かせて嬉しそうに彼を見つめる。
彼女のその様子を見れば、少なくともカルセドニアが辰巳に脅されていないことは誰にもすぐ分かるだろう。
だが、ガルガードン母子だけは例外のようだ。
「ふん、口では何とでも言える! いいだろう。貴様がどうしてもこの街から出るつもりがないのならば、我がガルガードン家の総力を以て、貴様を抹殺してやるっ!! 貴様が生きていける場所は、既にこのラルゴフィーリ王国にはないものと覚悟しろっ!!」
「そうよ! 我がガルガードン家に逆らうことは、ラルゴフィーリ王国そのものに逆らうも同義。既におまえは国家反逆罪にも等しい罪を犯していることに気づいていないようね?」
だめだ。
ガルガードン母子の言葉を聞いて、辰巳はそう確信した。
彼らは彼らだけの世界に生きている。彼らは彼らを中心にして、世界が回っていると信じて疑ってもいない。
おそらく、これ以上辰巳が言葉をいくら重ねても彼らは理解しないだろう。いや、理解するつもりもないのだ。
そして、ここまで自分勝手な母子を前にして、さすがに温厚な方の辰巳も段々と腹が立ってきた。
「…………いい加減にしろよ? どうしてそこまで自分勝手なことが言える? どうしてそこまで自分の都合のいいように世界が見える? それがいい年をした大人の……人々の上に立つ貴族のすることか……?」
押し殺したような辰巳の低い声。同時に、彼の身体から黄金の魔力光がゆらりと立ち上る。
魔力を見ることができるカルセドニアとジュゼッペは、無意識に放たれる魔力を目の当たりにして彼の怒りの深さを知る。
だが、魔力を見ることのできないガルガードン母子は、辰巳の言葉が気に入らなかったらしい。
「ま、まあ、平民の分際で、貴族に対してなんて無礼な口の利き方を…………く、クリソプレーズ猊下! 今のこの者の暴言をお聞きになりましたわね? 平民が貴族に向かって暴言を吐くなど、これはもう立派な罪です。さあ猊下。今すぐこの愚か者を捕えてくださいませ!」
「そうだとも! 貴様はガルガードン家に……いや、ラルゴフィーリ王国に向かって唾を吐いたにも等しい! 当然、それ相応の罪に問われるぞ! これで貴様も終わりだ!」
母子は勝ち誇る。確かに平民が貴族に向かって暴言を吐けば、それだけで罪に問われるのは間違いない。
「それがどうした?…………俺のチーコに対するこの想いが仮に重罪だとしても、俺は絶対に引かない……相手が貴族だろうが国だろうが、俺はこの想いを諦めるつもりは一切ない! 国家反逆? 上等だ! 例え一国が相手であろうとも、俺は俺の想いを貫いてみせるっ!!」
はっきりとした、辰巳の宣言。
これを聞いたジュゼッペは満足そうに何度も頷き、カルセドニアは真紅の瞳に涙を湛えながらも、嬉しそうに顔を紅潮させた。
そしてガルガードン母子は、ぽかんとした表情でただただ辰巳を見つめるばかり。
彼らにしてみれば、一介の平民が国に逆らってまで己の意志を貫くなど、理解の範疇の外に違いない。
そして。
そして、辰巳たちのいる応接室の扉が突然開き、そこから一人の老婦人がぱちぱちと手を叩きながら入って来たのは、その丁度その時のことだった。