蠢く影
季節は移り変わって行く。この世界に召喚された当初は、海の節──春だったが、今では節も巡って宵月の節──冬へと入っていた。
王都レバンティスの一般住宅は、赤茶色の煉瓦のようなものを積み上げて造られている。そのため王都の外観は全体的に赤茶色なのだが、雪が降り積もった今では白一色に染まっていた。
そして、変わったのは王都の外観だけではない。
辰巳の日常もまた、それまでとは大幅に変化した。
正式に神官戦士として認められたことで、神官としての身分も下級神官から上級神官へと上がった。
そもそも下級神官とはある意味で見習いでもあるので、辰巳もこれで正式な神官と認められたことになる。
それに合わせて、身に着ける神官服と聖印も、上級神官を示す物へと変更された。だが、聖印はともかく、新しい神官服に袖を通す機会は意外と少ない。
神官戦士となった辰巳は、神殿内では鎧を着用することが多いからだ。
神官戦士を示す、サヴァイヴ神の聖印が刻まれた要所に補強の入った鎖鎧。板金鎧は神官戦士の中でも隊長のみが身に着けるので、ヒラの神官戦士は全員辰巳と同じ武装である。
そして、腰には剣。これもまた、神官戦士の身分を表わすものだった。
聖印の入った鎧を身に着け、腰に剣を佩いた神官戦士姿の辰巳に、カルセドニアがうっとりと見惚れていたのは言うまでもない。
あの「卒業試験」には、辰巳を含めた見習い全員が合格していた。
辰巳を除いた四名は、五つある分隊の内の四つにそれぞれ一人ずつ所属することになった。
なぜ辰巳がバースたちのように分隊に所属しないのかと言えば、彼の所属は通常の神官戦士ではなく魔祓い師となるからだ。
そのため、今後は対人だけではなく対魔獣の経験も積んでいかなければならない。
辰巳は市井の魔獣狩りと同じように個人で、もしくは少人数のグループで魔獣退治の依頼を受け、魔獣と対決して経験を積んでいくことになるだろう。
友人たちとは実質的に行く道を違えたことになるが、それでも魔祓い師となることが辰巳の目標である以上は仕方ない。
時に神官戦士に混じって武術の鍛錬を続け、時にジュゼッペやカルセドニアから魔法の指導を受ける。
家に帰れば、毎日カルセドニアが笑顔と共に出迎え、彼女の作ってくれる料理に舌鼓を打ち、風呂に入って暖まった後は、カルセドニアと共にベッドに入る。
ちなみに、カルセドニアを背中から包み込むように抱き締めながら眠ると、なぜか彼女の寝相が良くなることが判明してからは、常にその体勢で眠るようにしている辰巳である。
折しも今は雪の舞散る季節。互いの体温を心地よく感じながら、毎日ぐっすりと眠る二人であった。
忙しくも充実した日々を送っている辰巳だったが、そんな日々に波紋を投げかける者の影もまた、少しずつ見え始めるようになっていた。
「おまえがタツミとか言う奴だな?」
一日の勤めを終え、神殿からの帰り道。突然背後から声をかけられ、辰巳は反射的に振り向いた。
そこには風体の良くない大柄な三人の男たち。いかにもチンピラとかゴロツキというに相応しい人間だ。
棍棒のように太く、ハンマーのように大きな拳を誇示しつつ、三人の男たちは辰巳へと近づいてくる。
「ちょっと話があるんだがよ?」
「話……? 一体何の話です? 俺、あなたたちとは初対面だと思いますけど?」
辰巳が男たちを訝しげに見れば、男たちはにやにやとした笑みを浮かべながら辰巳を取り囲むようにして立つ。
「確かに初対面だが、なぁに、そんなに手間は取らせねえって。ただ……ここじゃ場所が悪い。少し付き合いな」
太い腕を馴れ馴れしく辰巳の肩にかけながら、男たちは彼を誘導する。
彼らの視線の先には薄暗い路地。どうやら彼らの言う話とは、人目を避けてしなければならない類のものらしい。
端から見れば、ガラの良くない男たちに絡まれている青年。通りかかる人々は、好奇心や心配そうな目を辰巳たちに向けるが、そこに割って入ろうとする者はいなかった。皆、男たちが振り撒く暴力の気配を敏感に感じ取っているのだろう。
もしも辰巳が神官戦士の証である鎧を着ていたら、男たちや周囲の反応ももう少し違ったものになっていたかも知れない。
だが、この寒い季節に野外で金属製の鎧を着て歩くのはさすがにきつい。鎧下を着込んでいても、氷のように冷えた鎧が容赦なく体温を奪うからだ。
そのため、辰巳は神殿への行き帰りは分厚い防寒具を着込んで歩き、鎧は神殿でのみ着るようにしていた。
男たちに半ば背中を押されるように、路地へと強引に歩かされる辰巳。だが、今の辰巳はこの世界に来たばかりの彼とは違う。
背中を押されつつも、冷静に男たちの動きを観察する。どうやら男たちは辰巳が怯えていると思っているらしく、完全に油断しきっていた。
辰巳は油断している男たちの隙を突いて、あっさりと囲みから脱出。そのまま男たちから逃げるように、彼らが辰巳を引き込もうとしていた路地へと駆け込んだ。
「ま、待ちやがれ、この野郎っ!!」
「馬鹿が。自分から路地に逃げ込みやがったぜ!」
辰巳に逃げられて一瞬焦りを見せた男たちだったが、辰巳が自分から路地へと逃げ込んだのを見て、嫌らしい笑みを浮かべながらその背中を追いかけた。
そして、男たちが路地へと足を踏み入れた時。そこに辰巳の姿はなかった。
「ど、どこに行きやがったっ!?」
薄暗い路地は真っ直ぐに奥へと伸びている。そして、この路地には身を隠せるような所はない。
もしも路地の奥へと逃げ込んだのならば、その背中ぐらいは見えるだろう。
それなのに、辰巳の姿は見当たらない。
男たちはそれまでの余裕のある態度とは真逆に、焦りを浮かべながら辰巳の姿を探し求める。
周囲をきょろきょろと見回すが、やはり辰巳の姿はどこにもない。
「くそっ!! 奥か?」
「それしか考えられねえだろ!」
「足だけは速いネズミみてえな野郎だぜ!」
男たちは口々に罵りながら、辰巳の姿を求めて路地の奥へと走り去って行った。
「何だったんだ、あいつらは……」
ばたばたと走り去る男たちを見下ろしながら、辰巳は一人呟いた。
路地を形成する建物の屋根の上。降り積もった雪に半ば埋もれるような体勢で辰巳はそこにいた。
路地に駆け込み、男たちの死角に入った瞬間、辰巳は一旦上空へと転移、そして上空から建物の屋根を視界に入れ、その上へと再び移動し、その後は雪の中に身を伏せつつ男たちの様子を窺っていたのだ。
一旦上空へと転移したのは、路地からは屋根の上は視認できなかったからである。
当然ながら、辰巳にはあんな男たちに絡まれるような心当たりはない。
では、単なるカツアゲやタカリの標的に、たまたま辰巳が目をつけられただけだろうか。
いや、あの男たちは辰巳の名前を知っていた。つまり、辰巳個人に用があったということになる。
「よく分からないけど、しばらく用心した方が良さそうだな。チーコやジュゼッペさんにも、このことは知らせておこう」
辰巳は男たちが戻って来るかもしれないと、屋根の上で身を伏せつつしばらく様子を見ていた。だが、結局男たちが戻って来ることはなかった。
「……帰ろうか。このままここにいても寒いだけだし……」
ぶるりと身体を震わせつつ、辰巳は立ち上がって身体に付いた雪を払う。そして、そのまま視界内の遠く離れたとある屋根へと転移した。
念のため、そのままを屋根から屋根へと転移を繰り返し、辰巳は家へと向かうのだった。
辰巳がそんな遭遇を果たしていた頃。
サヴァイヴ神殿の最高司祭であるジュゼッペは、とある人物の元を訪れていた。
「久しいの。カルセから聞いたのじゃが、体調を崩しておったとか? もう大丈夫なのかの?」
暖炉で薪が燃え上がり、暖かく過ごしやすい温度に保たれた部屋に通されたジュゼッペは、古い友人と顔を会わせていた。
「ええ。カルセの魔法のおかげで、こうしてあなたの老いぼれた顔をもう一度見ることができたわ」
「何をぬかすか。老いぼれたのはお互い様じゃろうが」
「うふふ。それもそうね」
互いに憎まれ口を叩き合うものの、二人の表情は実に楽しそうだ。
このような憎まれ口を平気で交わせるほど、二人の中は親しいのだろう。
「それで? 本日はどのような用件で来たの? まさか、私の体調の良し悪しを伺うためじゃないでしょ?」
「無論じゃよ、エリーシア。本日はお主に尋ねたいことがあってのぉ。…………お主、最近色々と嗅ぎ回っておるそうじゃな?」
それまで穏やかだったジュゼッペの視線が、不意に鋭いものへと変化する。そして、それに合わせてエリーシアのものもまた。
「まあ、耳が早いわね」
「儂にも耳目となってくれる者ぐらいおるでの。それで何のつもりじゃな?」
「あら、当然でしょう? 私にとってもカルセは孫のようなものよ? その孫の相手がどんな男なのか……気にならない方がおかしいわ」
「ふむ……それで? お主の目に婿殿は……タツミはどのように映った?」
「そうね……信頼できる配下の者に聞き込ませたところだと、真面目で誠実な人物のようね。でも、正直に言わせてもらえば……真面目すぎるところが逆に気になるわ」
エリーシアが入手した辰巳の情報は、どれもこれも彼が真面目だと言わざるをえないものばかりだった。
朝は早くから神殿に向かい、神殿での勤めが終われば寄り道もせずに真っ直ぐに自宅へと戻る。
辰巳ぐらいの年齢の成人男性が、仕事帰りに仕事仲間と一緒に酒を飲んで帰るということを一度もしていないという事実が、エリーシアには逆に不審だったのだ。
あまりにも真面目すぎて、敢えて周囲にそう思い込ませようとしているのではないか。それがエリーシアが辰巳に抱いた疑問であった。
エリーシアがその疑問を口にした時、ジュゼッペは大きな口を空けて大笑いした。
「ほっほっほっほっほっ!! なんじゃ、お主はそんなことを気にしとったのか! いやはや、女狐の考えそうなことじゃのぅ」
「あら、私としては、あなたのような古狸が、この点に気がつかないほうが不思議なのだけれど?」
大笑いされて気分を害したのか、むっとした表情でエリーシアが問い返す。
「それは常識の相違という奴じゃな」
「常識の相違……?」
ようやく笑いが収まったジュゼッペは、エリーシアに向けて大きく頷いた。
「然様。お主もタツミがどこから来たのか、カルセから聞いておろう?」
ジュゼッペの問いに頷くエリーシア。彼女も辰巳がカルセドニアに異世界から召喚された事実は知っている。
「タツミが元いた世界……ニホンとか言うたかの? そこでは、タツミはまだ成人前の子供なんだそうじゃ」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 確か、タツミという人物は16歳だったはずよ? 16歳にもなって、成人と認められないなんて……」
「だから言うたんじゃよ。常識の相違だとな」
「つまり、私たちはタツミという人物を大人だと決めつけていたけど、タツミ本人は自分をまだ子供だと思っている……と?」
「……というか、故郷での風習が抜けきってはおらんようじゃの。タツミから聞いたところじゃと、彼がおった国では成人するまで酒も煙草、賭博なども、全て国の法で禁止されておるらしい。無論、中には法に従わずにこっそりとそれらに手を出す者もおるそうじゃが、それはどちらかと言えば少数らしいの。ニホンという国の彼と同じ年頃の若者は、皆多かれ少なかれタツミのような生活をしておるそうじゃ」
「……私たちにとっては真面目すぎると思える彼の生活も、彼にしてみればごく普通だったってこと……?」
「国が変われば生活の風習も当然変わる。それが異世界ともなれば、我々の常識とはかけ離れたことがあっても当然じゃろ?」
ジュゼッペの言葉を噛みしめるように、エリーシアはゆっくりと目を閉じた。そしてしばらくその姿勢で何やら考え込むと、再びゆっくりと目を開く。
「…………私の考えすぎだったってこと……?」
ゆっくりと吐き出されたエリーシアの言葉。それを聞いてジュゼッペは満足そうに微笑む。
「お主がカルセを大切に思ってくれることは、儂としてもとても嬉しい。じゃが、もう少しあやつを信じてみてはくれんかの? その上で、どうしてもタツミが信用できぬと言うのならば……一度直接会ってみたらどうじゃな? 一度でも会えば、あやつのことはすぐに理解できると思うがの」
「そうね……。どうもすぐに裏から手を回そうとするのは私のよくない癖なのかもね」
苦笑混じりに言うエリーシアに、ジュゼッペもほっほっほっといつものように笑う。
「それは致し方あるまいて。貴族なんてものは他人を動かして当然であり、自ずからの手を動かすのは最後の最後じゃからのぅ。それに、普段から油断のならぬ貴族どもを相手にしているお主じゃ。つい穿った見方をするのも無理もないわい」
「確かに、相手によって出方を変えなくちゃね。そんなことも忘れていたなんて、確かに私も耄碌したのかもしれないわ」
「なに、それに気づけただけでも重畳よ。性の悪い者になると、最後の最後までそこに気づかんからのぅ」
朗らかに笑うジュゼッペに釣られるように、エリーシアもまた優しく微笑んだ。
だが、その笑みはすぐに再び緊張したものへと変化する。
「性の悪い者で思い出したけど……私以外にもタツミにちょっかいをかけようとしている者がいるわよ?」
「ほほぅ。それは初耳じゃの。で、どこの誰じゃ?」
「ガルガードン伯爵家の嫡子……と言えば分かるかしら?」
「ああ、いまだにしつこくカルセに求婚してくる、血筋以外に何の取り柄もない馬鹿息子か……」
ジュゼッペもラーライク・ガルガードンについては思う所があるようで、すぐに納得した表情を浮かべる。
「お主のことじゃから、既に何らかの手は打ってあるんじゃろ?」
「ええ。タツミという若者が、果たしてカルセの言う通りの人間なのか否か……ラーライクを試金石代わりにしてみようと思っているところよ」
「うむ、この際じゃ。ひとつどこぞの馬鹿息子を懲らしめるとするかのぅ。婿殿にはちと悪いが、カルセの憂いを絶つためならば納得してくれるじゃろ。うむ、その件に関しては儂も一枚噛ませてもらうぞ?」
まるで悪戯を思いついた子供のようににやりと笑うジュゼッペを見て、エリーシアもまた含みのある笑みを浮かべた。
何度かの転移を経て、辰巳は自分の家の玄関まで帰って来た。
魔法の鍵を合い言葉で解錠し、家の中へと入る。
家の中は暖炉に火が入れられ、とても暖かい。
その心地よい温かさにほっと息を吐きながら防寒着を脱いで居間へと入った瞬間、どんという衝撃が背後から襲って来た。
──もしかして、誰かが待ち伏せを?
先程の男たちのことを思い出しながら、辰巳は厳しい表情を浮かべながら背後へと首を巡らせる。
すると、そこに最近ではすっかり見慣れた白金の髪の毛が躍っているのが見えた。
「えっと……チーコ……?」
「はい、私です。うふふ。びっくりしました?」
背後から辰巳に抱き着き、にっこりとした笑みを浮かべるカルセドニア。
どうやら辰巳を驚かせようと居間へと続く扉の影に隠れていたらしい。きっと辰巳が転移した際の魔力を感じ取ったのだろう。
「? どうかしましたか?」
だが、辰巳の表情から何かを察したのか、カルセドニアはこくんと首を傾げる。
冷静に考えてみれば、誰かがこの家で待ち伏せを行うことはまず不可能なのだ。
この家の鍵は全て魔法で施されており、普通の盗賊などでは開けることはできない。しかも、解錠の合い言葉に設定されているのは日本語なので、実質的に解錠できるのは日本語を理解できる辰巳とカルセドニア──前世の記憶で日常会話ぐらいなら理解できる──だけ。
そう思い至った辰巳は、ようやく身体から力を抜いた。
そして、怪訝そうに自分を見つめるカルセドニアに、今日の神殿からの帰り道にあった出来事を説明する。
「……まあ。それでは、誰かがご主人様を狙って……?」
「……そうなんだと思う。だけど、俺には誰かから狙われるような心当たりなんてないしなぁ……」
こちらの世界では、まだまだ知り合いの少ない辰巳である。彼が誰かから狙われるような覚えはない。
いや、あるとすればただ一つ。
「……もしかして、あいつらチーコの信奉者だったのかな?」
辰巳がカルセドニアと一緒に暮らしていることは、既にかなり有名になっている。
もしかして今日出会った男たちが《聖女》の信奉者だとすれば、逆恨みで狙われても不思議ではないかもしれない。
「うーん……だとすると、今後どうしたものか……まあ、逃げるだけならいくらでも逃げきる自信はあるけど」
辰巳の魔法特性から、彼を捕まえるのは極めて難しい。それこそ魔力が一切ない空間に閉じ込めるか、窓や扉のない完全に隔離した部屋に閉じ込めるかでもしなければ、彼を捕えておくことは不可能だ。
「その件に関しては、明日にでもお祖父様にも相談してみましょう。それより──」
カルセドニアは辰巳の腕を取り、暖炉の前まで引っ張っていく。
「ご主人様の身体、すっかり冷えきっています」
「そりゃあ……雪の上に寝そべったりしたからなぁ……」
「早く暖まらないと風邪を引いてしまいますよ?……えいっ!!」
「うわぁっ!?」
カルセドニアは、暖炉の前に腰を落ち着けて暖を取る辰巳の背中を、改めて抱き締めた。
「……どうですか? 暖かいですか……?」
「う、うん……凄く暖かい……ありがとう、チーコ」
顔を紅潮させ、視線を泳がせる辰巳を見て、カルセドニアはくすくすと笑うと背後からそっと辰巳の頬に自分の頬を擦り寄せた。
自分たちを取り巻く影のことも一時的に忘れ、ある意味で通常運転の二人だった。