広がる噂に引き寄せられるモノ
「な、なにっ!? 《聖女》に……カルセドニアに婚約者だとっ!?」
その話を彼の元にもたらした配下の者に向かって、彼は驚愕とも怒りともつかない表情を向けた。
年は二十歳前後か。燻んだ金髪に丁寧に櫛を入れた、なかなかに整った容貌の長身の男性である。
身に着けている物も一目で上等だと分かる物ばかり。それはすなわち、彼が支配階級──貴族の一員であることを物語っている。
「か、カルセドニアに婚約者……? ま、間違いないのか……?」
「は、はい……。近頃、サヴァイヴ神殿や市井で囁かれている噂でありますが……かなり信憑性の高い噂のようです」
主である人物の顔色を窺いながら、その噂話を持ち込んだ男は更に言葉を重ねる。
「し、しかも……既にカルセドニア様はその婚約者と一緒に暮らしているとか……」
「な────っ!?」
男が目を見開く。
これまで彼が何度も何度も結婚を申し込んできた相手──「サヴァイヴ神殿の《聖女》」カルセドニア・クリソプレーズ。
そのカルセドニアが、自分の求婚を受けるどころか他の男と婚約し、しかも既に一緒に暮らしているとは。
男は怒りのあまり、一瞬とはいえ視界が真っ赤に染まる。
「な、何者だ……? 何者が私のカルセドニアを奪ったのだ……?」
「は……そ、それが……噂によりますと、異国から渡ってきた平民だとか……」
「へ、平民だと……? このラルゴフィーリ王国に代々続く、ガルガードン伯爵家の次期当主である、このラーライク・ガルガードンの求婚を断っておきながら、《聖女》の選んだ相手が平民だと……」
どん、と大きな音が部屋に響く。部屋の主である男、ラーライク・ガルガードンが力任せに手近にあった小さめのテーブルを蹴り上げたのだ。
蹴り上げられたテーブルは、勢いよく天井にぶつかって粉々になる。
頭上に降り注ぐ木の破片を気にすることもなく、ラーライクは大きく肩を上下させた。
「あ、あの、ラーライク様……? へ、平民とは言っても、サヴァイヴ神殿の最高司祭様がつきっきりで教育し、ゆくゆくは最高司祭の地位をその者に譲るのではないかとの噂もあるほどで……け、決してただの平民という訳では……」
配下の男が更に言葉を重ねるが、怒り心頭のラーライクには聞こえていない。
「おのれ……あの目障りな《自由騎士》が神殿からいなくなり、これで《聖女》は確実に私のものになるはずだったものを……平民だと? 平民が貴族であるこの私から《聖女》を奪っただと……?」
ラーライクは血走った目を、傍らに控える配下に向けた。
「調べろっ!! 大至急、その平民について調べ上げるのだっ!! そして何としても《聖女》と別れるように仕向けろっ!! 弱みを握ろうが暴力で脅そうが、金を掴ませようが方法は問わんっ!!」
主から命を受けた男は、これ幸いとばかりに一目散に部屋から出ていく。このまま部屋に留まれば、ラーライクからどんな八つ当たりをされるか分かったものじゃない。
配下の男がいなくなり、ラーライクは収まらない怒りに任せて部屋の中の調度品を手当たり次第に破壊していく。
彼の部屋は、金にものを言わせた実に絢爛豪華な部屋だった。
配置された家具は高級品ばかり。飾られた調度品も、どれもこれも一流の職人の手によって作り出された逸品である。
彼の部屋に置かれた家具や調度品の総額は、一般市民が十数年は遊んで暮らせるぐらいの金額になるだろう。
だがそんな数々の芸術品たちも、何も考えずにただ集められ並べられているだけなので、「品の良さ」という観点からは一歩も二歩も遠ざかっていたが。
机の上に飾られていた高価な陶器製の花瓶を床に叩きつけて割り、壁に飾られていた高名な画家が描いた絵を短剣で切り裂き、床に敷かれた珍しい魔獣の毛皮を乱暴に踏みつけ。
ガルガードン家に仕える侍女や使用人は、とばっちりを受けてはたまらないと怯えてラーライクの部屋に近づくのを躊躇うのを余所に、ラーライクは嵐のように自分の部屋を破壊する。
やがて、行きすぎるほどに豪華だった部屋は、見るも無惨な姿を晒すことになる。
辰巳の目の前に立つのは、彼らの教官であるオージン戦士長。
今、辰巳とオージンの二人がいるのは、神官戦士たちが日々の鍛錬に勤しむ鍛錬場。その鍛錬場の中央で、二人は互いに武具を身に纏って対峙していた。
辰巳は神官戦士見習いの制服とも言える簡易的な革製の鎧と、すっかり手に馴染んだ訓練用の剣と盾。
対するオージンはと言えば、神官戦士、それも戦士長の位にあることを示す聖印の刻まれた板金鎧。その手には長柄の戦斧を両手で構えている。
「じゃあ、そろそろ始めるか。用意はいいか、タツミ? 先程も説明したが、最初は防御に専念しろよ?」
「はい! 了解です!」
オージンの問いかけに、元気に応えるタツミ。そんな彼らを遠巻きにするように、バースやニーズたち兄弟、先輩の神官戦士たちまでが、固唾を飲んでタツミとオージンを見つめていた。
もちろん、その中にはカルセドニアの姿もある。
彼女の紅玉のような瞳は、心配そうな光を浮かべてじっと辰巳へと向けられて微動だにしない。
「よし、じゃあ……いくぜ!」
言い終わるや否や、オージンが放たれた矢のように駆け出し、一気に辰巳との距離を詰める。
一気に彼我の距離を詰めたオージンは、大きく振りかぶった戦斧を辰巳へと振り下ろす。
今、オージンが使用しているのは、辰巳が使っているのと同じ訓練用に刃引きされた戦斧である。だが、その重量は実戦用のものと変わることはなく、例え刃がなくともまともに当たればその重量だけで大怪我を負うだろう。
だが、辰巳は冷静に襲いかかる戦斧の軌道を見極める。
そして、戦斧の軌道上に左手に装備した盾を割り込ませる。辰巳は盾をしっかりと構えながら、自分へと振り下ろされる戦斧から目を離すことなくじっと見据えた。
次の瞬間、どん、と大きな音が鍛錬場に響く。音の原因はオージンの戦斧と辰巳の盾が激突したから──ではなく、オージンの戦斧が辰巳の足元の地面に激突したからだ。
「くっ……!」
仕掛けた攻撃が外れたと理解した瞬間、オージンは後方へと大きく飛び退いた。
そして、相変わらず盾を構えたままの辰巳をぎろりと睨む。
確かに手加減はしたものの、それでも辰巳はオージンの一撃を躱した。
いや、先程のは躱されたのではない。受け流されたのだ。
盾と戦斧が接触する瞬間、辰巳は盾を操作してオージンの攻撃を横へと受け流した。
そのためオージンの戦斧は、辰巳の身体に触れることなく彼のすぐ横の大地を抉るだけに終わったのだ。
もしもこれが実戦ならば、攻撃を受け流された瞬間、オージンはがら空きになった横腹を剣で貫かれていただろう。
その事実に思い至り、オージンは人知れず小さく震えた。
怖れたのではない。喜んだゆえに。
──鍛錬中から気づいてはいたが、こいつは盾の扱いが上手いな。
どうやら、辰巳は攻めよりも守ることに適しているようだ。
がっちりと守りを固めて敵からの攻撃を耐え凌ぎ、生じた僅かな隙を見逃さずに突く。いわゆる反撃狙いが辰巳の基本の戦術。
今、辰巳は顔の下半分から腹辺りまでを盾で隠した状態で立っていた。
身体を横にして、オージンと相対する面積を少しでも小さく。左手の盾を前に押し出して、その影に隠れるように構える。そして、その盾と身体の更に影に、右手に持った剣を隠すようにしている。
オージンからは辰巳の剣は完全に見えない。そのため、辰巳の攻撃の初動が読みにくい。
もちろん、反撃狙いの戦術もこの構えも、辰巳に教えたのはオージン自身である。だが、こうして直接対戦してみると、辰巳のこの構えと反撃狙いの戦術がどれだけ厄介であるかを痛感させられる。
しかも、オージンの得物はどうしても動作が大きくなりやすい長柄の両手斧だ。動作が大きくなれば、どうしたって攻撃を読まれやすくなる。
しかも、オージンから直接狙える場所は足と脳天ぐらいしかない。だが、それは辰巳だって承知しているだろう。そんな所へ攻撃をしかけても、あっさりといなされて隙を作るだけだ。
──盾の扱いが巧みな奴に守りに入られると、本当に厄介なもんだな。だが俺が教えたこととは言え、ここまでモノにするとは思ってもみなかったってもんだ。
内心でそう呟きながらも、オージンは嬉しそうな笑みを浮かべる。
師としては、教え子の成長はやはり嬉しい。しかも、辰巳は実に素直な教え子で、こちらの指示に何の不満を漏らすこともなく黙々とひたすら鍛錬に打ち込んできた。
彼ら──辰巳とその同期たちが、神官戦士の見習いとして鍛錬を始めてかなり経つが、鍛錬の成果は着実に現れている。
嬉しそうな笑みを好戦的な笑みに切り替え、オージンは竜巻のような連続攻撃を辰巳に叩き込んでいく。
しかし、その怒涛のような連続攻撃を、辰巳は落ち着いて捌く。
もちろん、オージンが手加減していることを辰巳は承知している。もしもオージンがその気になれば、構えた盾ごと辰巳の腕を破壊することは造作もないだろう。
それが分かっているからこそ、辰巳は落ち着いてオージンの攻撃に対処する。
教官であるオージンは、辰巳が捌ききれないような無茶な攻撃はしてこない。もしかすると、敢えて無茶な攻撃をしてくるかも知れないが、それでも大怪我をするようなものではないだろう。
これはあくまでも鍛錬であり、実戦ではないのだ。そして、この鍛錬でオージンは見極めているのだ。現在の辰巳のその実力を。
左右から襲い来る連撃を盾でいなす。
頭上から降ってくる重撃を盾の角度を調整して横へずらす。
下から掬い上げる豪撃を後ろへ下がってやり過ごす。
次々に襲いかかってくる攻撃を捌きながら、ふとオージンの顔を見てみると実に楽しそうに笑っていた。
随分と上達したな。
無言でそう言われたような気がして、辰巳も同じように笑う。
それを見たからでもないだろうが、それまでの猛攻を突然中止し、オージンが口を開いた。
「よし。じゃあ、次はそっちから攻めて来い。何なら、例の魔法を使ってもいいぞ?」
オージンのその言葉に、辰巳は少しだけどきりとする。どうやらオージンは、辰巳の魔法について知っているらしい。
おそらくは、ジュゼッペあたりから聞いたのだろう。
「分かりました。チーコ」
「はい、ご主人様」
辰巳に呼ばれて、観戦していたカルセドニアが彼に近寄る。
今、辰巳の腕にはジュゼッペから借りた魔力を封じる魔封具が装着されている。
この魔封具は本来、罪を犯した魔法使いに対して使用するものだ。
そのため、専用の鍵を使わないとこの腕輪は外れない。その鍵をカルセドニアに預けてあった。
「がんばってくださいね」
鍵を使って辰巳の腕から魔封具を外しつつ、カルセドニアが辰巳を激励する。
「ああ。だけど、もしも怪我をした時はよろしくな?」
「はい。任せてください」
短い応酬。だが、そこに含まれた深い絆を感じ取れない者は、この場に集まっている者の中にはいない。
互いに絶対の信頼を込めた笑顔を浮かべてしばし見つめ合い、二人は別れる。
辰巳はいつものように盾を前面に押し出して構え、カルセドニアは元の場所に戻って辰巳を見守る。
「じゃあ、教官……行きます!」
大きく息を吸い込んだ辰巳がそう宣言した瞬間、彼の姿はその場から掻き消えた。
辰巳の姿が消える。
そして次の瞬間、辰巳はオージンの目の前に現れた。
「うおっ!?」
既に辰巳は右手の剣を振り上げている。だが、その剣が振り下ろされるより僅かに早く、オージンは大きく後ろへ後退していた。
「こ、これが猊下の言っていた《瞬間転移》か……?」
オージンが目を瞬かせながら呟いた時、既に辰巳の姿はない。
そのことに気づいたオージンが再び後ろに大きく下がるのと、辰巳が再度出現したのは殆ど同時だった。
飛び退いたオージンがいた空間を、辰巳の剣が薙ぐ。そして、剣を振り切る前に再び辰巳の姿が消滅する。
消滅と出現を何度も繰り返し、攻撃を繰り出す辰巳。
時にオージンの正面、時に背後に出現。更には真横、斜め前、斜め後ろ。消えては出現し、攻撃を繰り出してはまた消える。
さすがのオージンも、これには完全に防戦一方に追い込まれた。
オージンの武器は取り回しに難のある大型の両手斧である。対して、辰巳の武器は小回りの利くやや短めの剣。
オージンの武器の間合いの内側に、転移によって簡単に入り込める辰巳にとっては相性のいい相手と言えるだろう。
それでも、オージンは巧みに戦斧を操って辰巳の攻撃を防ぐ。
辰巳の技術がまだまだ拙いとはいえ、連続する奇襲じみたこの攻撃をことごとく防ぐオージンの技量も並大抵ではない。
だが、オージンの表情から徐々に余裕が失われていく。
辰巳の振るう剣閃が、徐々にその速度を上げているのだ。
「こ……こいつは……?」
辰巳の異常なまでの剣速に、オージンが目を白黒させる。
魔法使いにだけ見える黄金の魔力光を全身から放ちながら、辰巳は更にその速度を上げていった。