学生のノリで
それはある日のこと。
いつものように午前中の鍛錬を終え、辰巳とバースがカルセドニアとの昼食の場になっている、神殿の庭のいつもの場所へと向かう途中のことだった。
「あ、あの……タツミ・ヤマガタ様……でいらっしゃいますか……?」
突然、背後から若い女性の遠慮がちな声が聞こえ、辰巳は振り返った。
そこには見慣れない少女が一人。年齢は辰巳と同じか、少し下だろうか。
ふわふわした栗色の髪と青味がかかった灰色の瞳の、決して美人とか美少女ではないものの、愛敬を感じさせる可愛い印象の少女だ。
「あ、はい。俺が辰巳ですけど……?」
神官服と聖印のデザインから、彼女も辰巳たちと同じ下級神官だと分かる。
だが、確かに名前を呼ばれたものの、辰巳の見知らぬ人物だった。
「あぁ、良かった……黒い髪で黒い目の下級神官だと聞いていましたけど……もしも人違いだったらどうしようかと思いましたぁ」
にこーっと微笑むその少女。だが、何かを思い出したのか、すぐに表情を引き締めた。
「申し後れました。私、下級神官のクーリと申します。本日はカルセドニア様の使いで来ました」
「チーコ……いや、カルセの使い……?」
はい、と元気よく返事をしたクーリと名乗った少女は、カルセドニアの用件を辰巳へと伝えた。
本日、カルセドニアは急遽とある貴族の屋敷に向かうことになったらしい。
かつてより彼女と懇意にしている貴族の老婦人が、少々体調を崩したらしいのだ。
その老婦人の使用人から治療の依頼を受けたカルセドニアは、見舞いも兼ねて老婦人宅に向かったのだという。
そのため、いつものように昼食に参加できなくなったことを、顔馴染みのクーリに辰巳たちへの伝言として託したのだそうだ。
「なるほどなぁ。こっちには携帯もメールもないもんな。何か急に予定が変更になったら、こうして伝言を頼むしかないわけだ」
もしかすると意志伝達の魔法とかあるかもしれないが、カルセドニアやジュゼッペからは、そんな魔法の話は聞いていない。
仮に存在するのなら、カルセドニアのことだから絶対に辰巳にその魔法を教えるだろう。
もっとも存在はしても、カルセドニアにもジュゼッペにも使えない魔法なのかもしれないが。
「それで、これをカルセドニア様から預かってきたのですが……」
そう言ってクーリが差し出したのは、いつもカルセドニアが昼食を運ぶのに使っている、バスケットのような籠だった。
「カルセドニア様は出先で食事を供されると思いますので、タツミ様たちで食べてしまって構わないとのことでした」
「ありがとう。えっとクーリさんだっけ? 同じ下級神官だし、俺のことは様つけなんてせずにタツミで構わないよ?」
籠を受け取りながら辰巳がそう言えば、クーリは目を丸くしながらぶんぶんと両手を顔の前で振る。
「そ、そんな訳にはいきません! タツミ様はカルセドニア様の旦那様になる方じゃないですか! しかも、クリソプレーズ最高司祭様自らがつきっきりでご指導しているとも聞いています。将来、神殿内で高い地位に就くだろうと言われている方と私とでは、同じ下級神官でも立場が違いますよぅっ!!」
「えっ!? 俺ってそんな風に見られていたのかっ!?」
クーリの言葉に、辰巳の方が逆に驚いて隣のバースへと振り向けば、バースは呆れたように肩を竦めて溜め息を吐いた。
「知らないのはおまえ本人ぐらいじゃね? カルセドニア様とのことも含め、最近はいろいろと噂になってんぞ?」
サヴァイヴ教団の最高司祭が、孫娘の伴侶としてわざわざ遠い異国から招いた人物。
最高司祭が自ら教え導き、将来はサヴァイヴ神殿の中で高い地位、もしくは自分の後継者にと考えているらしい。
人間離れした膨大な魔力を有し、《大魔道師》の名を継ぐ人物となるかもしれない。
魔法だけではなく剣の腕も類稀な冴えを見せ、ゆくゆくは神官戦士を束ねる総戦士長となるだろう。
かつて《聖女》と恋仲だったモルガーナイクを決闘で打ち倒し、彼からカルセドニアを奪った。
などなど、大袈裟に伝わっているものや根も葉もないものも含め、辰巳に関するかなりの数の噂が神殿内だけではなくレバンティスの街にまで広がりつつある。
そして最近では王家や各貴族の家々から、当の辰巳に一度会ってみたいという申し込みがジュゼッペの元に寄せられているとかいないとか。
「いろんな意味で、今やおまえは時の人って奴だな」
にやにやとした笑みを浮かべたバースに言われて、辰巳は思いっ切り渋い顔をした。
「わざわざごめんなさいね。大したことないのに、慌てた使用人があなたを呼びつけてしまって……」
寝台の上に身を横たえた老婦人が、カルセドニアに向けて穏やかな笑みを向けた。
「いえ、お気になさらず。大奥様には私が小さな頃からいろいろとお世話になりましたから、何かあればいつでも呼んでください。できる限りのことをさせていただきます」
カルセドニアが老婦人に《病気治癒》の魔法を施すと、身体が楽になったのか老婦人は寝台の上で上半身を起こした。
この老婦人の名前は、エリーシア・クワロート。クワロート公爵家の先代の夫人で、彼女の夫であった先代クワロート公爵が神の御元に旅立ち、息子が家督を継いだ時に隠居して今はのんびりと余生を楽しんでいる人物である。
だが隠居したとはいえ、今でもラルゴフィーリ王国の貴族社会、特に貴族の夫人や令嬢といった女の世界に絶大な影響力を持つ。
その影響力は「クワロート公爵の先代夫人がその気になれば、王妃の首でさえすげ替わる」とまで言われており、ラルゴフィーリの貴族の女性たちの間では、敬愛されながらも怖れられている人物であった。
だがカルセドニアにとってみれば、彼女の祖父──血縁上は養父──の古くからの知己であったこの気さくな老婦人は、小さな頃より何かと世話になった大好きな「優しいおばさん」でしかない。
「相変わらず、あなたの魔法はよく効くわね。ところで……」
エリーシアはそれまでの穏やかな笑みを、まるで悪戯をしかける子供のような笑みへと変えた。
「聞いたわよ? とうとうあなたも身を固める決心をしたそうね?」
「まあ。もう大奥様の耳にまで届いているのですか?」
驚きを露にするカルセドニア。だが、その目元や口元には、幸せそうなものが浮かんでいるのを、エリーシアははっきりと見て取った。
「そう……。どうやら、良き伴侶と巡り会えたみたいね。本音を言えば、あなたには私の孫の誰かと一緒になって欲しかったのだけれど……」
これまで、エリーシアは何かとカルセドニアに縁談を持ちかけていた。
彼女の孫たちを始め、貴族の中でも特に将来有望な令息たちと、カルセドニアを結びつけようとしていたのだ。
これは「サヴァイヴ神殿の《聖女》」を血族に取り込もうという政治的な野心ではなく、単に適齢期も後半にさしかかったカルセドニアを心から心配してのこと。
それが分かっているだけに、カルセドニアもジュゼッペもエリーシアの持ってくる縁談だけは、他の縁談とは違って断る度に心苦しい思いを感じていた。
「でも、今のあなたの表情を見れば、野暮なことは言わない方が良さそうね。ねえ、聞かせてくれるかしら? あなたが選んだ男性がどんな素敵な方なのかを」
「はいっ!!」
そして、カルセドニアは本当に嬉しそうに、伴侶となる男性のことを語って聞かせた。
最初こそはその話を楽しそうに聞いていたエリーシアだったが、延々と語るカルセドニアの話を聞いている内に、その笑みが徐々に引き攣ったものへと、そしてげんなりとした表情に変わるのにそれほどの時間は必要なかった。
クーリに礼を言って別れた辰巳とバース。
彼らは今、当初の目的地である庭ではなく、神殿内の食堂へと向かって歩いていた。
カルセドニアが一緒ではないのなら、たまには食堂で食べようかということになったのだ。
クーリが届けてくれたカルセドニアの籠をぶら下げながら、食堂へと足を踏み入れる二人。
丁度食事時ということもあり、食堂の中はかなり混み合っていた。とはいえ、空席がまるでないほどでもない。
さて、どこに腰を落ち着けようか、と辰巳とバースが辺りを見回していると、ある人物が二人の存在に気づいて声をかけてきた。
「あれ? タツミとバース? おまえらはいつものように、カルセドニア様と一緒に昼飯じゃなかったっけ?」
声のした方へと辰巳たちが振り向けば、そこにはとてもよく似た顔が三つ並んでいた。
「ニーズとサーゴとシーロ? おまえたちもここにいたのか」
それは、辰巳とバースにとっては同期生とも言える、共に神官戦士としての訓練を受けている見習いたちだった。
ちなみにこの三人、そっくりな顔をしているが三つ子ではなく、年子の兄弟である。
焦げ茶色の髪と明るい茶色の瞳は三人とも共通で、一番年長のニーズが17歳、サーゴが16歳、シーロが15歳。
彼らは小さな商家の次男と三男と四男で、サヴァイヴ神殿に籍を置く神官ではなく、神殿外から神官戦士になるための訓練を受けるために、毎日サヴァイヴ神殿まで通っている。
現代の日本よりも遥かに危険に満ちたこの世界では、一般市民の中にも身を守る術を求める者たちがいる。
そんな者たちに、神殿は武器の扱いなどを教えるのだ。
だが、大地と豊穣の神であるサヴァイヴ神の神殿に、武器の扱いを求めて訪れる者はまずいない。
身を守るために武器の扱いを求める者は、太陽と光を司る神であり、そこから法の守護神であり戦神としての側面も持つゴライバ神の神殿に赴くことが多い。
ニーズたちのようにサヴァイヴ神殿にわざわざ神官戦士の訓練を受けに来る者は、相当な変わり者と言えるだろう。
彼らの実家である商家は長男が継ぐため、三兄弟は将来は神官戦士か、それが無理ならば魔獣狩りにでもなろうかと考えて、サヴァイヴ神殿で訓練を受けていた。
彼らがゴライバ神殿ではなくサヴァイヴ神殿を選んだのは、実家から近かったことと合わせて、もしかしたら高名な「サヴァイヴ神殿の《聖女》」とお近づきになれるかもしれないという、年頃の少年らしい「不純」な目的からだった。
もっとも、その「不純」な目的は、タツミと親しくなったことで想像していた以上に達成してしまったのだが。
そんなニーズたちに手招きされ、辰巳とバースは丁度空いていた彼らの隣の席に腰を落ち着けた。
「それで、どうしたんだ? カルセドニア様は一緒じゃないのか?」
「それがチーコは急に治療の依頼が入ったとかで出かけたらしいんだ。それで俺たちも今日はこっちへ来たってわけ」
籠の中からカルセドニアが作ってくれた昼食を取り出しつつ、辰巳がニーズたちに説明する。
だが、ニーズたち兄弟は辰巳の説明など上の空で、机の上に置かれた弁当を無言で凝視していた。
机の上に置かれた弁当。それはカルセドニアが作ってくれたいわゆるサンドイッチだ。その他には、梨によく似た味と食感の果物を切ったものも入っている。
フランスパンによく似た細長いパンに、炙った薫製肉や野菜を挟んだだけの簡単なものだが、料理上手なカルセドニアの作るサンドイッチはとても美味いと辰巳にもバースにも好評であった。
「今日も美味い飯をありがとうございます、カルセドニア様。俺は一生あなたに頭が上がりません」
手を組み合わせ、神に祈りを捧げる時の姿勢になるバース。だが、今の彼の祈りは神ではなく《聖女》に捧げられているのだろう。
そして、慣れた手付きで机の上のサンドイッチを掴み、ぱくりと頬張る。
その様子を、無言のままじーっと見つめるニーズたち三兄弟。その表情は今にも涎を垂らさんばかり。
「あー……良かったら、ニーズたちも食べる……か?」
辰巳が彼らの方へとサンドイッチを幾つか移動させると、三兄弟の顔が揃って輝いた。
『ごちっ!!』
三つの声が見事に重なり、まるで飢えた野獣のようにサンドイッチたちに群がる三兄弟。
「こ、これがカルセドニア様の手作りの……」
「美味いっ!! カルセドニア様が作ったかと思うと、余計に美味く感じるっ!!」
「ありがとう、タツミ! いや、タツミ様っ!! こんな美味い料理が毎日食べられるのなら、僕はタツミ様の奴隷になってもいい……いや、どっちかっていうとタツミじゃなくてカルセドニア様の奴隷になりたい……」
「いや、俺もチーコも奴隷なんていらないから」
辰巳が即座に突っ込みを入れると、バースと三兄弟が笑い声を上げ、辰巳も同じように笑う。
確かにカルセドニアとの暮らしは、辰巳にとっても楽しいものである。
辰巳とカルセドニアが暮らす家は、辰巳にとって心落ち着く居心地のいい空間であることは間違いない。
だが、こうして気の置けない同性の友人たちと馬鹿話をして盛り上がるのは、カルセドニアと一緒の時とは別の楽しさがあった。
言うならば、学校の教室で同級生たちと交わす他愛のない会話のように。
考えてみれば、今ここにいる五人は年齢も近く、日本で言えば丁度高校生ぐらいの年頃である。
高校生ならば、教室でこのような馬鹿な会話をするのは自然なことだろう。
「最近、このクラスの中で彼女ができた奴がいるそうだぜ?」
「このグラビアのアイドル、いいカラダしているよなぁ。現物をナマで拝んでみてぇ」
「学校から駅へ向かう途中に、美味いラーメン屋ができたってよ。帰りに食べていかね?」
「なあなあ、おまえ、いつになったらあの娘にコクんの? 早くした方がいいと思うぜ?」
高校生ならば、ごく当たり前のそんな会話。
だが、辰巳にはそんな経験はない。入学した高校で浮いた存在だった彼に、そんな親しい友人はいなかったのだ。
しかし今、暮らす世界は違ってしまったが、辰巳の周囲には同じような年頃の仲間たちがいる。
──バースやニーズたちと出会えてのも、チーコがこちらの世界に呼んでくれたおかげだよな。
元の世界では得られることのなかった同性の仲間たち。
彼らに出会えたことを改めてカルセドニアに感謝しながら、辰巳は仲間たちと楽しい一時を過ごしていった。
「…………ありがとう。あなたの伴侶となる男性のことは凄くよく分かったわ……」
疲れた表情を隠すことなく、エリーシアが言う。
「申し訳ありません……私としたことが、つい調子に乗ってごしゅ……いえ、タツミ様のことをあれこれとお話してしまって……大奥様の体調も考えずに……」
肩を落とし、恐縮することしきりのカルセドニア。
「気にすることないわ。それに、あなたがどれだけそのタツミという殿方を好きなのかがよぉぉぉく分かったし。ふぅ、ごちそうさま」
「うぅぅぅぅ……」
赤く染まった頬を両手で押さえるカルセドニアを、エリーシアはちょっとだけ意地の悪い笑みを浮かべながらも、それでいて優しく見つめた。
その後しばらく、食事を摂りながら取り止めもない世間話を交わした後、カルセドニアはエリーシアの屋敷を後にした。
カルセドニアを乗せたサヴァイヴ神殿の馬車が遠ざかっていくのを自室の窓から見送りながら、エリーシアはカルセドニアが惹かれたというタツミという少年について考えていた。
エリーシアも、幼い頃からカルセドニアを知っているだけあって、彼女が昔から口にしていた「夢の中の少年」については何度も聞かされていた。
その「夢の中の少年」を、カルセドニアは本当に召喚してしまったと言う。以前から彼女が召喚魔法の研究をしていたことは知っていたが、まさか本当に召喚を実現させてしまうとは。
さすがのエリーシアも、それを聞かされた時は開いた口が塞がらなかったほどだ。
もちろん、エリーシアに辰巳が召喚された存在だと他言するつもりはない。
伝説の召喚魔法を成功させたとなれば、カルセドニアが今以上に注目されるだろうことは想像するまでもないからだ。
しかしエリーシアには、その召喚されたタツミという少年がどうしても気にかかった。
これまで彼女が知る限り、まともな恋愛などしたことがないカルセドニアである。少し女の扱いに慣れた男ならば、そんなカルセドニアを手玉に取ることなど造作もないだろう。
カルセドニアの想いが、幼い頃より「夢の中の少年」に向けられていたことをエリーシアは十分承知している。
だがその「夢の中の少年」が、カルセドニアが言うように誠実な男とは限らないではないか。
「……これはそのタツミという少年を、少し調べてみないといけないわね……誰かいるかしら?」
エリーシアがぱんぱんと手を叩けば、すぐに扉が叩かれて初老の男性が姿を現した。
彼はエリーシアに仕える使用人を束ねる立場の人物で、彼女が最も信頼している人物でもある。
エリーシアの命ならば、どんな非合法なことでもする「忠臣」。それが彼だ。
「サヴァイヴ神殿のタツミ・ヤマガタという黒髪黒瞳の下級神官の人となりを大至急調べなさい。方法は問わないわ」
部屋に入ってきた使用人に振り向くこともなく、エリーシアは手短に命じる。
命じられた使用人もまた、一言「御意」と口にすると、音もなく一礼を残してエリーシアの部屋を後にする。
遠ざかる気配を察知しながら──主人に分かるようにわざと気配を発しながら──、エリーシアは誰に言うでもなく一人呟く。
「タツミ・ヤマガタ……ね。あのジュゼッペも認めているようだから、おかしな男ではないとは思うけど……あれでジュゼッペも孫娘には甘いからねぇ。もしも……もしもカルセをその男が騙しているようなことがあれば……」
孫同然に可愛がってきたカルセドニア。そのカルセドニアを万が一その男が騙しているようなことがあれば。
例えどれだけカルセドニアに恨まれようが、エリーシアは二人の仲を裂くつもりでいた。
そして、カルセドニアを騙した男を、エリーシアは決して許さない。
「……その時は覚悟しなさい。私の持てる全てを使って、存在そのものをこの国から消し去ってあげるわ」