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示された道標

 ゆっくりと。

 ゆっくりと浮上していく感覚。

 温かく心地のよい闇の中を揺蕩っていた辰巳の意識が、ゆっくりと覚醒へと向かって浮上を始める。

 周囲に(わだかま)っていた闇が薄くなり、徐々に明るくなっていく。それに合わせて、辰巳の意識も明瞭になる。

 ふと。

 誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 それは父だろうか、母だろうか、それとも妹だろうか。

 長い間、ずっと傍にいてくた家族の誰かだろう。その誰かが彼の名前を呼ぶ声もまた、辰巳の意識の浮上に合わせて少しずつ大きくなっていく。

 やがて、彼の意識が完全に浮上する直前。彼の脳裏には、長い白金(プラチナ)の髪と赤い瞳を持った、一人の綺麗な女性の顔が浮かんだ。




 目蓋を持ち上げた途端、明るい光が針のように目を刺し、辰巳は反射的に再び目を閉じた。

 それでも一瞬だけ見えた景色で、辰巳は自分がいる場所がサヴァイヴ神殿の中の、彼に与えられた客室だと知ることができた。

 おそるおそる再び目蓋を開いてみる。最初は眩しさに目がちかちかとしたが、それもすぐに慣れてくる。

 辰巳は客室のベッドに寝かされていたらしい。そのまま寝ているのもなんなので、ゆっくりと上半身を起こしてみた。

 途端、ずしんと身体の芯に鉛でも入ったかのような倦怠感。どうやらかなりの疲れが残っているようだ。

 それでも何とか上体を起こし、ゆっくりと客室の中を見回していると、不意に客室の出入り口の扉が開き、そこからすっかり見慣れた白金色の髪の女性が客室に入ってきた。

 女性はベッドの上で身体を起こしている辰巳を見て、目を見開いて驚きを露にする。

「ご、ご主人様……?」

 掠れた声が、女性の桜色の唇から零れ落ちた。

 次いで、その紅玉(ルビー)のような両の瞳から、ぽろぽろと透明な雫が流れ始める。

 そして辰巳が何か言うより早く、彼女──カルセドニアは辰巳へと抱きついてきた。

 突然カルセドニアに抱きつかれ、身体を支えきれずに辰巳は再びベッドへと倒れ込む。

「……良かったぁ……ほ、本当に良かったぁ……ご主人様の意識が戻って……ほ、本当に……」

 ぐすぐすと泣きながら呟くカルセドニア。

 なんか、前にもこんなことがあったなぁ、と辰巳がそんなことを思った時。

 不意にずきりと胸に激痛が走った。

 どうして胸にこんな痛みが? と辰巳が内心で首を傾げた時、ようやく彼もことの顛末を思い出した。

 〈魔〉という恐るべき怪物に取り憑かれた、ジュゼッペの補佐官であるバルディオや《自由騎士》モルガーナイクとの命懸けの戦いを。

「ご主人様……? どうかなさいましたか?」

 辰巳の身体が急に強張ったからだろうか。彼の様子がおかしいことに気づいたカルセドニアが、辰巳の上に覆い被さるように抱き付いていた身体を起こした。

「も、もしかして胸の傷が痛むのですか……? も、申し訳ありませんっ!! わ、私としたことが……」

 慌ててベッドから下り、ぺこりと頭を下げるカルセドニア。

「大丈夫だよ、チーコ。確かに少し痛かったけど、その痛みのお陰で頭の中がはっきりしたから。それに、チーコこそ無事で何よりだ」

「あ、ありがとうございます。ですが、念の為にもう一度傷口を確認させてください」

 というカルセドニアの提案に頷いた辰巳は、着ていた上半身の服を脱ぐ。

 改めて自分の身体を見てみれば、胸板の部分に真一文字に走る傷跡が見えた。カルセドニアもその傷跡に顔を近づけ、軽く触れたりしながら傷の具体を確認する。

「傷口は完全に塞がっていますね。それでもあれだけの深手だったので、まだしばらく痛みは残るかもしれません……」

「まあ……それは仕方ないよ。あれだけの傷を負って命が助かっただけでも儲けものだしな」

「でも……傷跡が残っちゃいましたね……」

 痛ましそうな表情を浮かべ、カルセドニアは指先をそっと辰巳の胸の傷跡に滑らせた。

「気にしなくてもいいって。女の人と違って男の身体に傷の一つや二つあってもどうってことはないさ」

 胸に感じるしなやかな指先の感触のくすぐったさを我慢しつつ、辰巳がふと改めて今の状況を思い出してみれば。

 自分は今、ベッドの上で上半身裸で上体だけを起こした姿勢でいて。

 そんな自分に、傷跡を確認するためとはいえ、カルセドニアはその整った容貌を極めて近づかせていて。

 それは当然、二人の距離も極めて近いことを意味していて。

 ちょっと視線を動かせば、カルセドニアの自己主張の激しい胸の双丘が、神官服の上からでも綺麗なカーブを描いているのが分かったりして。

 辰巳は自分の心臓の鼓動が速くなったことを、はっきりと自覚した。

「どうかなさいましたか? 急に体温が上がったような……?」

「い、いや、いやいやいやいやっ!! な、何でもないよ、うんっ!!」

 彼女の胸に目が釘付けになったことが情けないやら、近すぎる彼女との距離が恥ずかしいやら。辰巳は顔を真っ赤にしながら必死に何でもないことをアピールした。

 だけどどんなに隠そうとしても、伝わってしまう時は伝わってしまうもので。

 カルセドニアは辰巳の視線の先や、自分の今の状態を思い出してこちらも真っ赤になる。

「も、もう……っ!! ご主人様ったら……っ!!」

 両手で胸元を隠しつつ、ちょっとだけ怒ったような顔を辰巳に向ける。それでもカルセドニアは、真っ赤になった顔に照れながらも嬉しげな表情を浮かべた。

「ご、ご主人様が……そ、その……の、望まれるのであれば……わ、私は……そ、その別に……」

「ち、チーコ……」

 互いに真っ赤になりながらも、二人の顔の距離がじりじりと近づいていく。

 そして、その距離が拳一つほどにまでなった時。

「ぅおっほんっ!!」

 突然聞こえたわざとらしい咳払い。辰巳とカルセドニアは弾かれるように慌てて離れる。

「お主たちの仲がいいのは結構なことじゃし、儂としても喜ばしいことではあるがの……せめて、部屋の扉を閉めてからにせい。一応、ここは神聖なる神の家……神殿の中なのじゃからの」

 と、扉が開け放たれたままになっていた客室の出入り口の所に、呆れた顔のジュゼッペが立っていた。

 どうやら、カルセドニアが客室に入って来た時、辰巳の意識が戻っていたことに驚いて、扉を閉めるのを忘れていたらしい。




 辰巳に与えられた客室の中、カルセドニアが椅子の一つを辰巳が身体を横たえているベッドの傍に移動させ、そこにジュゼッペが腰を下ろす。

 そして、カルセドニア本人はそのジュゼッペの背後に立って控えた。

「まずは、婿殿の意識が戻って何よりじゃ」

 ジュゼッペのその言い方や、先程のカルセドニアの取り乱し方を思い出し、辰巳はふと感じた疑問を尋ねてみる。

「もしかして……俺って長い間寝ていたんですか……?」

「左様。あれから……神殿の庭での騒動から、今日で三日目じゃよ。その間、お主はずっと眠っておったのじゃ」

「み、三日……? そんなに……?」

 三日も寝ていたと聞いて辰巳は驚きを露にした。彼としては、〈魔〉との騒動はつい先程のことのような感覚だったのだ。

「婿殿も当事者の一人であることじゃし、あれからのことを説明せねばならんじゃろう。じゃがその前に、お主はどこまでしっかりと憶えておる?」

 改めてジュゼッペにそう尋ねられ、辰巳は順番に思い出してみる。

 神殿の庭で、ジュゼッペの補佐官であるバルディオが〈魔〉に憑かれ、カルセドニアに襲いかかったと聞いたこと。

 その時に一緒だったモルガーナイクと共に、カルセドニアを助けるために庭に向かったこと。

 そこでモルガーナイクとカルセドニアの手によって、バルディオの身体から〈魔〉を追い出すことに成功したこと。

 その〈魔〉がこともあろうに今度はモルガーナイクに取り憑き、再びカルセドニアに襲いかかったこと。

 そして、カルセドニアに迫る凶刃の前に無我夢中で飛び出し、彼女の代りに斬られたこと。

 辰巳がはっきりと憶えているのはそこまで。その後にカルセドニアを助けたい一心でモルガーナイクに挑みかかったことは朧気ながら憶えているが、具体的なことまではよく憶えていない。

「……では、お主は自分が魔法を使ったことは憶えておらんのじゃな?」

「お、俺が魔法を……ですか? でも、俺には魔力はないんじゃ……」

「その通りじゃ。お主が寝ていた間はもちろん、今もお主からは魔力は一切感じられん。じゃが……」

「ですが、私ははっきりと見たのです。ご主人様が魔法を……それも、伝説と言われる〈天〉の系統の魔法を使われるのを」

 カルセドニアとジュゼッペは、辰巳に〈天〉という系統がどのようなものかを説明した。

 かつて、たった一人だけ使い手が存在した幻の……いや、伝説の適性系統。その〈天〉の魔法を辰巳が無意識とはいえ使ったと言うのだ。

 そんなことを言われても俄には信じられないが、それでもジュゼッペやカルセドニアが嘘を言っているとも思えない。

 となれば、本当に自分は伝説とまで言われる魔法を使ったのだろう。正直、とても信じられないが。

 そして、当惑していたのは辰巳だけではなかった。ジュゼッペとカルセドニアもまた、理解できない事実を前に困惑していたのだ。

 辰巳が〈天〉の魔法──《瞬間転移》を使用したのは間違いない。他ならぬカルセドニア自身がその瞬間を目撃したのだから。

 だが、今の辰巳からは相変わらず魔力を感じることができない。魔力がない辰巳に魔法が使えるはずがないのだ。

「……む?」

「……あ?」

 困惑の視線をじっと辰巳に向けていたジュゼッペとカルセドニアが、小さく驚きの声を上げた。

 今、辰巳は二人の様子に気づくこともなく、何かを確かめるように自らの手を開いたり閉じたりしていた。そんな辰巳の身体から、ほんの極僅かだが魔力が感じられたのだ。

 具体的な魔力光の色さえ分からぬほどの、本当に微々たる魔力。だがジュゼッペとカルセドニアは、魔力のない辰巳から確かに魔力の輝きを見た。

「お、お祖父様……これはどういうことでしょうか……?」

「むぅ……正直、儂にも分からんわい。じゃが、僅かとはいえ確かに婿殿から魔力を感じたのぅ」

 白くて長い髭をしごきながら、ジュゼッペは辰巳の魔力についてあれこれと考える。

 辰巳の暮らしていた日本に「亀の甲より年の功」という諺があるが、ジュゼッペとて無駄に歳月を積み重ねてきたわけではない。

 年齢と共に積み重ねてきた膨大な知識が、彼の頭の中にある。ジュゼッペは今、その蓄えた知識の中から辰巳の身に起きていることと同じ事象を探していた。

 やがて彼の頭の中で、その事象に該当しそうなものが唯一つだけ浮かび上がる。

「もしや……婿殿は内素ではなく外素を扱っておるのでは……?」

「え? ええええええええええっ!?」

 ジュゼッペが導き出した答えに、カルセドニアは目を見開いて驚いた。

 一方、当事者であるはずの辰巳はと言えば、どうしてカルセドニアがそれほど驚いているのか分からなくて、きょとんとした顔をしていたが。

「な、なあ、チーコ? 今ジュゼッペさんが言った『ナイソ』とか『ガイソ』って何だ?」

「あ、はい。内素と外素とはですね──」

 この世界には至るところに魔力が溢れている。草食獣が駆け抜ける草原にも、鳥以外には辿り着けない高山にも、魚たちの楽園である大海にも、そして、人々が暮らす街の中でも。

 そんな世界に溢れる魔力を「外素」と呼び、人などの生物がその身体の中に内包する魔力を「内素」と呼んでいる。

 そして当然ながら、世界に満ちる魔力の量は、人一人が内包する魔力よりも遥かに多い。

 例えばカルセドニアが内包する魔力は、人が個人で持つ魔力量としてはトップクラスであるが、それでも世界に満ちる魔力に比べれば、片手で掬い上げた水と大海に満ちる海水ほどの差がある。

 その世界に満ちる魔力──外素こそが、辰巳が扱っている魔力ではないのかとジュゼッペは推測した。

「それならば、婿殿自身が魔力を有しているわけではないからの。普段は魔力を一切感じられんでも不思議ではないわい。婿殿は必要な時に必要な分だけ、周囲に満ちる魔力をその身体に取り込んでおるのじゃろう。無論、確証があるわけではないが、そう考えれば合点がいく……というか、少なくとも儂にはこれ以外の理由が考えつかんわい」

 感心しているのか、呆れているのか。どちらともつかない口調でジュゼッペが締めくくった。

「そ、それでチーコ……その、外素とかを扱うのって……そんなに珍しいことなのか?」

「珍しいなんてものではありません。本来、人間は外素を扱うことなんてできないんですよ?」

 儀式魔法などの際に魔法陣を描いて外素を集めることは可能だが、個人で外素を扱ったという前例は実はないのだ。

 もしかすると、過去にも何人か外素を扱える魔法使いがいたかもしれないが、少なくとも記録や伝承などには残っていない。つまり、ジュゼッペの推測が正しければ、辰巳は歴史上初めての「外素使い」ということになる。

「お爺様の推測が正しければ、ご主人様には魔力が尽きるということが実質的にありません。必要に応じて周囲から集めるわけですから」

「じゃが、その事実を過信してはならんぞ? 例えばお主を召喚した神殿の地下室のように周囲よりも魔力の濃い場所もあれば、逆に魔力の薄い場所や全く魔力がない場所もあるじゃろう。そのような場所では、いくらお主でも魔力を集めることが困難になるじゃろうからの」

 実質上、無尽蔵の魔力を持つに等しい辰巳だが、逆を言えば普通の魔法使いのように一定量の魔力をプールしておくことができず、あくまでも周囲にある魔力に依存しなければならないのだ。

 そこは、普通の魔法使いよりは不利な点と言えるだろう。

 カルセドニアとジュゼッペの言葉を黙って聞いていた辰巳は、ジュゼッペの忠告に神妙に頷きながらも、その顔は期待に輝いている。

 一度は諦めた魔法という未知の力。その力を自分でも扱えそうだと分かって、嫌でも期待が高まってしまう。

「しかし……改めて考えてみると婿殿は希有な存在よな。〈天〉の魔法使いであることに加え、外素使いときた。しかも、カルセドニアに聞くところによると更に感知者でもあるようじゃしな」

 果たして、辰巳の世界の人間は全てがそうなのか、それとも辰巳だけが特異なのか。それはジュゼッペにも分からない。

 もしもそれを確かめようとすれば、辰巳以外にも多くの人間を召喚する必要があるだろう。だが、それは実質的に無理なことなのだ。

 じっと辰巳を見つめるジュゼッペ。それまでずっと穏やかだったジュゼッペの表情が、不意に厳しいものへと変じた。それに釣られるかのように、辰巳とカルセドニアもまた、表情を引き締めた。

 刃物を思わせる澄んだ迫力を滲ませながら、ジュゼッペはとある提案を辰巳に切り出した。




「どうじゃろう、婿殿。お主……カルセと同じ魔祓い師になるつもりはないかの?」


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