召喚
次の日の夜もまた、あの夢を見た。
目覚めはしたものの、ベッドに仰向けに横たわったままぼんやりと天井を見上げ、辰巳は先程まで見ていた夢を思い出していた。
細部までくっきりと思い出せる、妙にリアルな夢。
しかも心なしか、日増しにリアルさが増しているような気もする。
薄暗い地下室のような場所で、いつものように一心不乱に祈りを捧げている聖女。
今日見た夢は、彼女がいかに必死に祈っているのかその様子がはっきりと分った。
処女雪のように白い肌に浮かぶ、幾つもの汗の珠。
やがて汗の珠は、微動だにしない彼女のその肌の上を滑り落ち、石造りの床にぽたりぽたりと滴る。
そんな細かな様子までも、辰巳にはしっかりと見えたのだ。
「…………どうして……あんな夢を見るのかなぁ……」
天井を見上げたまま、辰巳はぽつりと呟いた。
これだけ頻繁に同じ夢を見るということは、何か理由があるに違いない。
よくあるパターンとしては、誰かが辰巳のことを呼んでいる場合──いわゆる、召喚パターンだ。
だが、小説やコミックの中ならばともかく、突然どこかに召喚されるような非現実的なことはないだろう。
そもそも、召喚される理由がない。辰巳はどこにでもいるこれといった長所もない、ごく普通の十六歳の少年なのだ。
確かに小説などでは、異世界の姫が世界を救うための勇者を無作為に呼び出す、なんて設定はよくあるが、まさかそれが自分の身に起こるとは到底思えない。
それよりも、だ。
今のままではいけないことは、辰巳自身もよく分っている。
前を向かなければ。いつまでもチーコのことを引き摺っていてはだめだ。
今日も再び自分にそう言い聞かせながら、辰巳はベッドから身体を起こすとのろのろと着替え始めた。
高校を中退してしまった今、せめてアルバイトでも探そう。そう考えつつ、着替えを済ませて顔も洗う。
近所のコンビニにでも行って、求人情報誌でも買おう。そう思ってはみたものの、視界の隅にかつてチーコが入っていた鳥籠が目に入ると、チーコを失った時の悲しみが込み上げてきた。
かつてのチーコとの楽しかった生活が、辰巳の脳裏で何度も繰り返される。
そして、再び思い知るのだ。チーコはもういないことを。
そうなったらもうだめだった。チーコを失った悲しみがぶり返してきて、何もする気がなくなってしまう。
チーコがいなくなってからは、食欲もあまりなくて最低限の食事しか摂っていない。それも、以前に買い込んでおいたインスタント食品ばかりを。
結局、その日もまた、辰巳はどこに行くこともなく、何をするでもなく自分の部屋に引き篭ったまま過ごすことになった。
ベッドに腰を下ろしてじっと携帯の画面に写る家族やチーコの写真を眺める。その途中で辰巳はふとベッドに脇に立てかけておいたギターに手を伸ばし、何となくそれを弄り始める。
このアコースティックギターは亡き父親の形見であり、辰巳が幼い頃は父親もちょくちょくこのアコギを辰巳に弾いてくれたものだった。
彼の父親は若い頃にバンドを組み、本格的にプロのギタリストを目指していたらしい。結局、プロへの道は断念したそうだが、結構いいところまでは行っていたんだ、というのが父親の口癖でもあった。
その父親から辰巳もギターの扱いは教わっていたので、ある程度は演奏することができる。もちろん、プロを目指せるほどの実力はないのだが。
ぽろん、ぽろろんと特に意識することなくギターを爪弾く。
「…………そう言えば、こうやってギターを鳴らしていると、チーコは合わせるように歌ってくれたよな……」
そんなことを思い出し、再び暗い気分になる辰巳。
かつて、まだ彼のチーコが元気だった頃。辰巳が今のようにギターを弾くと、それに合わせてまるで歌うようにチーコは囀ってくれた。
在りし日の彼女の姿を思い出しつつ、辰巳は静かにギターを爪弾く。
その時だった。
突然、彼が腰を下ろしていたベッドの周囲に光が沸き上がったのは。
ベッドの上には、シーツや掛け布団などの寝具しかなく、光を放つような光源は存在しない。
それなのに、突然ベッドから謎の発光現象。理由は不明だが、まさに沸き上がったと表現するしかない光の乱舞に、辰巳は目を細めて様子を窺うことしかできない。
いや、正確に言えば、あまりに突然の怪現象に、ただ、目を細めて様子を窺うことしかできないでいた。
辰巳がそうしている間にも、光の乱舞は続いている。
光は銀色で全く熱を感じない。熱どころか、その光はどこか神聖さを感じさせる眩しくも優しい光で。
そして周囲が完全に銀に染まった時、辰巳は自分の足元に何かが存在していることに気づいた。
何やら幾何学的な模様のようなものと、それを囲む文字や記号のようなもの。
眩しい光の中で更に銀に輝くそれを、辰巳の限られた知識がまるで魔法陣のようだと判断した時。
彼の意識は周囲に溢れる光とは正反対の、暗い闇の中へと飲み込まれていった。
ぼんやりと、閉じていた目を開けてみる。
周囲は随分と薄暗い。もしかして、まだ夜明け前だろうか。
そう思った辰巳は首を動かした。ベッドの頭上方向にある窓の外を見ようとして。
だが、そちらにあるはずの窓はなく、代りに見えたのは石造りの重厚そうな壁だった。しかも、その壁には細かな装飾が施された高価そうな燭台が設置されており、その燭台の上の蝋燭には火が灯っていた。
あれ? こんな所に石壁や燭台なんてあったっけ?
寝ぼけた頭で辰巳は考える。
辰巳が家族と死別した後、チーコと移り住んだアパートは、2Kの小さな部屋だ。それでも一人で──最近まではチーコも一緒だったが──暮らすには充分な広さがあり、辰巳も結構気に入っていた部屋である。
その部屋には、当然ながら石壁なんてあるはずがない。いや、辰巳の部屋に限らず、今の日本で石壁の家などほとんどないだろう。
ならば、ここは辰巳の部屋ではない、ということになる。では、自分はどこで寝ていたのだろうと思い、上半身を起こして周囲の様子を確かめてみる。
周囲は全方向に渡って石壁で覆われていた。それも四方の壁だけではなく、天井も床も全て石造りだ。
はて、こんな風景をどこかで見たような? しかも、ごく最近に何度も。
ぼりぼりと後頭部を掻きつつ、改めて周囲を見回す辰巳。
すると、彼の瞳があるものを捉えた。
それは膝立ちの姿勢で目を見開いて、じっと自分を見つめている一人の女性。
長い白金色の髪と、紅玉のような色の瞳のとても綺麗な女性。なぜか頭頂部分から、ひょこんと一房の髪が飛び出している。いわゆる「アホ毛」という奴だろうか。
そんな女性が驚いた様子で身動き一つせず、じっと自分のことを見ているものだから、辰巳も思わずその女性のことをまじまじと眺めてしまった。
そして、辰巳は気づく。
その女性に見覚えがあることを。
「…………夢の中に出てきた……聖女……?」
そう。それは彼が毎晩のように見る夢の中で、いつも一心に祈りを捧げていたあの聖女にそっくりだったのだ。
それに思い至った辰巳が改めて周囲の様子を見てみると、今彼がいるのは確かに夢で見たあの地下室のような場所によく似ている。いや、似ているなんてもんじゃない。あの地下室そのものだ。
では、聖女の方も夢で見た女の人と同一人物なのだろうか?
再び辰巳が視線を聖女らしき人物へと向けようとした時。
彼の身体を強い衝撃が襲った。
ベッドに腰を下ろしている体勢だった辰巳は、襲ってきた衝撃に耐えきれずにそのままベッドに仰向けに倒れ込む。
一体、何事っ!? と軽いパニックに陥った辰巳の視界に、白金色の綺麗な髪がふわりと舞った。
そして感じられる、強く抱擁される感覚と鼻腔を擽る甘い香り。
この時になって、ようやく辰巳は先程の聖女らしき女性に抱き締められていることに気づくのだった。
突然飛びかかるように辰巳を抱き締めた女性。
彼女はその細い腕で一頻り辰巳の身体をぎゅっと抱き締めると、僅かに身体を離して辰巳の顔を覗き込んだ。
女性の赤い瞳と辰巳の黒い瞳が、至近距離で交差する。
今、女性の紅玉のような真紅の瞳には、きらきらと輝く涙が浮かんでいた。それでいて、彼女は辰巳に向かって嬉しそうに微笑んだのだ。
「ようやく……ようやく会えました……再びあなたにこうして会える日を、私は……もう何年も待ち続けました……」
「え? えっと……以前にも会ったことが……?」
「はい……ああ……このお姿、このお声……そして、この匂い……間違いない……私はあなたのことを、一時たりとも忘れたことはありません…………」
そこで感きわまったのか、彼女の瞳に溢れていた涙がとうとう決壊し、ぽたりと辰巳の顔に零れ落ちた。
頬に落ちた涙の感触に、辰巳は今の自分の体勢を改めて思い出し、その顔色を赤くした。
今、辰巳と女性はベッドの上で抱き合っているのだ。
しかも女性が辰巳の上に乗っている体勢なので、彼女の身体の柔らかさを全身で感じてしまっている。
だが、重いという実感はない。身長は辰巳と同じかやや低いぐらいだが、おそらく体重は彼よりもずっと軽いのだろう。
特に意識してしまうのはやはり、彼の胸で潰れているすっげえ柔らかい二つのもの。もちろん、女性を象徴するアレだ。
彼女が身動ぎする度に、ふわふわふよふよと辰巳の胸を柔らかく擽る。
夢で見ていた時には気づかなかったが、彼女が身に着けているのはごく薄い一枚の布を身体に巻き付けるような衣服のみなのだ。
部屋の中は薄暗いが、それでもこれだけ彼女との距離が近ければ、その薄い布を通して彼女の肌の色が透けて見えてしまう。
思わず、辰巳の視線がくっきりと刻まれた彼女の胸の谷間に吸い付けられる。
胸の先のピンク色の果実は押しつけられた彼の胸で隠れて見えないが、この女性の胸部戦闘力がかなり高いのは間違いない。推定戦力は85から90といったところか。
こんな状況でもそんなことを考えてしまうなんて、男とはなんて悲しい生き物だろう、とどこか他人事のように考える辰巳。間違いなくある種の現実逃避である。
そんな辰巳の視線に気づいているのかいないのか、女性は再びふわりと笑うと実にとんでもないことを口にした。
「再び……再びこうしてお会いすることができて、私はとても嬉しいです…………ご主人様」
「え? は? い、今、何て……え? ご、ご主人様? も、もしかして……俺のこと?」
「はい。あなたは私のご主人様ではありませんか」
にっこり。女性は心の底から嬉しそうに笑う。
先程も言っていたが、どうやら自分はこの女性と以前に会ったことがあるらしい。
辰巳は慌てて記憶をほじくり返すが、彼には目の前の美女と出会った覚えはなかった。
そもそも、辰巳には外国人に知り合いなどいない。それどころか、これまでの人生で言葉を交わしたことのある外国人でさえほとんどいないのだ。せいぜい道を尋ねられた時の一回か二回ぐらいぐらいだろう。
しかも、こんなに綺麗な白金髪に、紅玉のような赤い瞳という特徴的な女性なのだ。顔立ちも極めて整っており、一度でも会えば忘れるはずがない。
そんなことを考えていた辰巳の内心を読み取ったのか、女性は更に言葉を続けた。
「ご主人様が思い出せないのは仕方ありません。ご主人様が覚えている私は、この姿ではありませんから」
「え? それってどういう意味なんだ?」
思わずきょとんとする辰巳を見て、女性はくすくすと笑う。そして彼から身を離すと、ベッドの上で居住まいを正した。
「申し後れました。私の名前はカルセドニア・クリソプレーズ。ラルゴフィーリ王国のサヴァイヴ教団において、司祭の地位にある者です」
と、正座のような姿勢のまま、静かに頭を下げた。
「は……? あ、えっと……俺は山形辰巳っていいます」
「はい。存じ上げております」
と、にっこりと微笑むカルセドニアと名乗った女性。彼女のこの笑顔を見れば、世の男のほとんどは虜になるに違いない。そう思わせるような極上の笑顔だ。
だが、そんな笑顔を向けられながらも、辰巳の困惑は更に深くなるばかり。
彼女が辰巳の名前を知っていたのはもちろん、今の彼女の言葉の中に全く聞き覚えのない単語がいくつもあったからだ。
この時、辰巳の胸中にある推測が思い浮かぶ。だが、彼がそれを口にするより早く、カルセドニアは更に言葉を続けた。
「ご主人様はこの私のことは全く御存知ないでしょう。ですが、私はご主人様のことを誰よりもよく知っています。いえ……覚えています」
じっと辰巳の顔を見つめるカルセドニア。その真摯な視線に、辰巳は既視感を覚えた。
以前にも、自分はこんな視線を向けられたことがある。それも、すごく至近距離から。
例えば、手の上から。例えば、肩の上から。時には座っている膝の上からのこともあったはずだ。
そう。なぜか、彼女のその視線は彼の最愛の小さな家族のものととても似ていて。
「……チーコ……」
思わず辰巳の口から零れるその名前。そしてそれを聞いた瞬間、カルセドニアはぱああああああっと今までで一番の笑みを浮かべた。
それは見る者誰もが、彼女が大きな幸福を感じているのを疑わない至福な笑顔。
そんな笑顔を浮かべた彼女の口から、辰巳にとんでもない衝撃を与える言葉が飛び出した。
「はい……っ!! はい、そうですっ!! 私は……私はチーコですっ!! ご主人様……あなたのチーコですっ!!」
『ペット聖女』更新。
さて突然ではありますが、自分、今までこうしてあとがきであれこれと書き込んできました。
ですが、こうしてあとがきであれこれ書き込むことを忌避するというご意見もあるそうで。
そこで当作よりあとがきには基本的に書き込まず、仕事などの関係で更新が遅れるなどの事務的な報告だけにしようかと思います。何かあれば、今後は活動報告に書き込むという方向で。
では、今後もよろしくお願いします。