援軍
〈魔〉の強さは一定ではない。〈魔〉それぞれに個体差──実体を持たないので「個体」とは呼べないかもしれないが──があり、それに加えて取り憑いた生物の欲望の大きさによって更にその力は左右される。
本来ならば、確実に〈魔〉を祓い消滅させるカルセドニアの《魔祓い》。その《魔祓い》でも、バルディオに取り憑いている〈魔〉を祓うことはできなかった。それは《聖女》とまで呼ばれ、これまでに何体もの〈魔〉を祓ってきたカルセドニアにとっても初めての経験だった。
〈魔〉自体の力がよほど強いのか、バルディオが抱える欲望がそれほどまでに大きいのか。もしかするとその両方なのかもしれない。
理由は定かではないが、〈魔〉はまだバルディオの身体の中に巣くっている。
カルセドニアの孤軍奮闘はまだ続くことになりそうだった。
バルディオの声に、カルセドニアは咄嗟に身を翻す。
だがそれは僅かに遅かった。彼女が身を捻るより早く、バルディオの手がカルセドニアの胸元へと伸び、ぐいっと神官服の襟元を掴み取った。
襟元を掴まれたまま、身を捻ればどうなるか。
びりびりという耳障りな音と共に神官服の胸元が破れ、彼女の豊かな胸の双丘の上半分と深い谷間が露になる。
女性としての本能からか、反射的に両手で露になった胸元を隠そうとするカルセドニア。
しかし、それは眼前に敵対的な存在がいる今の状況では、隙以外のなにものでもなかった。
先程とは反対側のバルディオの手が伸び、不自然に節くれ立った指が、カルセドニアの細い手首に食い込む。
手首に走った激痛に、カルセドニアの身体が一瞬だけ動きを止める。そしてその一瞬で、バルディオはカルセドニアを引き寄せて腕の中に抱き締めてしまった。
〈魔〉に憑かれた証である赤い瞳。再び赤く輝いたその瞳を間近に見て、カルセドニアは悲しげな表情を浮かべた。
いつも、穏やかに微笑んでいたバルディオ。幼い頃はまるで兄のように慕い、彼も自分を妹のようにいろいろと面倒をみてくれた。
もちろん、今でも彼のことは辰巳やジュゼッペとは違うが、家族のような人物だと思っている。
そのバルディオの顔に浮かぶのは、普段からは想像もできないほど下卑た笑み。いつもは物静かで穏やかな彼が、今は別人のような好色な表情で、露になったカルセドニアの深い谷間を覗き込んでいた。
いくら家族同然とはいえ、異性に胸元を覗き込まれるという事実に嫌悪感を覚え──もしも覗いているのが辰巳であれば話は別だが──、カルセドニアは戒めを振り解こうと必死に腕に力を込める。
だが、所詮は女の細腕。〈魔〉に憑依されたことで筋力が上昇している成人男性の腕を振り解くことは適わない。
それを悟ったカルセドニアは、心の中でバルディオに詫びながら素早く呪文を唱える。
彼女が選択した魔法は〈雷〉系統の《雷掌》。接触した相手に弱い電撃を浴びせる、〈雷〉系統の初級の攻撃呪文である。
初級の魔法だけあって、一撃で相手の意識を刈り取るような威力はない。それでも電撃を浴びせられれば、怯んで力が緩む程度の効果はある。その隙に拘束から逃げ出せば、必要以上にバルディオの身体に傷をつけることもないだろう。
カルセドニアの掌が、密着したバルディオの腹部にそっと触れた。
そしてその接触部分から、一瞬だけ鮮やかな薄紫の閃光が煌めき、バルディオは呻き声を上げながらカルセドニアを解放し、そのまま数歩後ずさる。
その隙に距離を取ったカルセドニアは、右手で胸元を隠しながら、新たな呪文の詠唱に入る。
詠唱するのは、先程と同じ《樹草束縛》。バルディオの動きを再び封じ込め、《魔祓い》に再挑戦するつもりなのだ。
だが、その作戦はバルディオ──いや、彼に取り憑いている〈魔〉も予測済みだったらしい。
バルディオはこれまでに見せたこともないような高速で、開いたカルセドニアまでの距離を一気に詰めると、不気味に指を蠢かせた両手を彼女へと向かって伸ばした。
詠唱が間に合わない。
すぐにそう悟ったカルセドニアは、詠唱を中断して回避に専念することを選択する。
確かに彼女ほどの熟達した魔法使いならば、詠唱を続けながら回避行動を取ることは可能だ。しかし、それでも回避だけに専念した方が回避率は当然ながら高くなる。
バルディオの意外な速度を目の当たりにしたカルセドニアは、より確実性を高めるために回避に専念することにしたのだ。
だが、バルディオの速度は更に上がり、回避に専念したカルセドニアを陵駕した。
実戦の中で鍛え抜かれたカルセドニアの体術を上回る速度で、バルディオは肉薄する。そのバルディオの両手がカルセドニアの胸元へとするすると伸びていく。
破れた神官服を更に広げ、彼女の豊かな胸を陽光の元に完全に晒そうとするつもりなのか。
目を血走らせ、口の端から涎を滴らせた今のバルディオは、完全に男の獣性のみで動いていた。
回避は間に合わない。それでもカルセドニアはその瞳に挫けぬ闘志を宿しながら、迫る両手をじっと睨み付ける。
そのカルセドニアの視線の先で。
迫るバルディオの両手の進路上を、流星のような銀線が駆け抜けてその進行を遮った。
銀線の正体は剣の刀身だった。
カルセドニアとバルディオが、同時に銀の流星が飛んできた方へと振り向く。そこにはカルセドニアが予想した通り、抜き身の剣を振り抜いた姿勢の《自由騎士》の姿があった。
「モルガー!」
カルセドニアが顔を輝かせる。そのカルセドニアに優しく微笑んだモルガーナイクは、すぐに表情を引き締めると魔物と化したバルディオを見定めた。
「バルディオ様……あなたほど敬虔な神の信徒でも、〈魔〉の囁きには抗えなかったのか……」
悲痛な表情のモルガーナイク。彼もまた、ジュゼッペの補佐官であるバルディオのことはよく知っているし、いろいろと世話になったこともある。
モルガーナイクは引き戻した剣を改めて構え、バルディオから視線を外すことなくカルセドニアに告げる。
「離れろ、カルセ。バルディオ様はオレが引きつける。その間に《魔祓い》の魔法を使え」
モルガーナイクの言葉に無言で頷いたカルセドニアは、素早くバルディオから距離を取ってモルガーナイクの背後へと回る。
そこへ、息を切らした辰巳がようやく到着した。
「ち、チ……コ……だ、だい……じょ……ぶ……か……?」
辰巳とモルガーナイクが話していた場所から、ここまでそれほど距離はない。だが、家族を失ってからアパートの部屋に引き篭もりがちだった辰巳の体力は、運動不足のためにかなり低下していた。
「ご、ご主人様っ!? ど、どうしてご主人様がここにっ!?」
辰巳がこの場に現れたことを驚くカルセドニア。しかも、その辰巳が不似合いな短槍まで手にしているとあって、彼女の驚きは更に倍というところだった。
「ここは危険ですっ!! すぐにここから離れてくださいっ!!」
「だ、だ……ど……っ!! チーコ……置い……俺だ……逃げ……わけには……っ!!」
いまだに息を切らせたまま、途切れ途切れに言葉を吐き出す辰巳に、カルセドニアは厳しい声できっぱりと言い切る。
「はっきり言って、ご主人様がここにいても足手まといなだけです! 早く立ち去ってください!」
「ち、チーコ……」
きつい言葉を投げかけるカルセドニアに、思わず呆然としてしまう辰巳。そこへ、今度はモルガーナイクの言葉が飛ぶ。
「カルセの言う通りだ、タツミ殿。君がここにいてもできることはない。せめて、オレたちの邪魔にならない所に引っ込んでいろ」
カルセドニアのように立ち去れと言わないだけ、モルガーナイクの方がましだった。だが、それは優しさからではなく、立ち去れと言っても素直に聞くわけがないと思っているからだろう。
「カルセ! タツミ殿のことは今は放っておいて、バルディオ様を救うことの方を優先しろ!」
カルセドニアに指示を出しながら、モルガーナイクは素早い剣撃を何度も繰り出す。
今、彼は剣の刀身をひっくり返した状態で使用していた。この国、ラルゴフィーリ王国で一般的に用いられている剣は、片刃で幅広の直剣である。
だが、実はこの国では剣を主武器に選ぶ者はあまり多くはない。ラルゴフィーリ王国で最も好んで用いられる武器は、槍か竿状武器なのだ。
これは寒さが厳しい土地柄が理由だった。
この国の宵月の節──つまり冬はとても厳しい。冬に野外で長時間金属製の武器を使用していると、金属部分がとても冷たくなり、下手にそこに触れると皮膚が貼り付きかねない。
そのため、木製部分が多く金属部分が少ない槍や竿状武器が多用される傾向にあるのだ。
同じ理由から、鎧も金属鎧よりも革鎧の方が好まれる。中には魔獣の毛皮や牙などの素材から作り出した武具を愛用する者もいる。
今、モルガーナイクが着用している板金製の鎧は、いわば神官戦士の「制服」のようなもので、神官戦士は神殿内では聖印の刻まれた金属鎧を装備するのが義務づけられているのである。
モルガーナイクも魔祓い師として神殿外で活動する時は、要所を金属で補強した魔獣の革製の鎧を愛用しているし、武器も剣と長槍を状況に応じて使い分けている。
モルガーナイクが今、剣を用いているのは愛用の長槍を持ち合わせていなかったこともあるが、それよりも刀身の背の部分、いわゆる「峰打ち」を用いることでバルディオを必要以上に傷つけないための配慮だ。
彼の鋭い剣撃は、戦いの心得のない者では到底躱すことなどできない。しかし、〈魔〉に取り憑かれたバルディオは、信じられないような反応を見せてこれを回避していく。
もちろん、モルガーナイクとていくらかは手加減している。いくら峰打ちとはいえ、金属製の鈍器には違いないのだ。そんなもので力一杯身体を殴打すれば、骨の一本や二本は簡単に折れてしまう。
しかし、避けられても別に構わない。
モルガーナイクの目的は、バルディオを打ち倒すことではない。彼の動きを制限して、カルセドニアに呪文を詠唱する時間を稼ぎ、彼女の呪文の効果にバルディオを捕えるさせることなのだから。
〈魔〉に憑かれたバルディオに勝るとも劣らない──いや、明らかに彼以上の速度でモルガーナイクは剣を振るう。
剣撃で空間を徐々に埋めていき、バルディオの逃げ場を奪っていく。
その力強く、それでいて美しささえ感じられる太刀筋を、辰巳は呆然と見つめていた。
これが《自由騎士》と呼ばれる男の実力なのか。
戦いに関しては全くの素人である辰巳でさえ、モルガーナイクの技量が並ではないことがよく分かる。
そして、その《自由騎士》の背後に位置し、戦いの成り行きをしっかりと見定めながら歌うように呪文を詠唱するのは《聖女》だった。
《聖女》は対峙している二人から決して目を離すことなく、最も適した場所を状況に合わせて保持しつつ呪文の詠唱を行う。
《自由騎士》もまた、まるで背後に目があるかのように、常に《聖女》とバルディオの間に自身の身体を置く。そうやって背後の《聖女》を守りつつ、《聖女》の剣となり盾となりバルディオを牽制し続ける。
実に息の合った二人の行動に、再び辰巳は目を奪われた。
思わず呆然と立ち尽くし、《自由騎士》と《聖女》の戦いを辰巳が見つめている間に、カルセドニアの《魔祓い》の呪文が完成する。
詠唱の終了と同時に、再びバルディオの足元から鮮烈な浄化の光が湧き上がる。辰巳には分からないが、その光は先程のものよりも遥かに強い。
モルガーナイクという「壁」が現れたことで、カルセドニアは詠唱に集中して先程よりも魔力を多く注いだ強力な《魔祓い》を使用することができたのだ。
光が吹き出すと同時に、モルガーナイクはバルディオから離れてカルセドニアの傍へと移動する。そして、彼女を背後に庇うようにして立ちながら、剣の切っ先を光の中にいるバルディオへと向け続ける。
そして、その光が徐々に薄れて遂には消え去った時。そこには大地に倒れ臥すバルディオの姿があった。
「……どうだ?」
「かなり魔力を多く注いだ《魔祓い》です。あれに抵抗できるとは思えませんが……」
共に倒れたバルディオから目を離すことなく、モルガーナイクとカルセドニアは倒れたバルディオを観察する。
特に先程、一度自身の魔法に抵抗されたカルセドニアは、決して油断することなく倒れたバルディオをじっと見定め、おかしな様子がないかを確かめる。
しばらくそうして観察した後、どうやら大丈夫と判断を下した二人が倒れたバルディオへと近寄ろうとした時。
彼らから更に背後で様子を見ていた辰巳が、突然鋭い声を発した。
「まだ近づくな! その人の近くに何かいる!」
その声に素早く反応し、カルセドニアとモルガーナイクはぴたりと足を止めた。
「ご、ご主人様っ!? ご主人様には何か見えるのですかっ!?」
「まさか……まさか、彼は『感知者』なのかっ!?」
実体を持たない〈魔〉は、目で見ることができない。そのため、〈魔〉はいつの間にかこっそりと忍びより、取り憑く標的となった者の耳元で囁いて誘惑する。
だが、中には生まれつきこの〈魔〉の姿を視認したり、その声を聞くことができる能力を持つ者がいる。その能力は魔法や魔力によるものではなく、あくまでも先天性の異能とも言うべき能力であり、その能力を有した者の数は魔法使いよりも更に少ない。だが、その異能を有した者たちは〈魔〉と戦う上では極めて貴重かつ重要な存在となる。
それが『感知者』と呼ばれる者たちであった。
実際に辰巳が感知者なのかは定かではないが、それでもこの状況で嘘は言わないだろう。
モルガーナイクはそう判断し、再び倒れているバルディオから距離を取った。カルセドニアに至っては、辰巳の言葉を疑いもせずにモルガーナイクよりも早く背後に下がっている。
モルガーナイクとカルセドニアの二人が周囲の気配を探るように警戒する中、辰巳の目にははっきりとそれが見えていた。
倒れたバルディオの身体のすぐ上。そこに黒いモヤのようなものが漂っていた。
よく目を凝らして見れば、その中に何か生き物のような姿が見える。
「……餓鬼……?」
ぽつりと呟く辰巳。その言葉通り、彼にはそれが餓鬼のように見えた。
小学生低学年の子供のような小さな身体に、不釣り合いな巨大な頭部。目はらんらんと邪に赤く輝き、手足は針金のように細いのに、その腹部は異様なほどに膨れている。
そして、額からは鬼のような一本の角。それは確かに何かの挿し絵で見た餓鬼にそっくりだった。
辰巳に見られていることに気づいているのかいないのか。餓鬼──いや〈魔〉はにたぁりと嫌らしい笑みを浮かべると、すぅと空を滑って移動した。
──ククク。ここにも大きな欲望を抱いているヤツがいるぞ。
声ではない声。それが辰巳には確かに聞こえた。
「モルガーさんっ!! 逃げろっ!!」
辰巳の目にだけ映る〈魔〉は、ゆっくりと、だが真っ直ぐに《自由騎士》の方へと移動する。
モルガーナイクも剣を構えて注意深く周囲を見回しているが、〈魔〉を見ることができない彼はその接近を容易に許してしまう。
そして。
ひっそりと《自由騎士》に近づくことに成功した〈魔〉は。
嫌らしい笑みを浮かべながら、染み込むように彼の身体の中へと入り込んだ。