一緒に抱きしめて
地響きを立てて、最後の軍竜が大地に沈む。
突き立てた槍を軍竜の体から引き抜きつつ、リントーは額の汗を拭いながら周囲を見回す。
とりあえず、他に動いている軍竜の姿がないことを確認し、リントーは仲間たちの状態を確認していく。
「怪我人は手近な神殿へ運び込め! 怪我のない奴は少しでも身体を休めておけ! ほら、そこ! ぼやぼやするんじゃねえ! そろそろ軍竜の本隊が……」
突然、リントーは言葉を途切らせて、鋭い視線を足元へと向ける。
足元から感じられる小さな揺れ。だが、その揺れは徐々に大きくなっていく。
「……どうやら、おいでなすったようだ」
リントーは仲間の魔獣狩りたちに声をかけ、改めて身構えた。
「ね、ねえっ!! カルセ、どうしちゃったのっ!? 急に姿が消えちゃったけど……あれってやっぱり……っ!?」
突然消えたカルセドニアの姿を探して、ミルイルは必死に周囲を見回す。だが、彼女の姿は見当たらず、ただ地に倒れた鏡像の辰巳の姿があるのみ。
「おそらく転移……ですね」
「うむ、エル殿の言う通りじゃろう。問題は、カルセを転移させたのが婿殿なのか、はたまた……む?」
エルと言葉を交わしていたジュゼッペが、更に厳しい表情を浮かべる。その直後、何も存在しなかった場所に、突然三人の人影が現れた。
「は……ぅ……っ!!」
吐息と共に、口から血が零れ落ちた。
同時に、彼女は腹部を押さえながらふらふらと数歩後ずさり、そのまま仰向けにどさりと倒れ込む。
「ど、どうして……」
彼女は──樹美は、倒れたまま自分の血に濡れた飛竜剣の刀身を、目を見開いて見つめる。
その刀身は、何もない空中から支えもなく生えていたのだ。
「け、剣の刀身が……私の身体をすり抜けて……?」
樹美が倒れたことで戒めから解放されたカルセドニアが、辰巳に支えられたまま驚愕の表情を浮かべ、自分の腰の後ろ辺りから飛び出している飛竜剣の刀身を凝視する。
だが、カルセドニアの身体に痛みは全くなく、当然出血も全くない。つまり、それが意味するところは一つ。
「…………もしかして……剣の刀身だけを……転移させた……?」
「ああ、その通りだよ」
カルセドニアの小さな呟きに、辰巳が答えた。
飛竜剣の刀身だけの転移。それこそが、辰巳のもう一枚の切り札であり、日本でティーナに助力してもらったことの成果である。
本来、辰巳たちの《瞬間転移》は物の一部だけを転移させることはできない。だが、その制約にも一つだけ例外が存在する。
その例外こそが、『アマリリス』だ。
『アマリリス』の鎖が自在に転移させることができるのと同じく、辰巳は飛竜剣の刀身だけを転移できるように、ティーナに加工してもらったのだ。
だが、ただ単に刀身を転移させたのでは、樹美に回避されてしまう可能性がある。辰巳が魔力波動を読んで『アマリリス』の鎖の転移を回避できる以上、樹美にも同じことができるのは間違いない。
そして、一度刀身が転移できると分かってしまえば、それ以後は当然警戒されるだろう。
だから、辰巳は機会を待った。そして、同時に読んでいたのだ。追い詰められた樹美は、間違いなく数日前と同じようにカルセドニアの身体を盾とするだろうと。
それこそが、辰巳が待ち望んでいた瞬間だった。
もっとも、カルセドニアと樹美が密着しているので、転移の目測を誤れば飛竜剣がカルセドニアの身体を傷つける可能性は捨てきれない。
だが、これまでに何十回とカルセドニアの身体を抱きしめてきた辰巳が、彼女の身体の厚みを見誤るはずがない。
結果、飛竜剣の刀身はカルセドニアの身体だけを転移で飛び越え、樹美の身体を貫いたのだ。
カルセドニアを支える形になっていた辰巳は、頭部を覆う兜を脱いで至近距離で彼女と互いに見つめ合う。
「ご、ご主人様……」
「改めて……ただいま、チーコ」
真紅の瞳と漆黒の瞳に、様々な思いが浮かんでは消えていく。
「お……お帰りなさい、ご主人様……っ!!」
両目に一杯の涙を湛えながら、カルセドニアは辰巳の首へと手を回して抱き付いていく。
だが。
そんなカルセドニアを、辰巳は両手で突き放すように押し止めた。
辰巳の手から落ちた兜が、音を立てて大地に転がる。
「…………え?」
思わずきょとんとした顔になるカルセドニア。一方の辰巳はといえば、俯いていてその表情を窺うことはできない。
「……俺、今回のことでいろいろと考えたんだ……もしかすると、俺は本当のチーコの……オカメインコだったチーコの、本当の飼い主じゃないのかもしれない……って」
今回の樹美の一件で、平行世界が実在することを確信した辰巳。それと同時に、彼は一つの疑問を感じるようになっていた。
それは、もしかすると自分がカルセドニアの──かつてオカメインコだったチーコの、本当の飼い主ではないのかもしれない。かつてのチーコの本当の飼い主は、別の「タツミ」ではないのか、という疑問を。
「……もしも……俺がチーコの本当の飼い主でなかったとしたら……」
ペットのオカメインコとその飼い主。それが辰巳とカルセドニアの絆の核心である。だが、その前提が崩れたとしたら。
その考えに思い至った時、辰巳は恐怖した。もしかしたら、自分は最愛の女性を失ってしまうのではないか。
それは辰巳にとって、何よりも恐ろしいことなのだから。
俯いたまま、表情を見せない辰巳。彼の言いたいことをようやく理解したカルセドニアは、むっとした表情になるとその拳をぐっと握りしめ──
「情けないことを言うなっ!! ヤマガタ・タツミっ!!」
激しい言葉と同時に、その拳で辰巳の頭を思いっきり殴りつけた。
ごつん、という鈍い音が周囲に響き渡る。
「……え? えええっ!?」
突然頭を殴りつけられ、今度は辰巳がきょとんとする番だった。
「確かに、最初の切っ掛けは前世の私の飼い主だったご主人様……ヤマガタ・タツミという男性に対する想いでした。でも……一年以上も一緒に暮らしたのは、間違いなく、今、目の前にいるヤマガタ・タツミという男性なんですっ!! 実際に一緒に暮らして私が恋い焦がれ、愛したのは……仮令以前の私の飼い主ではなかったとしても、目の前にいるヤマガタ・タツミなんですっ!! それに……それに、今更そんなことを言われても困っちゃうじゃないですか……」
「え…………?」
辰巳が改めてカルセドニアの顔を見つめれば、彼女は照れたような、それでいて幸せ一杯といった感じの笑みを浮かべ、自分の腹を優しく撫でさすりながら言葉を続けた。
「だって…………来年の今頃…………………………………………ご主人様はお父さんなんですよ?」
桜色に頬を染め、はにかみながらカルセドニアは衝撃的な事実を辰巳に告げた。
最初、辰巳は彼女の言葉の意味がよく理解できなかった。だが、徐々にその言葉の意味が彼の中に浸透していき、遂にその意味を正しく理解する。
つまり、彼女のお腹の中には二人の愛の結晶が宿っているのだ。
「ち、チーコ………………」
恐る恐ると言った感じで、辰巳は言葉を紡ぐ。
「抱きしめても………………いいか?」
「はい、もちろんです! 私を…………いえ、私と私のお腹の中の赤ちゃんを……一緒に抱きしめてください……!」
カルセドニアのその言葉が終わるよりも早く、辰巳は愛する妻を思う存分抱きしめた。
再び近づく二人の顔。
「もう一度……いえ、何度でも言いますね。お帰りなさい、ご主人様」
「ああ……俺は帰ってきたよ、チーコ」
「もう…………私を……いえ、私たちを置いて一人でどこかに行ったりしないでください」
「当然だ」
どちらからともなく、言葉を途切れさせた二人の唇が近づき、その距離がゼロになる。
二人が離れていたのは、ほんの数日。だが、二人にとってこれほど長い数日間は過去になかっただろう。
その数日の空白を埋めるかのように、辰巳とカルセドニアの唇は互いに相手を離そうとはしなかった。
鉛色をした雲が僅かに切れ、天空より差し込んだ一条の陽の光が地上を照らす。
その光は、抱き合う二人をまるで祝福するかのように、きらきらと照らし出していた。
「はいはい、二人の気持ちは理解できるけど、その続きは全部終わった後にねン。それに、妊婦さんをあまりきつく抱きしめちゃだめよ、タツミちゃん」
ぱんぱんと手を叩きながら、それでもジャドックやミルイル、モルガーナイクと言った仲間たちが笑顔を浮かべながらもやや呆れつつ二人の元へとやって来た。
ようやく今の自分たちの状況を思い出し、真っ赤になる二人。しかし、それでも互いの身体を離そうとはしないところがこの二人らしい。
そして、集まった仲間たちの視線が、地に横たわったままの鏡像の辰巳へと向けられた。
今、鏡像の辰巳の傍にはジュゼッペが跪いて彼の様子を窺っている。そして、樹美の方はエルが少し離れた場所から警戒しているようだった。
辰巳とカルセドニアは、慌てて鏡像の方へと駆け寄っていく。
「は……は……お……俺を忘れ……なにいちゃつい……んだよ……
鏡像の辰巳が、地面に横たわったまま弱々しい笑顔と共に言葉を零す。
そんな鏡像へと、仲間たちが見守る中ジュゼッペが優しい言葉を投げかけた。
「ほれ、しっかりせい。すぐに治癒魔法をかけてやるわい」
呪文の詠唱に入ろうとしたジュゼッペを、鏡像の辰巳は手を上げて止める。
「お、俺に……回復まほ……は効かないよう……です……よ、ジュゼッ……さ……ん」
先程より鏡像の辰巳の《自己治癒》が発動しているのだが、その効果が現れる様子はない。おそらく、鏡像は「生きて」いるわけではないため、回復系の魔法は効果を及ぼさないのだろう。
「それ……よ……り……」
ジュゼッペによって兜を脱がされた鏡像の辰巳が、本物の辰巳に向けて親指を突き立てた。
「もう……二度……チーコ……泣かせ……なよ……」
「ああ、もちろんだ。絶対にチーコを泣かせるようなことはしないよ」
同じように、辰巳も親指を立てて応える。そして、それを合図にしたかのように、鏡像の身体がゆっくりとぼやけ始めた。
今度こそ、鏡像がその姿を維持できる限界に達したようだ。
辰巳たちが見守る中、鏡像の姿は周囲の空気に溶け込むように消え失せた。
「……今度……あいつの本体である姿見を綺麗に磨いてやろう」
「そうですね……」
辰巳とカルセドニアは同時に目を閉じると、彼らが崇めるサヴァイヴ神へと感謝の祈りを捧げた。
地面に横たわった樹美は自らの腹に手を伸ばし、そこが生ぬるい液体で濡れていることを自覚した。
「く、くそ……くそ……っ!! ど、どうして……どうして……あいつだけ……っ!!」
樹美の目は、もう一人の自分ともいうべき辰巳の姿を映していた。
数多くの仲間たちに囲まれ、更には最愛の女性と幸せそうに辰巳は寄り添っている。
それに対して、自分はどうだ。たった一人、冷たい地面に倒れている有り様。しかも、腹を抉った傷は間違いなく致命傷だ。辰巳のように《自己治癒》を持たない樹美の命は、遠からず燃え尽きるだろう。
「ふざけるな……ふざけるな……っ!! どうしてあいつは……どうしてオレは…………っ!!」
辰巳を見つめる樹美の双眸に浮かぶのは、嫉妬。自分にないものを、自分が望むものを全て持つもう一人の自分が堪らなく妬ましく、憎かった。
「いい……じゃねえか……っ!! おまえの……周りには、そんなにたくさん……いるだろ……? だ、だったら……チーコぐらいは……お、オレにくれてもいいじゃねえか……っ!!」
言葉と共に血を吐きつつ、樹美は辰巳へと手を伸ばす。だが、その手が辰巳に届くことはない。
そんな彼女の元へと、ゆっくりと近づく者がいた。
「それは思い違いですよ、タツミさん」
その声の主へと樹美が視線を動かせば、彼女を見下ろしていたのはエルだった。
「タツミさんは……あちらのタツミさんは、今日までずっと努力してきました。神官として、魔獣狩りとして、そして何よりカルセさんの夫して。その結果、ああやってたくさんの人たちが彼の周囲に集まったんです。今回だって、あなたに飛ばされた日本で必死に努力して、本来なら自力で戻ることのできないこの世界に彼は帰って来ました。それに比べて……あなたは何かしましたか? あなたはただ、大切な人を失った悲しみに沈んでいただけ。言ってしまえば、あなたは思った通りにならないからといって、駄々をこねる小さな子供と同じなんですよ」
エルの言葉は冷たく鋭い。普段辰巳やカルセドニアたちと接している時とはまるで様子が違う。それは、彼女が樹美に対して抱いている怒りの大きさの表れだろう。
「大切な人を失うことは、辛いことです。私も……経験しました」
彼女の脳裏に、一人の男性の姿が浮かび上がる。見た目は特に特徴もない平凡な男性だが、その男性がとても心が強くて優しい人物であることを、彼女は誰より知っている。
「悲しみは……乗り越えられるんです。でも、あなたは弱かったから……それができなかった。そんな弱いあなたが負けたのは、当然のことではないでしょうか」
「うる……せえ……うるせえっ!! オレは……オレはまだ、負けていねえ……っ!! 今からあいつをぶっ殺して……チーコを取り返すんだ……っ!! い、嫌だ……嫌だっ!! あのチーコはオレの……オレのチーコが転生した姿なんだ……っ!!」
既に動かない身体を、樹美は必死に起こそうとする。そして、そんな樹美をエルは無言で見つめ続ける。
その時だった。その異変が生じたのは。
まるで地震のように大地が揺れる。突然の揺れに、辰巳たちが驚きの表情を浮かべながら周囲を見回している。
「こ、これは……地震か……? え、エルさん! こ、こっちの世界にも地震ってあるんですかっ!?」
「い、いえ……わ、私もこっちに来てから地震は初めてで……」
「婿殿とエル殿の言う『ジシン』とやらが何かは知らんが、この揺れはおそらく──」
「が……あああああああああっ!!」
ジュゼッペの言葉を遮るように、突然の悲鳴が上がる。悲鳴を上げたのは、地面に倒れていた樹美。驚いた辰巳たちが彼女の方へと目を向ければ、彼女の胸からオレンジ色の湾曲した剣先のようなものが二本、血に濡れて飛び出していた。
そして、その二本の剣先ががちりと噛み合うと同時に、樹美の周囲の地面が崩れ、その地崩れに半ば千切れかけた樹美の身体が飲み込まれていく。
クリソプレーズ邸の庭にぽっかりと空いた大きな穴。その穴から這い出してきたのは、オレンジ色と黒色の縞模様の体色をした大きな魔獣……すなわち、羽のない一際巨大な軍竜だった。