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魔に堕ちる

「なあ、タツミ」

「どうした、バース?」

 辰巳は井戸から水の入った桶を引き上げると、その水を自分が持ってきた水桶へと移し替える。

 そして、空になった桶を井戸の中へぽいっと投入。桶が水中に沈んだのを確認して、再び桶を引き上げ始める。

 その辰巳の後ろで井戸の順番待ちをしていたバースは、一所懸命に同じ動作を繰り返す辰巳に尋ねた。

「どうしておまえ、こんな下働きなんかしてんの?」

「どうしてって……これが俺たちの仕事だろ?」

 今日、辰巳とバースに割り振られた仕事は、井戸から汲み上げられた水を運ぶ仕事だった。

 昨日と同様にボガードのところに顔を出すと、ボガードは辰巳を見てにっこりと笑って彼に水運びの仕事を割り振った。

「昨日の様子なら、力仕事を任せても大丈夫だろ?」

 そう言うボガードから仕事の手順を説明してもらった辰巳は、運搬用の水桶とその水桶を担ぐための天秤棒を受け取ると、神殿の裏庭にある井戸へと向かった。

 バースとはその途中で一緒になった。どうやら、彼も今日は水運びの当番らしい。

「いや、おまえの嫁さん……ってか、嫁さんになる人、相当稼いでいるだろ? だったら、こんなきつい下働きなんてしなくても……そもそも、おまえが働かなくても充分暮らしていけんじゃね?」

「いや、チーコにだけ働かせて自分は何もしないなんて……俺、ヒモにはなるつもりは全くないぞ?」

「ヒモ?」

「あ、そっか。こっちのせか……じゃない、この国では女性に働かせておいて、自分では働きもしない男のことを『ヒモ』とは呼ばないんだ?」

「いや、そんな呼び方はしないな。確かに女に働かせて自分は何もしない男は、この国でも冷たい目で見られることが多いけど、でも、その女が魔法使いの場合は別だな。魔法使いってだけで特別だから」

 バースによれば、この国では魔法使いはそれだけで食うに困らないのだという。

 例えば、蝋燭や竃に火を付けるような小さな点火の魔法でも、近所の人たちがその魔法を頼り、代価として金銭や日用品、食料品などを置いていく。

 辰巳のいた世界のように、ライターなどで簡単に火を起こすことができないこの世界では、魔法で火種を作り出せればそれだけで重宝されるのだ。他にも〈光球〉の呪文が使えれば、夕方に辻などで「灯り売り」として魔法の灯りを売り、一晩でかなりの額の金銭を稼ぐことができるらしい。

 この国における魔法使いの立場を聞きながら、辰巳は引っ張り上げた桶の水を再び水桶へとじゃばばばーっと移し替えた。

「そりゃあ、俺にできることなんて本当に限られているけど……それでも、少しでもチーコの助けになりたいんだ」

「そっか。ま、俺はそういうの嫌いじゃないぜ? せいぜい頑張って嫁さんを助けてやるんだな」

「おう」

 バースの励ましに応えた辰巳は、気合いを入れて天秤棒を担ぎ上げる。

 結構大きめの水桶二つをぶら下げて天秤棒は、当然ながらそれなりの重さがある。しかし、昨日の薪割りや薪運びの時と同様、辰巳にはそれほど重さを感じられなかった。

 自分の身体のことながら何とも不思議に思いつつも、辰巳はせっせと水運びに精を出す。

 遠ざかっていく辰巳の背中を見送り、今度はバースが水を汲み上げながらふと疑問を感じて首を傾げた。

「そういや、どうしてタツミの奴は《聖女》様のことを『ちーこ』って呼ぶんだろな?」




 天秤で担ぎ上げた水桶の重量は、かなりの重さがあるはずだ。

 それなのに、辰巳はその重量をほとんど感じない。まるで水桶の中味が空であるかのように、軽々と辰巳は水を運んでいく。

 水を運ぶ先は厨房や浴場など。特に浴場には大量の水が必要なため、水運びの当番が何度も往復しなくてはならない。

 辰巳やバースと同じ水運び当番の下級神官たちが四苦八苦して水を運ぶ中、すいすいと何往復もする辰巳を他の下級神官たちが驚きの目で見つめる。

 辰巳自身、昨日もそうだったが自分の身体のことながら不思議で仕方がない。

 不思議といえば、昨日の仕事の後に感じた激しい疲労もそうだ。カルセドニアに言わせると、新米の魔法使いが魔法を使いすぎた時に似ているそうだが、当然辰巳は魔法を使った覚えなどない。更に言えば、そもそも辰巳は魔法の使い方など知らない。

 最初は異世界補正による身体能力の上昇かと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。

 あれこれと考えてみるものの、どれだけ考えようがこの疑問の答えなど出るわけがない。そう判断した辰巳は、水運びを続けながら他のことを考える。

「チーコと暮らすんだよな……い、一緒に……」

 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く辰巳。

 その彼の脳裏に浮かび上がるのは、一人の白金の髪の可憐な女性の姿。

 すらりとした長身。それでいて程よい肉付きの柔らかい身体。極めて整った美しい容貌。鈴を鳴らしたような澄んだ声。

 そして何より彼の記憶に焼き付いているのは、決して大きすぎることはなく、それでいて十分巨乳と呼べるレベルの実に彼好みのサイズの胸。

 それが一番印象に残っているのは、やはり彼がそういうことが一番気になる年頃の青少年だからだろう。

 そんな彼女と辰巳は、近々一つの家で一緒に暮らすことになる。そのこと自体は辰巳も承知したこと──多少周囲の勢いに流された感もあるが──だが、気後れする部分がないと言えば嘘になる。

 ジュゼッペを始めとした何人もの人たちが、自分とカルセドニアが結婚するものと思い込んでいることが、彼の心の中で引っかかっているのだ。

 もちろん、カルセドニアが嫌いかと聞かれれば、その答えはノーである。

 彼女がチーコの生まれ変わりであるのは間違いなさそうだし、あれほどまでに献身的に好意を寄せてくれる相手を嫌いに思えるはずがない。

 しかも、彼女の容姿は辰巳の好みのど真ん中でもあるのだ。一人の男として、この状況で心がときめかないはずがないというものである。

 それでもやはり気後れを感じるのは、いきなり結婚という事実が目の前に迫っているからだろう。

 つい数日前まで、生きる気力さえ失いかけていた辰巳である。その辰巳に結婚とか言われても正直ピンとこないのだ。

 しかも、その結婚相手は前世はともかく、今世では出会ってまだ数日しか経っていないのである。

 突然見合いを強要され、その数日後に結婚が決まりましたと言われれば、誰だって今の辰巳と同じ心境になるに違いない。

 とはいえ、カルセドニアは辰巳にとってはすでに家族である。

 辰巳に残された最後の小さな家族であったチーコ。そのチーコの生まれ変わりであり、前世の仕草や雰囲気を色濃く残しているカルセドニアは、たとえ姿は変わっても辰巳にとってはやはり家族であるチーコなのだから。

 だが、気にかかることは他にもある。

 それはカルセドニアが、言ってみればこの世界におけるトップアイドルのような立場にいることだ。

 この街どころか国中にその名の知られている聖女。その聖女がどこの誰とも知れない男と突然結婚するとなれば、きっと様々な憶測や突拍子もない思いつきが噂となって流れるだろう。

 そのことが、後々に彼女の立場や評判を悪くはしないだろうかという心配が辰巳にはあるのだ。

「……とはいえ、現状ではチーコたちに頼るしか、俺には生きていく選択肢はないんだよなぁ……」

 こちらの世界における身分は手に入れたが、それだけで生きていけるというわけではない。そして、手に入れた身分もジュゼッペの恩情によるものだ。

「…………ま、他ならぬチーコ本人が嬉しそうなんだから……いいよな?」

 昨日、彼女と一緒に街に買い物に出かけた時、生活用品を買い揃えるカルセドニアは本当に嬉しそうだった。

 もしもあれが何らかの理由による演技だとしたら、間違いなく辰巳は女性不信に陥るだろう。

 カルセドニア本人が辰巳との結婚を望んでいないというのなら話は別だが、どうも彼女も結婚については前向きのようだし。

 それならもう深くは考えず、家族であるチーコと一緒に暮らして、時に彼女を支え、時には彼女に支えられながら生きていこう。「夫婦」もまた、家族の形の一つなのだから。

 そして、今度こそ家族を──どんなことがあっても大切な家族を守り抜こう。

 辰巳は改めてそう決心して天秤を担ぎ直すと、足取りも軽く浴場へと向かう。

 そんな彼の背中を、物陰からじっと見つめている者がいたことを、この時の彼は全く気づいていなかった。




 いつものように表情を引き締め、静かに神殿の通路を歩いていたカルセドニア。

 だが、突然よく知った声に名前を呼ばれ、カルセドニアは立ち止まって振り返った。

 振り向いた先には、予想通りの人物の姿。その姿を見て、それまで厳しめだった彼女の表情がふっと和らぐ。

「少々尋ねたいことがあるのだが……今、時間は大丈夫だろうか?」

「ええ、構わないわ」

 立ち話も何だからと、二人は神殿の庭へと回る。

 神殿の庭は、信者たちの社交場でもある。庭のあちこちでは信者たちが思い思いに数人ずつ集まり、他愛のない会話を楽しんでいた。

 そこへ、《聖女》と名高いカルセドニアが姿を見せれば、当然ながら信者たちの視線は彼女へと集まることになる。

 しかも、彼女は男性と二人で連れ立って歩いているのだ。それを見た信者たちは、ひそひそと様々な憶測を交わし合う。

 もちろん、中には陶然とカルセドニアの姿に見入っている信者たちもいるが。

 そんな視線とひそひそとした会話の中を、カルセドニアは慣れたように堂々と胸を張って歩を進める。

 そして、庭の片隅に空いている椅子を見つけると、連れ立ってきた人物と並んで腰を下ろした。

「それで、尋ねたいことって何?」

「……近々、君は神殿を出て家を構えるそうだね?」

 どこか尋ね辛そうに切り出したその人物に、カルセドニアはふわりとした笑みを浮かべる。

「ええ、本当よ。その話、お祖父様から聞いたの?」

「いや、猊下から直接聞いたわけではないのだが……」

「その話は本当よ。そして……私はある殿方と一緒に暮らすの」

 一緒に暮らす少年の面影を脳裏に思い浮かべ、照れながらも本当に嬉しそうな表情を見せるカルセドニア。

 その艶やかな笑顔を見た時、彼女の隣に腰を下ろした人物の心臓が苦しげに鼓動し、彼は自分の心の奥底でじくりとどす黒いモノが蠢くのを確かに感じた。

「き、君が一緒に暮らす男というのはあの男だろう……? 数日前に神殿に来て、昨日辺りから下働きをしているあの下級神官……」

「ええ、そうよ。あなたも会ったでしょう? あの方よ……あの方こそが、私がずっと求めていた方なの」

 と、にこやかに微笑むカルセドニア。その笑顔を見て、彼の心が更に軋む。

「…………本気なのか……?」

「え?」

「君ほどの……《聖女》とまで呼ばれている君ほどの女性が、あんな下働きの下級神官と一緒になって……それで君は幸せになれるのかっ!?」

 普段から温厚な彼らしくもない厳しい口調。それを彼らしくもないなと思いながら、カルセドニアは幸せそうな笑みを消すことなく、きっぱりと彼に言う。

「それは少し違うわ。ううん、やっぱり違わないかも。私があの方に幸せにしてもらうのではなく、私があの方を幸せにするの。そして……そして、あの方が幸せでいられたら、それが私にとっても至上の幸せなの」

 辛い過去を経験した辰巳。その彼を幸福へと導くために、カルセドニアは彼をこの世界へと召喚したのだ。

 もしも元の世界で辰巳が満ち足りた生活を送っていたならば、カルセドニアも彼を召喚したりはしなかった。確かに辰巳に再会することは彼女の悲願だったが、それでも彼の満ち足りた生活を壊してまで行うことではないと、カルセドニアにも分かっている。

「あの方と共に生きていくことが、私にとっては何よりの幸せなのよ」

「そうか……君の決意は変わらないんだな……」

 大輪の花のような笑顔を浮かべるカルセドニアに対し、彼はその顔を地面へと向けると両手で覆い隠した。

 がっくりと落とされた両肩が、いや、彼の身体全体がガタガタと激しく震え出し始める。

「ど、どうしたの……?」

 異様な雰囲気を漂わせ始めた彼の様子に、カルセドニアは思わず眉を寄せる。

 彼と最初に出会ったのは、カルセドニアがジュゼッペに引き取られた時だ。それ以来、彼とは随分と長いつき合いだが、彼女の記憶にある彼は、いつも穏やかな笑みを浮かべている物静かな人物であった。

 その彼がここまで異様な雰囲気を漂わせるとは。カルセドニアはただならぬものを感じて、その激しく震える肩へと手を伸ばそうとした。

 その時、カルセドニアは彼が地面を向いたまま、小さな声でぶつぶつと何かを言っていることにようやく気づく。

「………………は…………の……………………だ……」

 地の底から響くような不気味な声。カルセドニアは伸ばしかけていた手を引き戻し、反射的に勢いよく立ち上がった。

「……あなた……まさか……」

 震える声が、カルセドニアの可憐な唇から零れ落ちる。

 その声に反応したかのように顔を上げた彼は、狂気を宿した双眸でカルセドニアを見て、にやりと粘ついた笑みを浮かべた。

「カルセドニア……君は誰にも渡さない……君は……君は俺のものだ……」

 じっとカルセドニアを見つめる彼の双眸には、人にはあり得ない赤い光が宿っていた。



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