水を得た魚
辰巳の故郷である日本には、「水を得た魚」という言葉がある。
今のミルイルはまさにその言葉通りだと、この時の辰巳に意識があればそう思っただろう。
水中を縦横無尽に泳ぎ回り、魔物と化した鎧竜を翻弄する。
そして鎧竜の隙を突き、その腕や背中の鋭利なヒレで魔物の体を斬り裂く。
さすがに辰巳の《裂空》には及ばないが、それでも魚人のヒレは頑強な鎧竜の甲殻さえ斬り裂くことが可能である。
既に体の三割ほどを縦に裂かれた鎧竜は、今ではその大きさを更に小さくしていた。
甲殻の所々を抉るように斬り飛ばされて、その下の柔らかい皮膚が顔を出している。その露出点を狙ってエルフの戦士たちが次々に矢を射かけていく。
放たれた矢は深々と魔物に刺さり、その周囲の水が異色に染まる。
体中に無数の矢を浴びて、鎧竜が苦しげにその巨体を激しく捩らせた。
魔物が動いたことで水流が生じ、周囲にいたエルフの戦士たちが流されて態勢を崩す。
だが、乱れた水流をものともせず、ミルイルはエルフの戦士たちの間を滑るように擦り抜ける。そして、そのまま鎧竜の頭部に近づくと、顔の前で交差させた両腕を勢いよく左右に振り抜いた。
鎧竜の複眼と複眼の間に「×」状の傷が深々と刻まれ、魔物は水中で苦悶の咆哮を洩らした。
意識のない辰巳の身体を支えながら、カルセドニアとシェーラはようやく湖面から顔を出す。
「カルセちゃんっ!!」
陸からカルセドニアを見つけたジャドックがその名を呼ぶ。その隣には、モルガーナイクが複雑そうな顔で湖面をじっと見つめていた。
シェーラの助力を得て辰巳と共に陸へと揚がったカルセドニアは、そんなモルガーナイクを見て僅かに首を傾げた。
「どうしたの、モルガー?」
「あ、ああ、いや……先程、ミルイルの魔法を目の当たりにしてな……あのような魔法を見たのは初めてだったので……」
なるほど、とカルセドニアも納得する。彼女自身も、初めてミルイルの魔法を見た時はそれはもう驚いたものだ。
「あ、あの……もしかして、先程すれ違ったのは……」
どうやらシェーラは、二人の話の内容からミルイルの魔法を推測したらしい。
だがカルセドニアは、シェーラの言葉に素直に頷けない。ミルイルが自身の魔法に対してかなりの劣等感を抱いていることを知っているからだ。
答えに窮するカルセドニアを、さりげなくジャドックが救いの手を差し伸べる。
「ほらほらカルセちゃん、早くタツミちゃんの手当てをしないと。タツミちゃんには、まだ最後の一仕事が残っているわよン」
鎧竜に止めを刺し、その体から〈魔〉を追い出す。そこを辰巳の〈天〉の魔力で攻撃すれば、〈魔〉は消滅を免れることはできないだろう。
カルセドニアの《魔祓い》よりも辰巳の方が確実なので、ここは彼に復活してもらう必要がある。
それに辰巳の治療は、カルセドニアにとっても最重要事項でもあることだし。
カルセドニアは辰巳の身体を地面に横たえると、改めて怪我の具合を確かめる。
飛竜の鎧のお陰で、致命的なダメージはないようだ。だが、苦しげな呼吸を繰り返す辰巳は、決して軽傷と言える状態ではない。
「待っていてください、旦那様。すぐに治療いたしますから」
頭部の防具を外し、露になった夫の額に一度だけそっと唇を触れさせると、カルセドニアは治癒魔法の詠唱を開始した。
自分の周囲を高速で泳ぎ回る変な魚。そして、少し離れた所から絶え間なく矢を射かけてくる小さな連中。
それらから逃れるべく、鎧竜は満足に動かない体を必死に捩る。
だが、自分が向かおうとする先に、常にあの変な魚が回り込んでくる。
魚の鋭利なヒレが自分の体を削る度に、鎧竜の残り僅かな命の炎もまた削られていく。
動きの素早い魚を振り切ることは難しい。ならば、魚が絶対に追いついてくることができない場所に逃げればいい。
そう判断した鎧竜。すぐ近くで「ナニカ」が囁いているようだが、そんなものは無視だ。今一番重要なのは、この場から逃れることなのだから。
鎧竜は必死に体を捩り、魚が追いかけてこられない場所を目指す。魚が追いかけてくることができない場所──つまり、陸へと。
おかしな魚の正体を知らない鎧竜は、魚から逃れるために巨体をゆっくりと浮上させていく。
だが、もう少しで湖面に到達する直前、下方から追いかけてきた魚に追いつかれてしまった。
必死に逃げる鎧竜。しかし、水中を泳ぐ速度は魚の方が圧倒的に速い。
追い上げてきた魚は、その身体をくるりと回転。そのまま高速で回転しつつ、自分に迫ってくることを鎧竜は感じ取っていた。
しかし、今の鎧竜にできることは何もない。ただ必死に、陸に揚がることだけを考えて逃げ続けるだけ。
そして遂に、高速回転する魚と鎧竜が接触する。
魚の鋭利な背ヒレが、鎧竜の弱点である腹部を縦一直線に斬り裂き、抉り取り、破壊していく。
鎧竜の巨体がようやく湖面を割って湖の外に出たのと、魚のヒレが魔物の命の炎の最後の一欠片を刈り取るのは殆ど同時。
腹部を縦に深々と斬り裂かれ、強大な生命力を誇った鎧竜も、とうとう力尽きたのだった。
大量の水を押しのけ、鎧竜の巨体が湖面に現れる。
同時に、その体から「ナニカ」が抜け出し、そのまま空へと逃げ去ろうとしているのを、彼のその黒い瞳は確かに捉えていた。
彼──辰巳の手元で小さな金属音が奏でられると同時に、手元から迸った朱金の輝きは空間を渡り、逃亡する〈魔〉の小さな体を容易に貫く。
同時に、辰巳は『アマリリス』の鎖に魔力を流して〈魔〉を爆破。それだけで、鎧竜に取り憑いていた〈魔〉はあっさりと消滅した。
それを確認した辰巳は、ほぅと息を吐き出すと共に苦痛に顔を顰めてその場で片膝をつき、そのまま座り込んでしまう。
「大丈夫ですか、旦那様?」
「あ、ああ、大丈夫だよ、カルセ。〈魔〉は消滅したし、鎧竜も倒せたみたいだし……気が抜けたらちょっとだけ痛みがぶり返したんだ」
心配そうに辰巳の顔を覗き込むカルセドニアと、カルセドニアを安心させるために微笑む辰巳。
カルセドニアの治癒魔法で、怪我を回復させて意識も取り戻した辰巳だが、鎧竜の触手の直撃によるダメージは重く、まだ完全にはダメージを回復しきっていない。
《魚人化》したミルイルが、水中なら手負いの鎧竜に負けるはずがないと確信していた辰巳とカルセドニアは、魔法による回復は最低限だけに留め、湖から鎧竜もしくは〈魔〉が出てくるのを待ち構えていたのだ。
そしてその読み通り、鎧竜は現れた。同時に、その体から〈魔〉が離れたことで、魔獣の命の炎が遂に消え去ったことも悟る。
最後に辰巳が〈魔〉を消滅させたことで、一連の鎧竜に関する事件はようやく終了と相成ったわけだ。
「……終わったな」
「……終わりましたね」
視線を絡ませ合った二人は、どちらからともなく唇同士を軽く触れ合わせ、再び微笑み合う。
「あーもー、終わった途端にこれよ、これ。相変わらず仲がよくて結構なことだわ」
呆れをたっぷりと含んだ声が、湖の方から聞こえた。二人が慌ててそちらへと目を向ければ、そこには水から首だけを出しているミルイルの姿がある。
「お、お疲れ、ミルイル。今回は大殊勲だな」
「ありがと、タツミ。悪いけど、ちょっとあっちを向いていて。そろそろ私も水から揚がりたいのよね。もちろん、モルガーナイク様もよ?」
きっと鋭い視線で、ミルイルは少し離れたところにいるモルガーナイクを見つめた。どうやら、《魚人化》を使う時に服を脱いでいるところを見ていたことに気づいていたようだ。
「あらン、それを言ったら殿方の前で勝手に脱ぎ出したのはミルイルちゃんでしょ?」
「だ、だって、あ、あの時は急いでいたし……それに服を着たままで魔法を発動させると、武器や鎧やその他の持ち物まで壊れちゃうじゃないっ!!」
ミルイルやジャドックのように、宿屋暮らしの魔獣狩りは全財産を持ち歩くことが多い。
この世界には銀行のようなお金を預ける施設はないので、所有する財産は全て自分で管理しなくてはならない。
魔獣狩りの多くはミルイルたちのような宿屋暮らしであり、辰巳やカルセドニアのように自宅を持っている方が珍しいのだ。
持ち運びする際は、銀貨のままだとどうしても嵩張るので、財産は宝石や装飾品に替えて持ち歩くことになる。ミルイルとジャドックも、やはり所有する財産の殆どを宝石や装飾品に替えていた。
そのため、装備や持ち物を身に着けたまま《魚人化》を発動させてしまうと、ミルイルは全財産を失うことになってしまう。
そのような理由もあり、先程はモルガーナイクの前であっても服を脱ぐしかなかったのである。
ジャドックとミルイルのやり取りに笑いながら、辰巳は座り込んだままミルイルに背を向けた。もちろん、向こうではモルガーナイクも同じようにミルイルに背を向けている。
「ところで、旦那様。怪我の具合はいかがですか? 必要ならば治療の続きを行いますよ?」
カルセドニアは辰巳の隣に同じように座り込み、心配そうに尋ねる。だが、その質問に答えたのは彼女の夫ではなく、服を着終えたミルイルだった。
「治癒魔法なんだけど、さっきの水中戦でエルフの戦士の中に重傷者が出たみたいなのよ。それで、できれば《聖女》様に治療をお願いしたいってエルフたちが言っていたんだけど……大丈夫そう?」
ミルイルもカルセドニアの魔力が残り少ないのは薄々気づいているのだろう。魔獣相手にあれだけ魔法を連発したのだから、普通の魔法使いならばとっくに魔力が尽きているところだ。
「それに、重傷者はちょっと動かせそうにないのよね。だからカルセにはもう一度水の中に入ってもらわないと。着替えるのもその後の方がいいと思うわ」
そう言えば、とカルセドニアは自分の今の姿をようやく思い出した。
服を着たまま湖に飛び込んだので、濡れた衣服がべったりと彼女の身体に貼り付いている。そのため、凹凸の激しい彼女の身体の線が、これでもかというぐらいに浮彫になっていた。
「ひょ、ひょえええええっ!?」
顔を赤くしながら、カルセドニアは咄嗟に自分の身体を抱き締めた。同時に、「くちっ」と小さく可愛いくしゃみを零す。
彼女の可愛いくしゃみに、辰巳たちが明るい笑い声をあげる。その笑い声に押されるかのように、湖に浮かんでいた鎧竜の遺骸がゆっくりと湖の中に沈み込んでいった。
沈んだ魔獣の遺骸は、後で回収することもできる。それには、エルフたちもきっと協力してくれるだろう。
だから今は。戦いが終わった開放感と安堵感を最大限に感じつつ、辰巳たちは互いに笑い合い、勝利を称え合うのだった。
輝くような蒼穹に、小さな黒点が存在した。
それは鳥ではない。かと言って、飛行型の魔獣でもない。
なぜなら、それは空の真ん中に、何の支えもなく浮かんでいるのだ。
両腕を頭の後ろに回し、右足を自らの左足の上に乗せて。まるで、ソファかベッドの上に寝転ぶような姿勢で、それは空に浮かんでいた。
「……オレの《使い魔》を一瞬で消滅させたか……さすがは〈天〉の魔法使い……いや、《天翔》サマといったところか?」
目を閉じながら、それは──いや、その人物は、くつくつと愉快そうに笑う。
「あれがタツミ・ヤマガタ……いや、山形辰巳か」
その人物は、ロゴ入りのワインレッドの長袖Tシャツとジーンズを身に着け、その上から灰色のパーカーを羽織っている。
しかし、そのパーカーのフードを目深に被っているため、その容貌まではよく分からない。
ただ、フードの端から黒い髪の毛が僅かながらも覗いていた。
自分が放った《使い魔》を、いともあっさりと消滅させた黒髪の青年。その姿を《使い魔》の取り憑いた魔獣の視界を通して、その人物はずっと見ていた。
いや、違う。
その人物がじっと見ていたのは、黒髪の青年に寄り添うように存在する女性の方だった。
長く伸びた美しい白金色の髪。処女雪のような透明感のある白い肌。そして何より印象的なのは、宝石のような真紅の双眸。
「……ああ……ようやくだ……ようやく、君にまた会えた……」
閉じた目蓋の裏側に焼き付いた一人の女性の姿に、その人物はフードの奥で恍惚とした表情を浮かべた。
「もうすぐだ。もうすぐ……直接君に会える……準備が完全に整った時、オレは必ず君を迎えに行くから……その時まで待っていて……もう少しだけ待っていてくれ──」
そう呟きながら、まるで何かを握り締めるように、その人物は右手を虚空へと伸ばして拳を握った。
だが、その人物が最後に呟いた言葉は、空を吹き抜ける風に掻き消された。元より、その人物の言葉に耳を傾けている者など、この場には最初から一人もいないのだが。
フードの奥で、閉じられていた目蓋がゆっくりと開らかれていく。そして目蓋が完全に開かれた時。
フードの影の中で禍々しい赤い光が二つ、きらりと輝いた。