巨大甲殻類
無数の木々が生い茂る、広大な森林地帯。
その森林地帯の中に、なぜか「道」が存在した。
森林地帯のとある端から中央部に向けて、木々が存在しない「道」が延々と続いているのだ。
その距離は、人間の足で数日かけなければ踏破できないほど。道幅も広く、大型の馬車や猪車が余裕ですれ違うことができるだろう。
それだけの「道」を、それらは僅かな日数で作り上げた。しかし、それらの目的は決して「道」を作ることではない。
ただただ、それらは食欲を満たすために森林地帯の木々や動物たちを食べ、その結果が「道」となったに過ぎないのだ。
今も、五体のそれらが手近な木々をへし折り、地面に倒れた木をばりばりと咀嚼している。
鎧竜。人間たちがそう呼ぶ巨大な魔獣は、ひたすら周囲に存在するものを片っ端から食い荒らしていた。
足元に広がる光景に、辰巳は僅かに眉を寄せる。
数日前に宿泊した宿場町の宿屋で聞き込んだ通り、そして、エルフのシェーラの情報通り、森の中には五体の鎧竜がいた。
空中に停止している辰巳が視線を上げると、遠方に小さな村が点在しているのが見える。そして、その村々の手前には大きな湖。あの湖こそが、シェーラの故郷であるエルフの里が存在する湖だ。
このままだと、あと数日もすれば鎧竜たちは湖まで到達するだろう。そして、森の木々のように湖の中まで蹂躙するに違いない。
「……なんせ、この魔獣は水陸両生らしいからな……」
再び視線を足元へと移動させた辰巳が、誰に聞かせるでもなく呟く。
出発前にカルセドニアやエルから聞いた情報によると、鎧竜は陸上でも水中でも自在に活動できるらしい。
ならば陸上にいる内に倒さないと、人間である辰巳たちが不利になるのは明白だ。
改めて、辰巳は足元で蠢く魔獣を注視する。
その大きさは、大体体長六~七メートル、体高四~五メートルほどだろうか。体重に関しては、想像することが難しい。
五体いる鎧竜の内、一体だけ一回り大きな体の個体がいるが、おそらくそれがこの群れのボスだろう。
「……これが鎧竜か……」
幾つもの節に別れた体。節別れした個々のパーツは、見るからに頑丈そうな甲殻に覆われている。
その巨体の下には、かさかさと蠢く無数の脚。その脚も体と同じような甲殻に覆われており、防御力は十分だろう。
その巨体に反して、頭部は小さい。その小さな頭部には複眼らしき眼と触角があり、触角は周囲の様子を探るためか、絶えずひょこひょこと左右に揺れていた。
辰巳はその頭部に存在する、巨大な複眼へと眼を向ける。
鎧竜の身体は全体的に灰褐色だ。しかし、その眼だけは黒々とした漆黒であった。
「どうやら、今回は〈魔〉が取り憑いているわけじゃなさそうだ」
五体いる鎧竜の全ての眼の色は黒い。そこに〈魔〉が憑いた証である、赤い光は存在しない。
その事実を前に、辰巳は内心で少しばかり安堵する。
鎧竜は強敵である。その強敵に〈魔〉が憑けば、その強さが跳ね上がってしまうのだ。
そんなことを考えながら、辰巳は視線を再び遠方の湖へと向ける。
そこで彼の仲間たちが、鎧竜と戦うための準備をしているはずだ。
「……ここで、このまま俺一人だけで戦うわけにもいかないからな……」
確かに今の辰巳であれば、鎧竜を相手に十分勝利することができるだろう。
しかし今回の敵は複数であり、しかも厄介な毒も持っている。ここで危険を犯すよりも、仲間と協力した方がいいのは考えるまでもない。
彼が単独でここにいる理由は偵察だった。噂や事前の情報通り、鎧竜の存在や数などを改めて確かめに来たというわけだ。
《瞬間転移》や《飛翔》、そして《加速》が使える辰巳は、この世界で唯一の「高機動偵察機」とも言えるのだ。
「よし、そろそろ戻ってカルセたちに報告しよう」
辰巳は空中で身体を捻り、仲間たちが待つ地点へと向かう。
高速で蒼穹を駆けながら、辰巳は先程見た鎧竜の姿を再び脳裏に思い浮かべた。
「……鎧竜の見た目、一見ダンゴムシっぽいけど……水の中にも適応できるってことは、エルさんが言うようにダンゴムシよりダイオウグソクムシだな……」
ダイオウグソクムシ。
等脚目スナホリムシ科に属する、海生甲殻類の一種である。
地球においてはメキシコ湾や西大西洋周辺に棲息し、水深二〇〇から一〇〇〇メートルほどの海底の砂泥地に生息すると言われる。
体長は最大で五〇センチ近くにもなる巨大な甲殻類で、体重は一キロを上回り、その見た目はダンゴムシに近い。
実際、ダンゴムシとダイオウグソクムシは同じ等脚目に属する。
また、大型の割に極めて少食であることでも知られ、実際に飼育下では何ヶ月もの間絶食したまま生きていた記録も残されている。
今回の狩りの標的である鎧竜の見た目は、このダイオウグソクムシによく似ているのだ。
辰巳も感じたように鎧竜は一見するとダンゴムシっぽくも見えるが、水中でも活動できる点なども含めると、やはりダンゴムシと言うよりはダイオウグソクムシだろう。
もっとも、地球のダイオウグソクムシは少食なのに対し、こちらの鎧竜は随分と大喰らいのようだが。
もちろん見た目も似ているという程度であり、細部などは異なる点も多く見受けられる。更には毒の有無や水陸両生なことなど、鎧竜とダイオウグソクムシとでは生態面でも相違点もかなりあるので、あくまでも外見が似ているというだけのようだ。
透明度の高い水中を、白い裸身が幾つも漂っていた。
手足を器用に使いこなし、幾つもの人影は自在に水中を行き来する。
水底に生えている水草の草原を、その者たちはゆらりゆらりと揺蕩う。
時折、水草の中に何かを見つけるようで、その細くて白い手を水草の中に入れ、数本の水草を引き抜いていく。
空の色の髪と突き出した耳が目立つ人影の中で、少々特徴が違う人影が三つほど存在した。
一つは長い白金色の髪と真紅の瞳の女性。もう一つは、肩で切り揃えた明るい茶髪と同じ色の瞳の女性。最後のひとつはやや濃い目の茶色の髪と瞳をした女性だ。
他の空色の髪の人影たちと同じく、その三人も全裸で水中を巧みに移動している。
水面で息継ぎをすることなく、彼女たちは水草の中を漂い、時折水草を引き抜く。
集めた水草が一定量を超えたのだろう。明るい茶髪の女性が、近くにいた白金色の髪の女性の肩を指先でちょいと突き、そのまま水面の方へと指先を向ける。
その仕草に、白金色の女性はこくりと頷く。そして、同じように近くにいた濃い茶色の髪の女性にも合図を送る。
三人はゆっくりと浮上する。そして、水面を割って顔を水中から突き出した。
「ふう……」
明るい茶髪の女性──ミルイルは、肺の中の空気を一気に吐き出す。
「水中での薬草探しも大変よね。もっとも、今回はカルセが魔法を使ってくれたから随分と楽だけど」
「それに、シェーラ姉さんや里のエルフたちも協力してくれたしな」
三人は水中で採取した薬草を手に持ちながら、ゆっくりと岸を目指して泳いでいく。
その後ろを、同じように水面から顔を出した数人のエルフの女性たちが続いた。
「私たちの里のために皆さんはがんばってくださるのですから……私自身は鎧竜との戦いに何の役にも立ちませんから、せめてできることぐらいはお手伝いしないと」
エルフの女性たちを率いるのは、長の娘であるシェーラだ。
彼女たちは今、鎧竜の吐き出す毒に対抗するための薬草を採取していた。
鎧竜の毒に有効な薬草は、水中に自生する水草なのだ。この数種類の水草を擂り潰して混ぜ合わせ、水を加えて練り上げる。
それをガムのように口の中で噛むことで、鎧竜の毒をほとんど中和することが可能となる。
本来ならば、水中の薬草を集めるのは大変な仕事だ。しかし、今回はカルセドニアの《水中呼吸》と《水中行動》の魔法があったため、水中での薬草採取は楽に行うことができた。
更にはエルフたちの協力もあり、予想していたより短時間で必要量の薬草を集めることができたのだった。
水から揚がったカルセドニアたちは、陽の光にその眩しいばかりの裸身を惜し気もなく晒す。
もっとも、ここにいるのはエルフたちも含めて女性ばかりである。ちなみに、協力してくれたエルフが女性ばかりなのは、辰巳の主張があったからだ。
例えエルフが相手といえども、自分以外の男性の目に愛する妻の裸身を晒したくない。それだけは辰巳は絶対に譲らなかった。
仮にこの場に男性のエルフがいたとしても、カルセドニアやミルイルたちの裸身に何ら興味を示すことはないだろう。
エルフたちは水中で暮らす種族であり、衣服を着る習慣がない。そのため、異性の裸身を見ても特にどう思うこともないのだ。
しかし、それでも割りきれないことは存在する。頑として自分の出した条件を譲らない辰巳に、シェーラも笑顔で応じてくれた。
カルセドニアたちやエルフの女性たちは、水から揚がると岸に置いてあった籠の中に採取した水草を入れていく。
いくつかの籠の中に、種類ごとに分けて入れられた薬草たち。これだけあれば、鎧竜との戦いに十分足りるだろう。
「私たちが協力できるのはここまでです。皆さん、ご武運を。ミーラ、あなたは絶対に無理しちゃ駄目よ?」
「ああ、分かっているって、シェーラ姉さん。みんなの邪魔だけはしないさ」
「協力に感謝します、シェーラ様」
互いに言葉を交わすと、シェーラたちエルフは水中へと消えていった。
それを見届けたカルセドニアたちは、用意しておいた布で身体を拭いて手早く衣服を着る。そして、それぞれに籠を持って歩き出した。
彼女たちが向かう先には、ジャドックとモルガーナイクが薬草を調合する準備をしているはずだ。
それにそろそろ、偵察に出ていた辰巳も戻ってくるだろう。
彼らがここまで来るのに利用したパーロゥや猪車は、近くにあるミーラの故郷の村に預けてきた。鎧竜との戦いに騎獣たちが巻き込まれる心配はない。
間もなく鎧竜と戦うための準備が全て整う。そうなれば、後は全力で魔獣と戦うだけだ。
口に出すことはせずとも、三人はそれぞれに気合いの入った顔をしていた。
上空から辰巳が舞い降りる。
しかし地面に足を付けた途端、彼はその顔を思いっ切り顰めた。
「うげ……すごい臭いだな……」
口元を手で覆いながら、辰巳はそれをじっと見つめる。
彼が見つめる先では、モルガーナイクとジャドックがカルセドニアたちが集めた薬草を擂り潰している真っ最中だ。
どうやら、この悪臭の元はその薬草らしい。
独特の青臭さとえぐみを混ぜ合わせたその臭いは、辰巳だけではなく誰もが顔を背けるだろう。
現に薬草を調合している二人も、口元を分厚い布で覆いながら作業をしている。
そして髪から水滴を滴らせたまま、女性陣たちはその光景を遠巻きにして眺めていた。今の彼女たちの顔に、先程まであった決意の表情は見る影もない。
それぐらい、この薬草の臭いは酷いものだった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
辰巳の帰還に気づいたカルセドニアの顔が、それまでとは違って花が咲くように弾けた。
「……これ、本当に口に入れても大丈夫なのか?」
「た、確かに臭いは酷いし、味もそ、その……で、ですが、これが鎧竜の毒を中和するのは確かですし……」
カルセドニアは視線を泳がせる。どうやら、臭い同様味も相当酷そうだ。
しかし彼女が言うように、鎧竜の毒にやられるよりはましに違いない。
顔を顰めながら無言で作業する二人の手元を眺めながら、辰巳は思わず呟いた。
「も、もしかすると……この薬草の方が鎧竜よりも余程手強い相手かもしれないな……」
というわけで、鎧竜の外見はダイオウグソクムシでした(笑)。