審判の足音
「…………とまあ、そんな訳でして。ここはひとつ、ディグアン様のお力で、その黒尽くめの傭兵を何とかして欲しい、とガルドーも言っている次第です」
トガの町は代官の館。
その一室で、ディグアンは早朝から一人の客を迎えていた。
その客はディグアンもよく知っている人物で、過去にも面会したことがある。もっとも、その時は今のように一対一ではなく、他の者たちと一緒だったのだが。
言うまでもなく、その客とはガルドーの取り巻きの一人だ。
ガルドーの指示によってラギネ村を出た彼は、途中で日が暮れたので街道から少し外れた場所で野営をしたため、トガの町へ到着するのが今の時間になってしまった。
モルガーナイクの〈炎〉系の魔法によって灯りを得、夜通し駆け抜けたジョルトたちは、途中で彼を追い抜いたことになる。
その取り巻きの話を、ディグアンは仏頂面で黙って聞いている。
取り巻きの方も、見るからに不機嫌そうなディグアンの表情に内心でびくびくとしながらも、ガルドーに言われた内容を彼に告げた。
「どうでしょう? もしも我々にお力添えいただければ、ガルドーは女の奴隷を一人、お礼として献上すると言っておりますが……」
「女の奴隷だと……?」
この時、初めてディグアンが口を開いた。
それを女の奴隷に興味を示したからだと思った取り巻きは、更に言葉を重ねていく。
「ええ、そうです。以前、俺たちの村にいた女が一人、突然帰ってきましてね。その女を奴隷にして、ディグアン様に献上するつもりがあると……」
「もしかして、それはカルセドニアって名前の女かい?」
突然部屋の扉が開き、数人の人間が断りもなく部屋に立ち入って来る。
そのことに取り巻きは驚きの表情を浮かべたが、先頭にいる成人前と覚しき少年を見て、その表情は更に強くなる。
「て、てめえは……カルセやあの黒尽くめと一緒に村に来たガキ……? どうしててめえがここに……?」
その少年の背後には、この地の代官であるライカム・グランビアと、完全武装した数名の兵士の姿もある。
一体何が起こっているのかと取り巻きが呆然としている間に、ライカムが指示を出して兵士たちが彼を取り囲む。
「ひ……っ!!」
抜刀した兵士たちが、その剣先を取り巻きに突きつけ、取り巻きは情けない悲鳴を上げた。
「でぃ、ディグアン様……これは一体……?」
突きつけられた鋭い剣先に真っ青になった取り巻きは、引き攣った声でディグアンへと尋ねた。
「ディグアン。これで分かったかい?」
「はい……正直言えば、信じられません……いや、信じたくありませんでした……」
俯き、がっくりと肩を落とすディグアン。少年──ジョルトは、そのディグアンの肩にぽんと己の手を置いた。
「取り敢えず、こいつは牢にでも放り込んでおいて。それよりも、今すぐにラギネ村に向かう準備をしてくれないかな?」
「御意」
その場に跪き、深々と頭を垂れたライカムとディグアンの親子。
この地方の支配者である二人のそんな様子を、ガルドーの取り巻きは兵士たちに引き摺られながら、信じられないものを見る目で呆然と見つめていた。
辰巳たちがラギネ村を訪れた二日目の夜。
村長であるネフローの家を、とある一家が訪れていた。
彼らの来訪を告げられた時、村長のネフローとその息子のガルドーは、にたりと実にそっくりな笑みを浮かべた。
「くくく。ようやく覚悟ができたようだぜ、親父」
「うむ、思ったより早かったな。てっきりもう数日悩むだろうと思っていたが」
二人は共に狙っていた女が自らの手中に落ちたことを喜び合う。
ガルドーはカルセドニアを、ネフローはその母であるネメアを。
特にネフローは長年心の奥に押し込めた想いを解放できるとあって、その喜びはガルドー以上だった。
「親父、カルセの父親と妹はどうする? どうも一緒に来ているらしいが?」
「亭主ともう一人の娘が見ている前で、ネメアとカルセドニアに奴隷となることを誓わせるのも一興だろう」
「なるほどな。ついでに二人が見ている前でカルセと母親を抱いてやるか?」
家族の見ている前で、奴隷となったカルセドニアとネメアが、新たな主人に身体全体で奉仕する。
その光景を想像しただけで、ネフローとガルドーの親子の心に黒い炎が燃え上がった。
二人はそっくりな下卑た笑顔を浮かべながら、哀れな一家を待たせている部屋へと向かうのだった。
村長の家を訪れたカルセドニアとその家族たち。
彼らは村長の家の一室に通され、そこで村長とその息子が現れるのを待っていた。
「ここに来るのは、私だけで良かったのよ?」
「な、何を言っているんだ! おまえだけを村長の家に行かせるなんて、できるわけないだろう!?」
カルセドニアは、自分の隣で緊張しきっている家族に向けて言う。
辰巳が何を思ってカルセドニアに村長の家に行けと言ったのか、彼女にはそれがすぐに理解できた。
だから、彼女は一人でここに来るつもりだったのだ。
しかし、カルセドニアの家族たちがそれに猛烈に反対した。
「大体、何なんだ、あの男はっ!? カルセが選んだ男だと思ったからこそ、俺もあいつを義理の息子だと思おうとしたのに……あんなにもあっさりとカルセに……自分の妻に村長の家に行けだとっ!? あいつは自分の妻を何だと思っているんだっ!?」
ベックリーは、苛立たしげに床を踏みつける。
その大きな音にリリナリアがびくりと身体を震わせ、ネメアも悲しげな表情を浮かべた。
そんな家族の反応を、カルセドニアはきょとんとした顔で見つめる。
「あら、旦那様の態度が何かおかしかったかしら?」
「お、おかしいなんてものじゃないだろうっ!? あの男は自分の妻を村長とその息子に差し出そうと……」
「それはお父さんの誤解よ。旦那様はそんなつもりで私をここに来させたわけじゃないわ」
「え?」
今度はベックリーがきょとんとした顔をする番だった。
呆然とした思いで、彼は娘の顔を見て、娘の言葉を聞く。
今、カルセドニアは至って平常のままだ。
村長の息子へと差し出されたという悲愴感は一切なく、ただただ柔らかな微笑みを浮かべている。
やはり、自分の娘はどこか頭がおかしいのではないか。
この期に及んで平然としているなど、普通の娘ならばあり得ない。
ベックリーがそんなことを考えながら娘の顔を見つめていると、この部屋へと続く扉が開いて村長であるネフローと、その息子のガルドーが姿を見せた。
共に、下心が見え透いた下卑た笑みを浮かべて。
ネフローとガルドーの顔色が、見る見る変化していく。
つい先程まで嫌らしい笑みを浮かべていた村長親子。だが、今の彼らの顔に浮かんでいるのは、愕然とした驚きの表情だった。
いや、驚いているのは彼らだけではない。
ベックリーとネメア、そしてリリナリアといったカルセドニアの家族たちもまた、村長親子と同じような表情でただただ一点から目が離せない。
テーブルの上に並べられた、色とりどりの数個の宝石たちから。
「今は旅の身なのでこれぐらいしか持ち合わせがありませんが……これだけあれば、私の家族の借金を返済しても余裕で余りますよね? もちろん、余った分は借金の利息と考えてもらって結構ですから」
にっこりと。
腰の袋から宝石を取り出し、それをテーブルの上に並べ終えたカルセドニアは、全く邪気のない笑顔を浮かべた。
「お、おい、カルセ……お、おまえ……これだけの宝石……ど、どこで盗んできたんだ……?」
愕然としたまま、思わずそんなことを口走るガルドー。
彼のその言葉に思わずぴくりと眉毛を震わせるも、カルセドニアは笑顔を崩すことなく平然と答えた。
「失礼ね。これは私と旦那様が働いて稼いだものよ。あなたじゃあるまいし、盗んだりするわけないでしょ?」
笑顔のまま皮肉を口にするカルセドニア。しかし、当のガルドーの目はテーブルの上に並べられた宝石たちに釘付けになっており、彼女の皮肉に反応する様子もない。
「別に自慢するわけじゃないけど、銀貨八百枚程度、今の私や私の旦那様にとってそれほど大金でもないのよ?」
相変わらず笑顔のまま、胸を張ってそう宣言する。その際、彼女の豊かな胸がぽよんと揺れるが、この場の誰一人としてそれに注目する者はいなかった。
「では、村長さん。私の家族の借金、確かにお返し致しました。借金の証文があれば、ただちにこちらに渡してくださいますか?」
「う……うむ……」
笑顔でありながら、村長に対して得体の知れない迫力を無遠慮に浴びせかけるカルセドニア。
その迫力に押されるように、ゆっくりとネフローが立ち上がる。
おそらくは、カルセドニアの迫力に満ちた笑顔に押されるがまま、別の部屋にある借金の証文を取りに行こうとしたのだろう。
ネフローががたりと椅子を鳴らして立ち上がり、のろのろと部屋から出て行こうとした時。
もう一回、がたりと椅子が鳴った。
部屋の中にいた全員が、その音の発生源へと視線を向ける。
幾つもの視線の先では、音の発生源──ガルドーが真っ赤な顔で立ち上がっていた。
「…………ふざけるな……っ!!」
真っ赤な顔──怒りの形相を浮かべたガルドーが唸るように呟いた。
「ふざけるなっ!! どうしておまえが……気狂いのおまえがこんな大金を持っているんだよっ!? そ、そうかっ!! おまえと一緒に来た、あの中年の親父に貢がせたってわけかっ!? はン、尻軽の売女のやりそうなことだなっ!!」
唾を飛ばして叫びながら、ガルドーがその太い腕を伸ばしてカルセドニアの細い腕を掴む。
そして、そのまま力任せに彼女の身体を引き寄せた。
「なら、俺にも味合わせろよな? この大きな胸を! このたまらねえ尻を! 一晩かけてたっぷりとよがり狂わせ、俺から離れられなくしてやるよ! おまえは俺のものなんだ! 他でもねえこの俺がそう決めたんだからよっ!!」
太い腕に抱きすくめられ、吐き出す息がかかる程にガルドーに顔を近づけられても、カルセドニアは一切怯える様子を見せない。
それどころか、抱きすくめられ、至近距離からガルドーを見上げるその目は、どこまでも冷たく彼を見下していた。
それが、ガルドーを更に苛立たせる。
冷たい表情を崩すことはないカルセドニア。それでもなお可憐な唇から、更にガルドーの意に添わない言葉が紡ぎ出される。
「そもそも、勝手なことを言わないでくれるかしら? 私の全ては……この胸も、お尻も────」
カルセドニアの指先が、艶めかしく自分の胸元と腰周りをそっと撫でる。
「────爪の先から髪の毛の一本一本に至るまで、全部私の旦那様の……いえ、ご主人様のものよ。決してあなたのものではないわ」
「ご主人様だとっ!? ああ、そうさ、おまえのご主人様はこの俺だっ!! 今日からおまえは俺の奴隷だっ!!」
ガルドーが更に勝手なことを喚き散らした時。
突然、部屋の中にぴぅぅぅぅんという澄んだ音が響いた。
同時に、部屋の外から一気に流れ込む冷えた夜の空気。その冷えた空気が、ある種の熱で満ちていた室内を一気に冷却する。
部屋の中にいた者たちは、一斉に空気の流れ込む方へと目を向け、再び唖然とした表情を浮かべた。
いや、只一人、カルセドニアだけはそれまでの冷たい表情が嘘のような笑顔を浮かべている。
村長の家は、このラギネ村の中で唯一石を積み上げて築き上げられた家である。
その家の石壁が綺麗に四角く──丁度人一人が通り抜けられるほどの大きさに──切り取られ、その向こうに星の瞬く夜空を背景に、一人の黒尽くめの人物がいた。
黒い鎧が夜空に溶け込み、その存在は判別しづらい。だが、部屋の中から洩れる灯りが、僅かにその姿を浮き上がらせる。
部屋から洩れる灯りの中で、黒尽くめの人物が軽く右腕を振り上げた。すると、その右手に巻き付いていた細い朱金の鎖がしゃららと心地良い音を立てて宙を走り、カルセドニアの手首に優しく巻き付く。
次の瞬間、カルセドニアの身体がガルドーの腕の中から消え失せ、黒尽くめの人物の腕の中に現れる。
黒尽くめの腕に抱かれたカルセドニアは、ガルドーに抱かれていた時とは正反対の嬉しそうな笑顔を浮かべながら、実に幸せそうに自らの身体を擦り寄せるように密着させ、両腕を進んで黒尽くめの人物の首へと絡ませた。
それはまるで、客の男に媚を売る娼婦のような仕草だった。
しかし、二人からは娼婦とその客のような下品な淫らさは一欠片も感じられない。
それどころか、どこか暖かで幸福な雰囲気を周囲に振り撒き、その場の誰もが二人の放つ暖かな雰囲気に引き込まれて目が離せない。
「家の外まで聞こえていたけど、いい加減その自分勝手なものの考え方、止めてくれないか? そして、俺の妻に勝手に触れないでもらおうか」
「き、貴様は……黒尽くめの傭兵……っ!!」
「ええ、そうよ。そして、この方こそが……私が世界で唯一愛する……私のご主人様よ」
カルセドニアが、黒尽くめの人物──辰巳の頬にそっと唇を触れさせながら、誇らしげに、そして幸せそうに宣言した。
「勝手なことを言うなっ!! おまえは俺のものだっ!! 俺がそう決めたんだっ!!」
ガルドーは握り締めた拳を振りかぶりながら、幸せそうに抱擁し合う二人に駆け寄る。
空気を押しのけ、唸りを上げて辰巳へと繰り出されるガルドーの拳。
だが、その拳が辰巳を捉えることはない。
拳が辰巳に触れるその直前、辰巳とカルセドニアの身体が忽然と消え失せた。
捉える直前に標的を見失い、そのままもんどり打って地面に倒れ込むガルドー。
何が起きたのか理解できず、それでも慌てて身体を起こしたガルドーは、きょろきょろと周囲を見回す。
ようやく辰巳の存在を見つけ出したガルドー。だが、彼の目が徐々に見開かれていく。
なぜならば、辰巳は宙に浮いていたのだ。
幸せそうに辰巳を見つめるカルセドニアを、いわゆる「お姫様抱っこ」の姿勢で抱き抱えたまま、辰巳は夜空という名の舞台の上に何の支えもなく立っている。
信じられないものを見るような表情で、夜空に浮かぶ二人を見上げるガルドー。
いや、それはガルドーだけではない。
慌てて外へと飛び出したネフロー村長も、そしてカルセドニアの家族たちも。
皆が再び唖然とした表情で、夜空に立つ辰巳とカルセドニアを見上げた。
「ま、魔法使い……」
思わずそう呟いたのは村長のネフローか、それともカルセドニアの家族の誰かか。
美女を抱えたまま夜空に浮かぶという幻想じみた光景を、彼らはただただじっと見つめていた。
「お、降りてきやがれっ!! この卑怯者がっ!!」
我に返ったガルドーは、拳を振り回しながら、宙に浮く辰巳たちを怒鳴りつける。
しかし、当の辰巳は当惑した表情でじっとガルドーを見下ろすばかり。
「……今更、どの口が卑怯とか言うかなぁ?」
突然、背後から聞こえてきた声。
その声にガルドーが振り向けば、そこには完全武装の三十人近くの兵士たちの姿があった。
兵士たちの先頭に立つのは、まだ成人前と思われる一人の少年。
少年は呆れたとばかりに両肩を竦めながら首を横に振っている。
だが、ガルドーの視線はその少年に向けられてはいなかった。彼の視線は少年の背後に立つ、よく見知った青年へと向けられていたのだ。
「でぃ、ディグアン様っ!!」
代官の息子であり、自らの後ろ盾だと思っているディグアンの姿を見つけたガルドーは、それまで怒り一色だった表情を喜色へと塗り替えながら、ディグアンの前で平服した。
「ディグアン様、こ、こいつですっ!! こいつがお話した黒尽くめの傭兵ですっ!! こ、こいつがこともあろうに、ディグアン様へと献上する予定だった女奴隷を奪ったのですっ!!」
ディグアンが騎乗するパーロゥの足元に跪き、そして着地した辰巳を指差しながらガルドーが一気に捲し立てる。
「どうかディグアン様と、配下の皆様方のお力をもって、あの黒尽くめの傭兵を捕えてくださいっ!! そして、女奴隷を私の手にお戻しください! いずれディグアン様へと献上致しますが、あれは私の奴隷になる予定の女で……」
「黙れっ!!」
ディグアンは、極めて厳しい──それでいて、どこか悲しげな──表情で、喚き散らすガルドーの言葉を遮った。