第13話「閉ざされた門と永遠の安らぎ」
◆アルベルト視点
頭上を覆う分厚い雲から、氷のように冷たい雨が絶え間なく降り注いでいた。
かつて王国の次期国王として栄華を極めたアルベルトの姿は、見る影もなく汚れ果てていた。
泥水をたっぷり吸い込んだ豪華な外套は鉛のように重く彼の両肩にのしかかり、一歩足を踏み出すたびに、ぬかるんだ腐葉土が靴底をべちゃりと吸い込む不快な音を立てる。
彼の金色の髪は泥と雨水で顔にへばりつき、かつて誇り高く保たれていた背筋は、極度の疲労と寒さによってみすぼらしく丸まっている。
後ろを振り返ると、マリアがやっとのことで彼にすがりつきながら足を引きずっていた。
彼女が自慢にしていた真紅のドレスは木の枝や鋭い岩に引っかかって無残に引き裂かれ、露出した白い肌には無数の擦り傷から赤い血が滲んでいる。
雨水が傷口に染みるたびに彼女は小さな悲鳴を上げ、寒さでかじかんだ両腕を自分の胸の前で固く抱きしめている。
彼らが国境の砦から逃げ出してから、すでに丸三日が経過していた。
持っていたわずかな食糧はとうの昔に底を尽き、乾ききった喉を潤すのは葉から滴る泥水だけだった。
森の奥深くからは、正体の知れない獣の低い唸り声や、虫けらが湿った土を這い回る音が絶え間なく聞こえてくる。
その音が風に乗って耳に届くたびに、二人はびくっと肩を跳ねらせ、怯えた視線を暗闇の奥へと向けることしかできない。
『どうして私が、こんな目に遭わなければならないのだ』
アルベルトの頭の中は、その身勝手な疑問と後悔で埋め尽くされていた。
彼らが頼りにしているのは、逃げ出す前に兵士が口走っていた死の森の楽園という不確かな噂だけだ。
ルークが作り出したという絶対の安全地帯に逃げ込めば、再び温かい食事と柔らかなベッドにありつけるはずだという浅はかな希望だけが、二人の重い足を辛うじて前に進ませていた。
突然、前方を遮る巨大な黒い樹木の向こう側に、淡い青色の光がぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
アルベルトは目をこすり、その光の正体を確かめようと足を早める。
木々を抜けた先には、深い暗闇の森とは完全に切り離された、巨大な光のドームが鎮座していた。
半透明の青い壁の向こう側には、太陽の光が降り注ぐ広大な畑と、温かな煙突の煙を上げる美しい街並みが広がっている。
結界の内部からは、豊かに実った果実の甘い香りと、人々が穏やかに笑い合う声がかすかに漏れ聞こえてくる。
「あった……本当にあったぞ。マリア、見ろ。あそこに行けば私たちは助かる」
アルベルトは狂喜の声を上げ、泥に足を取られて転びそうになりながらも、光の壁に向かって駆け出す。
マリアもまた、生気を取り戻したように顔を上げ、アルベルトの背中を追って必死に走り出す。
二人は結界の境界線にたどり着くと、その透明な壁に両手をべたりと押し当てた。
結界の表面は硬いガラスのような冷たい感触を返してくるだけで、中に入ることはできない。
アルベルトは拳を振り上げ、力任せに結界を叩き始める。
「開けろ。私は王国の次期国王、アルベルトだ。私を中に入れろ」
彼の嗄れた声が雨音に掻き消されたが、叩きつけた拳が結界の表面に微かな波紋を広げた。
その波紋に気づいたのか、結界の奥にある畑から、一人の青年がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
質素だが清潔な衣服を身に纏い、穏やかな足取りで歩を進めるその姿は、間違いなく彼らが追放したルークだった。
ルークの隣には、透き通るような銀色の髪を持った美しいエルフの少女が寄り添い、二人で何かを語り合いながら穏やかに微笑んでいる。
ルークが結界の境界線まで近づき、壁越しにアルベルトとマリアの無残な姿を視界に収める。
アルベルトはルークの姿を見るなり、かつての傲慢な態度を取り戻したかのように胸を反らせる。
「ルーク、よく聞け。王国の砦は魔物に破られた。私とマリアをただちにこの中へ保護し、温かい食事と休む場所を用意しろ。次期国王としての命令だ」
命令を下せば、ルークはかつてのように黙って従うはずだという根拠のない自信が、アルベルトの言葉には満ちていた。
しかし、ルークの黒い瞳には、驚きも怒りも、そして哀れみさえも浮かんでいない。
ただ路傍の石ころを見るような、徹底した無関心だけがそこにあった。
ルークは結界を解除することなく、壁越しに静かな声を響かせる。
「ここは私の国であり、王国とは何の関わりもない場所だ。あなたたちの命令を聞く義理はない」
淡々としたルークの言葉に、アルベルトは顔をしかめる。
「何を言っているのだ。貴様は私の義理の兄になるはずだった男ではないか。国が滅びようとしている時に、自分だけこんな安全な場所でぬくぬくと暮らしているなど、許されると思っているのか」
アルベルトの怒鳴り声を聞いても、ルークの表情はピクリとも動かない。
その隣で、マリアがアルベルトを押しのけるようにして前に出て、結界の壁にすがりつく。
彼女は顔を涙と泥で汚しながら、精一杯の愛想笑いを浮かべようとする。
「ルーク様……私です、マリアです。私、アルベルト様にたぶらかされて、無理やり連れ出されただけなのです。本当は、ずっとルーク様のことをお慕いしておりました。お願いです、私だけでも中に入れてください」
マリアの言葉を聞いたアルベルトが、信じられないという顔で彼女を睨みつける。
しかし、マリアはそれを無視して、必死にルークの目を覗き込む。
ルークは小さくため息をつき、静かに首を横に振る。
「この結界は、他者を陥れ、奪い取るような悪意を持つ者を決して内側には入れない。あなたたちがどれほど言葉を飾ろうと、その心にある淀みは結界を通り抜けることはできない」
ルークの声は冷たくはないが、どこまでも平坦で、交渉の余地が一切ないことを示していた。
アルベルトは絶望と怒りで顔を真っ赤に染め、再び結界を殴りつける。
「開けろ。開けないなら、この壁をぶち破ってでも入ってやる」
アルベルトが腰に下げていた剣を引き抜き、結界に向かって力任せに振り下ろす。
しかし、刃が壁に触れた瞬間、青い閃光が走り、剣は飴細工のようにぐにゃりと曲がって弾き飛ばされる。
その衝撃でアルベルトは泥の海に尻餅をつき、呆然とその光景を見つめることしかできない。
「帰る場所がないのなら、その雨の中で自分たちの犯した罪と向き合うことだ。二度とこの場所には近づかないでくれ」
ルークはそれだけを言い残し、シルフィの肩を優しく抱き寄せると、引き返すようにして背を向ける。
二人の背中が、温かな光に包まれた街の奥へとゆっくりと遠ざかっていく。
「待て。待ってくれ、ルーク。私を見捨てる気か。おい、待てと言っているだろう」
アルベルトの絶叫が冷たい雨の中に虚しく響き渡る。
マリアもまた結界をかきむしりながら泣き叫ぶが、その声が壁の向こう側の二人に届くことは二度となかった。
どれだけ叫んでも、光の扉が開かれることはない。
やがて、森の奥深くから、血の匂いを嗅ぎつけた無数の魔物たちの低い唸り声が、彼らを包囲するように近づいてくる。
アルベルトとマリアは泥にまみれたまま、ゆっくりと迫り来る漆黒の闇に向かって、ただ絶望の涙を流すことしかできなかった。
冷たい雨は、彼らの存在をこの世界から完全に洗い流すかのように、ただ静かに、そして冷酷に降り続いていた。
◆ ◆ ◆
結界の奥深くに広がる街の中央広場では、魔族やエルフたちが集まり、収穫祭の準備で賑わっていた。
外の世界で起きている惨劇など微塵も感じさせない、穏やかで温かい空気が空間全体を満たしている。
ルークとシルフィは広場の片隅にあるベンチに腰を下ろし、人々が笑い合う姿を静かに見守っていた。
シルフィが心配そうな表情で、結界の外の方向へと視線を向ける。
「ルーク……本当によかったのですか。あの二人を、外に置いたままで」
ルークはシルフィの頭に優しく手を置き、彼女の銀色の髪をゆっくりと撫でる。
「彼らを受け入れれば、いずれこの場所に不和と争いを持ち込むことになる。私が守るべきなのは、過去のしがらみではなく、今ここで懸命に生きようとしている皆の笑顔だ」
ルークの真っ直ぐな言葉に、シルフィの顔から不安の影が消え、柔らかな微笑みが浮かぶ。
彼女はルークの肩に頭を預け、目を閉じて深く澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
「はい。私も、この穏やかな日々がずっと続くことを願っています」
ルークはシルフィの細い肩を抱き寄せ、広場で遊ぶ子供たちの声に耳を傾ける。
彼が作り出したこの小さな楽園は、これから先も外の世界の脅威を退け、中にいる者たちを永遠に守り続けるだろう。
かつて冷たい石壁に囲まれて孤独に生きてきた青年は、ようやく自分の帰るべき本当の居場所を見つけたのだ。
柔らかな木漏れ日が二人の体を温かく包み込み、満ち足りた静寂の中で、新しい世界の歴史が静かに幕を開けた。




