第52話 北東へ抜ける線
井戸の底を走ったあの線は、昨夜ほんの一瞬だけ、村の外へ向かっていた。
集会所でもない。
石槽でもない。
北柵でもない。
井戸からまっすぐ下へ潜って、それから地の下を北東へ滑っていくように伸びていた。
朝になっても、その感触だけがノアの中に残っていた。
だから誰より先に起きて、井戸の縁に手を置いた。
水面は静かだ。
昨夜みたいな反応はない。
けれど、視界の奥にはまだ細い名残がある。
消えていない。
「行くのか」
後ろから父の声がした。
振り向くと、父は槍を持って立っていた。
その少し後ろには、弓を背負ったハンスもいる。
「わかるんですか」
「顔でな」
父は短く言う。
「ひとりで行く気だっただろ」
「……うん」
「馬鹿か」
ハンスが鼻を鳴らした。
「読み外した次の日に、ひとりで線を追うな」
ノアは何も返せなかった。
見えたから信じる。
それで一度、外された。
「北東です」
ノアは言った。
「井戸から、北東へ抜けてた」
「森の外れか」
父が低く呟く。
「少なくとも村の中じゃない」
「なら三人だ」
ハンスが先に歩き出す。
「線だけ見て歩くなよ」
◇
北東の森は、朝でも少し暗かった。
木の根が地面を持ち上げ、昨夜の湿り気が足元にまとわりつく。
村の外れから少し入っただけなのに、空気の匂いが変わる。
ノアは何度も立ち止まりそうになりながら、井戸で見た線の向きを頭の中でなぞった。
右へ曲がる。
いや、違う。
もっと浅い角度だ。
「止まるな」
ハンスが言う。
「見えなくなる」
「見えてる」
「なら歩け」
短いやり取りだった。
でも、その短さがありがたかった。
考えすぎると、また線だけを見てしまう。
今は土も木も、足跡も、一緒に見なければいけない。
やがて、視界の端に淡い文字が浮かんだ。
【北東の森の外れ】
状態:地中反応あり
可能性:継ぎ目の延長
「この先」
ノアが言うと、父とハンスが同時に周囲を見渡した。
森が少し開けていた。
そこにあったのは、空き地でも遺構でもなかった。
倒れた石だった。
背丈の半分ほどの石柱が、根元から斜めに割れ、苔をかぶったまま土へ半ば埋もれている。
ただの境石に見えなくもない。
けれど、近づいた瞬間、胸の奥がざわついた。
【倒れた石柱】
状態:破損
備考:村内石材と類似
可能性:地上側の目印
「……これ」
ノアはしゃがみ込んだ。
表面の苔を指で払う。
すると、その下から浅い溝が出た。
線だ。
文字ではない。
けれど、井戸の縁や地下の床で見たものに近い、細く古い刻み。
もう少し苔を落とす。
そこで、ノアは息を止めた。
石柱の側面に、紋があった。
円。
その内側に、二本の短い線。
そして、三本目が入るはずの場所だけが、きれいに空いている。
欠けたんじゃない。
最初から、そこだけ無い。
「何かあるか」
父が問う。
「紋です」
ノアは答えた。
「井戸のと似てる。でも、違う。ひとつ、最初から無い」
「足りない?」
ハンスが覗き込む。
「最初からそう刻んでるな」
ノアは石柱を見たまま、低く言った。
「……遅かった」
父がわずかに眉を動かす。
「何がだ」
「もう、ここまで触られてる」
◇
石柱の根元へ手を伸ばす。
土が少し掘り返されている。
新しい。
昨日今日のものではないが、最近だ。
しかも、掘り返したあとを雑に隠している。
【石柱の根元】
状態:掘り返し痕あり
特徴:新しい
可能性:人為的調査跡
ハンスが同じものを見つけたらしく、低く言った。
「誰かが先に触ってる」
「敵か」
父が槍を持ち直す。
「たぶん」
ノアは土を少しだけどけた。
石柱の下には、さらに細い石の継ぎ目があった。
地面に埋まった石板だ。
その端が、北東のさらに先へ向いている。
村へ向かってはいない。
森の外へ抜けている。
ノアの視界に、細い線がひと筋走った。
井戸。
地下。
村の外れ。
そして、この石柱の下。
「……終わってない」
ノアは思わず口にした。
その時だった。
少し離れた茂みの奥で、乾いた音がした。
三人の空気が一瞬で変わる。
父が前へ半歩。
ハンスが弓へ手をかける。
ノアは反射的に石柱から手を離した。
返事はない。
ただ、その向こうに何かがいた気配だけが、薄く残った。
「追うか」
ハンスが言う。
「駄目だ」
ノアは即座に返す。
「こっちが何を見つけたか、向こうに教えるだけになる」
その時、父が足元の低木を見た。
「待て」
枝先に、細い布が引っかかっていた。
幅二本指ほどの、黒に近い紺布だ。
破れた切れ端。
端に乾いた泥と、茶色く固まったものがこびりついている。
ハンスがそれを摘まみ上げ、鼻先へ寄せた。
眉が動く。
「血だけじゃねえ」
「何だ」
父が問う。
ハンスはもう一度嗅いで、それから布を裏返した。
「油だ」
短く言って、少しだけ黙る。
「……これ、あの魔狼の傷の周りに残ってた臭いに近い」
ノアの喉がひやりと冷えた。
父が低く言う。
「戻るぞ」
「はい」
ハンスも頷く。
矢は下ろしたが、最後まで森の奥を睨んでいた。
◇
村へ戻る道すがら、ノアは何度も布の切れ端を見た。
欠けた紋。
掘り返しの跡。
森の外へ続く石板の向き。
そして、同じ臭いの布切れ。
全部が胸の奥に沈んでいる。
「ひとつは繋がったな」
父が前を向いたまま言った。
「……うん」
ハンスが横で鼻を鳴らす。
「よくはねえよ」
「うん」
◇
夕方、井戸のそばへ戻ると、水面はまた静かだった。
ノアは縁へ手を置いた。
【井戸】
状態:静穏
可能性:外部経路あり
集会所の方から、ミリアの笑い声がした。
少し遅れて、鍋の蓋が鳴る。
エンツが火番の位置を直しているのだろう。
ノアは井戸から手を離した。
その瞬間、視界の奥で細い線がひとつだけ明滅した。
井戸の底から、北東へ。
昨夜より薄い。
けれど、確かにそこにある。
布切れに残った油の臭いが、まだ指先に薄く残っていた。
森の方角だけが、夕方なのに近く感じられた。
欠けた紋、どう見えましたか。
ここから少しずつ、村の外へ触れていきます。




