4恥目 遡って、進むだけ。
助ける義理も、助ける理由もない……はずだ。
記憶がポーンと飛んでしまったから定かではない。
けど、唯一それっぽいなと思えるのは、落ち込んだ時に「他人の不幸は蜜の味」の言葉通り、人の恥を餌にして、どうにか自分を明日へ繋ぐために読んでいた……気もする。
今、この作家に興味があるかと言われたら、そうでもない。
それなのに、この本達を無くさないで良かったと思っている自分がいる。謎だ。本を持っているだけで満足していたのだろうか。
「リュックに常備、しかも4冊も持ち歩いてるなんて……大ファンじゃないですか」
「記憶に無いんですけど……うあぁ、もう、バカァ……」
「どうして急に泣くんですか!?」
泣いているのは、先程自分がこの男の不審者になったのを思い出して恥じているからなんです。何が「あなたの助けになる!」だ。
小っ恥ずかしくて、会えたもんじゃないよ。
それでどうだ、話しかけた相手は、現代まで沢山の人に愛され続けているという「太宰治」って人。その人相手に何やってるんだ。恥ずかしい。恥ずかし過ぎて泣く。死ぬ。いっそ誰か殺してくれ!
黒歴史は唐突に、熱く込み上げるように思い出されるのだ。
噴いた鍋がすぐに落ちつかないように、黒歴史も思い出したらヒィヒィ言わされる。死因は黒歴史、十分あると思います。一瞬の愚かさは一生の”恥”となる。
「まあまあ、花がそうさせたと思えばいいんですよ。僕だってありましたよ。大事な時に急に意識させる。吉次に要さんを探しに行かせたのも、そうです」
「それは先生も黒歴史を作った、と?」
「嫌な言い方しますねぇ」
先生は目を細めて眉間に皺を寄せる。この人も黒歴史を沢山作ったのだ。
今だってきっと、思い出して恥ずかしがっているに違いない。
「は、花のことはよくわかりませんが、要さんは大学の人達が、みんな、変な人がいるって噂してました。それで先生が探して来てって……」
「あ、こら。吉次」
「いけませんでしたか?」と吉次は慌てて、茶を運んで来たお盆で顔を隠し、謝った。
その吉次の頭を優しく小突く先生。吉次は「いて」と甘えるような、絶対痛くないと取れる、お茶目な声を出した。
なるほど。先生は花が理由で私を探しに行かせたのではない。
学生達が廊下やそこらで話すのにアンテナを張っていたら「日本人なのに妙な格好の奴がいる」なんて聞こえて来たもんだから、もしかしてと思い、探しに行かせたってとこだ。
傷つけないように嘘をついてくれた、と。はあ、その優しさが逆に辛いんですけどね。
しかし、何度も考えることは同じこと。何故本が4冊も入っているのかわからない。東京へ向かう時に詰めたのか。思い出そうとも、自分の記憶は曖昧で頼りなかった。
こちらの時代に来て記憶が薄れているからなのかとも考えたが、先生の話を聞いた限り、時代が変わったからと言って記憶が云々なんてことは無さそうだ。
証拠に先生は記憶を無くしていないらしい。
僕の頭が状況に追いついていなくて、記憶がなくなったと錯覚しているだけだろう。ポンコツな頭め。
それに、小説の内容も覚えていない。
さっき読んだばかりなのに、頭に残らない。先生が言うには、多くの人が彼に抱いているイメージは「恵まれたダメ人間」。
もちろん尊敬してやまない人もいるだろうけど。
話を聞いても、「メンヘラ」なんて言葉で片付けられてしまいそうな作家だな、と思うだけだ。
「先生、どうしたらいいんですか。先生は憧れの人に会えたかいいかもしれないですが、私は別に興味ないんで、帰りたいです」
「うーん……」
先に来た人が帰っていないのに、この質問は愚問だ。
「すぐには無理なんじゃないでしょうか……神の助けになるといわれているわけですし。条件もわからない」
けれど先生は何もしていないわけではなさそうだった。全国に赴いたとき、同じような人間をさがしているみたいだし。
それに、対象の偉人がいるということが大きな手掛かりだ。先生は偉人が死んだら現代に帰れるのではないかと睨んでいるらしい。
その日が来ないと解らないし、特別戻りたいわけでもないみたいだけど。
私たちは現代から来た人間を「遂行者」、偉人達を「対象者」と呼ぶことにした。
遂行者と呼ぶのは、神のお手伝いを遂行しなければならないから。具体的な指示はないし、私の場合は考え方を改めろ……だけど。なんの? って感じだし。
全てにおいてどういうことでしょうか。悪い夢だとおもいたい。
どう嘆こうが、現代へ戻るにはどうしてもこの時代を生きるしかない。
ちなみに、古在先生の寿命が期限ならば、先生はあと「4年」で戻れるという。つまり先生の対象者「古在由直」はあと4年で死ぬ――という事だ。
「やっぱり、私の対象者は太宰治なのかなぁ」
なんだかあんまり気乗りがしない。メンヘラのお助けなんて気が進まないからだ。
「そうなりますね。けれど今は太宰治では通じません。彼の本名は津島修治です。東大の仏文科在学ですから、僕について来たら会えるのでは?」
「せ、先生は事務員さんですから、要さんの助けになります! ぼ、僕も助けになります!」
「ほら、吉次もこう言ってますし」
吉次はたしかに言っていた。先生は私の助けになってくれると。急に全てを失った気分だ。
職なし、金無し、住居無し。当然、頼る人などいないのだから「お願いします」と言うしかない。キッチリ正座して、丁寧に頭を下げた。
「それならまずは服をどうにか」と先生と吉次は服を探し始めたが、散々探して出てきたのは、どう見ても子供用のシミのついた袴だった。
着物は擦り切れた井桁模様の深い緑、下は灰色と言った如何にも時代を感じさせる袴。中に着るものがないので着ていたワイシャツでなんとかしろと言われたが、気になるのはシミである。
「このシミはなんですか?」
「あー……これは……」
先生は気まずそうに、チラリと吉次を見た。そうして彼は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ちっ、小さい時のおねしょのシミです!」
「……あらまぁ」
なんだって。苦笑いしかできなかった。しかし、文句は言えない。
まさか新品を買ってくれなんて言えない。図々しいにも程がある。だからこの薄っすら浮かぶシミを我慢して着るしかないのだ。
「ありがとうございます。あとは自分で稼いでなんとか」
「要さん」
さっそく着替えようと膝立ちをすると、先生は申し訳なさそうにしている。服のことだろうか。「なんでしょうか」と聞き返す。
「この時代はまだ女性が弱い時代。街の至る所に娘売買のチラシが貼ってあるくらいです。要さんが身寄りの無い女性だとわかれば、平気で攫ってそうする人がいるかもしれません」
確かにチラシは至る所にあった。
人間なのに売り買いがあるのかと嫌悪感はあったが、どうも他人事で実感はない。あんなものは平成ではありえないチラシ。
しかし、先生の言う通り、この時代に生きるとなれば他人事で済まなくなる。
「そこで言いにくいのですが……要さんはラッキーな事に男性並に胸が無いので、髪を切って男性として生きて行くのはどうでしょうか?」
「バリバリセクハラ言いますね」
「致し方ないかと……」
綺麗な顔でハサミを持ちながら酷い事を言う。
胸がない事、声が低い事、立ち振る舞いや言葉使いが男性っぽいと言われることは昔からだ。そう過ごしていたほうが楽だった。
そうだ、髪を切れば男性に間違われることもしばしばあったっけ。
別に不便ではないのだが、こうも他人に言われるとカチンと来て複雑だ。けれど、身売りされるよりは断然いい。
男性だと言えば職もすぐに見つかるだろうか。この時代なら、むしろ好都合だろう。
私は決意した。女ではなく男として生きようと。もちろん帰ったら元に戻るつもりだ。
「じゃあ、髪。切ってください」
吉次はぼろぼろの風呂敷を広げ、そこに座ってと音を鳴らす。
正座で座る先生の手にはハサミ。
先生は「行きますね」と言って、肩に着いた赤茶色の髪の毛に容赦なくバッサリとハサミを入れた。
ザク、ザク。
辺りに髪が落ちていく。髪はいずれ伸びるものだから悲しいなどない。これから生きるためには仕方ないことなのだ。
1930年の夜は月が明るく、くっきり見えた。
*
翌朝、現代の産物達は空いた押入れに片付けられていた。
少しの白飯と汁を飲み、さっと支度を整える。袴はやはり短い。脛あたりまでの長さだから、やけに風が通り、スースーする。
もともと着ていたワイシャツに井桁模様の袴を着て、短い袖を誤魔化すためにたすき掛け。
それに先生が履いていた下駄に足を通したが、これは大きすぎる。なのでこれも、吉次のを一つ借りることにした。
昨日切った髪は、顎にかかるくらいになり、気分は完璧に男の子だった。
だぼだぼの学生服を着た吉次は「本当に男の人に見えます」と褒めてくれたが、なんていうか、それは褒めてない。一応お礼は返したけど。
アパートを3人同時に出て、東京大学への道を人並に負けないように、下駄を地面に食い込ませるように歩く。
私、いや、改めまして「僕」は1930年から始まる、新たな人生を始める事にした。
人生をリセットされた気分で、どこか清々しくも感じる。
これからどうなるかなんて、僕にも誰にもわからない。
しかし僕は“ムラサキケマン“の花言葉を遂行するだけだ。
対象者の助けにならねばならない。だからまず、太宰治――いや、津島修治を探すのだ。
なんとかなる。
”絶望するな、元気でいこう!”




