23恥目 偉人、歴史を割る(2)
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もう朝日が登ると言うのに、あまくせは戻って来ない。
普段なら豆腐屋のアルバイトへとっくに行ってる時間だから、工藤達を追い払った後にそのまま出かけて言ったのだろうか?
薬のせいかモヤモヤと胸焼けのような不快感で胸をさすっていると、大家が家の戸を激しく叩いていた。
「津島さん! 津島さん!」
家賃の取り立てかと居留守を使おうと思った。
だが、家賃の徴収にくる時の声ではない。あまりにしつこいので、玄関の戸を開けると青い顔をした大家が体にしがみ付いて来た。
「要さんが、血を出して倒れているんだよ!」
ハツコがそれを聞いて、大家を押し除けて先に外に出る。すると耳を刺すような高音の悲鳴を上げていた。
只事ではないと、恐る恐る裸足のまま外へ出る。
頭から、赤黒い血をドロリと出して水溜りを作り、リンチを受けたのか、無数のアザを作られ、腕は奇妙な方向を向いて“弟“は倒れている。
「……お、おい。あまくせ?」
起きてくれ。起きてくれよ。声をかけても、ピクリともせず、何も言わない。
「あまくせぇ! ……なんで、おい、要!」
夜中、手に持って行った釘抜きは何処へ行ったのだろう。
地面に横たわるだけの弟をどうしてやることも出来ない。
俺が茫然と血溜まりに手をついている時、その時、大家とハツコは何をしていただろうか。
血を止めようと頭に触れようとするが、手についた赤が「死」を連想させて触れない。
なんて無力。だめだ、きっと助からない。俺のせいだと非難されるだろうか。非難するより、死ねと言ってくれた方が楽だ。誰か言ってくれ!
こんな時にも自分の保身ばかり考える。けれど、絶望した。今度こそ、どうにもならないと。誰のための涙だろう。血溜まりに溶ける涙は、誰を救いたい涙だろう。
やがて担架が来て、吉次や宇賀神が来て、そのまま要は病院へ運ばれて行った。
「修治さんも来てください!」
空っぽになった体を宇賀神が用意した自動車に乗せられる。舗装されていない道に揺らたからか、突然強い吐き気に襲われた。
なんて、惨めなんだろう。
*
「左足、左腕骨折、頬骨や鎖骨も折れてます。後頭部が一番酷いそうですが、打ち所が良かったのか恐らく大丈夫だろう、と」
病院の診察室から出てきた宇賀神が安堵した顔で報告を済ますと、吉次は胸を撫で下ろし、ハツコはくらりとよろめいた。
「は、初代さん、大丈夫ですか?」
「もうだめ」
吉次はハツコを支え、椅子に座らせた。
「これから要さんに関係している方達に連絡をつけて来ます。初代さん、お手伝い願えますか? どうやら時々夜の街にも顔出していたようで、経験のある初代さんの方が詳しいかと」
「えっ、あぁ、構いませんけど。1人じゃ不安だから、吉次ちゃんついてきてくれる?」
「わ、わかりました! 修治さん、いいですか?」
何も入ってこない。名前を呼ばれたが、何に対しての了承だろうか。聞き返そうとも思わない。
「いいわよ。セミの抜け殻みたいになってるし。要ちゃんのお友達、えっと司さんだったかしら? その人には……」
連絡や手続きやなんだって、勝手に進んでいくのを他所に、俺は病院の待合室の椅子に持たれて動けないでいる。
皆慌ただしく、どうしてそう、パッパッパっと動けるのか。
しばらくして病院には通常の患者が出入りするようになった。それで皆が居なくなったのにやっと気付いて、サイズの合わないスリッパを引きづりながら、要の病室へ入る。
ベッドに横たわる要は、左目に眼帯をつけている。左頬はアザが酷くなり、頭に過剰に巻かれた包帯からは血が滲んでいて、その悲惨さを物語っていた。
あまり静かに息をするので、手のひらを鼻と口の近くへ寄せて呼吸をしているかどうか確かめる。
呼吸はかぼそいが、ちゃんと生きている――。
「要……」
ただ横にいる事しか出来なかった。
鎌倉で自分が入院している時、こいつはずっと濡れたまま隣に居てくれたと聞く。
同じようにしてやればいいだろうか。手を握ってやれば、目を開けるだろうか。
そうしたら、許してくれるのだろうか。いいや、そんなの浅はかだと笑われるに決まってる。
もしこれが国の兄に知れたら、要はどうなるのだろう。近くから居なくなってしまう?
申し訳ないとか、居なければ困るとか、いいように使えなくなるだとか、それもこれも全部ひっくるめて。
どうせ今回の事で工藤達は俺のことを話すだろう。ずっと警察にマークされていたことは知っている。シンパや非合法運動と呼ばれるものに関わっていればわかること。
遅かれ早かれ、警察が俺のところにきて根掘り葉掘り聞いてくるのだろう。
ならば、もう、いい、自首をしよう。出来るだけ早く許される道を選ぼう。
うずうずしていると気が変わりそうなので、すぐに立ち、病院の電話を借りて、青森にいる長兄へ連絡することにした。
受話器を取るといっきに心臓がバクバクと動いた。さあ早く繋がれ。気が変わる前に。
繋がるまでずいぶんかかったように思える。そうして挨拶もそうそうに長兄へ、要が入院した経緯を話し、自首したいと相談したのだ。
電話の長兄は「金の相談かと思ったら。お前からそう言ってくるとは、要さんと引き離されることを恐れたかい」と聞くので「うん」と、返した。まるで子供のような返事だったろう。
そうさ。俺は怖くなっていたのだ。
いつも「しゅーさん」とかけよって来るお前が居なくなるのは。本当は、ハツコと2人だけになった時も不安でたまらなかった。
来る者の拒まず去る者追わずな精神で居ても、自分を守ってくれるものが居なくなるのはとても恐ろしいことなのだ。
長兄は「わかった」と言うと、青森へ来るように言付けて電話を終わらせた。
東京の警察にはツテがあるから日にちを少し貰って、それから、要の目が覚めた後に来なさい、と。
自分でも驚いている。要がいなかったらこうはしていないと思った。もっと、逃げるための道を探して、みっともない姿で居たと思う。
自分の人生は一度しか経験することはない、そなはずなのに、何故だろう。
――今、自分は自分が歩むべき自分とは別の道を選ぼうとしている気がするのだ。




