15恥目 湯気の向こうのフレール(2)
夕方は呆気なく夜になった。
もくもくと温かい湯気が立つ飲み屋街に差し掛かる。酒に合いそうな煮物の匂いが鼻を通り抜け、体中に駆け巡ると腹がグゥと音を出した。
昼に司から貰ったおにぎりを食べてからだいぶ経つ。店長から貰ったお金で一杯やろうかとも思ったけど、昭和で少年を装う僕には不可能だ。
「何か食べたいなぁ」
下を向いては冷えた手に息を吹き掛けながら、トボトボ歩く。
右左交互に出る足を見ると、足袋や靴下を履かない僕の足は真っ赤っか。
急に冬を意識すると寒さが厳しい。だから尚更、温かそうな湯気に当たりたくて体がウズウズとするのだ。
立ち止まって赤提灯の明かりをぼーっと見つめていると、隣が妙に暖かくなった。
「随分寒そうじゃないか」
「しゅーさん!」
温かそうな紺色のどてらを着ている彼を見て、僕は思わず飛びついた。
「あったけえ、しゅーさんあったけぇ」
「気色悪い。男が男に抱きつくな。そんな薄着じゃ寒いのは当たり前だろう」
「鎌倉帰って来たばっかりだから何にも無いんだよ。そうだしゅーさん! 僕とご飯食べようよ! 蕎麦とか蕎麦とか、蕎麦とか!」
「あっ、おい」
彼の返事なんかまるで聞きもしないで、僕は看板に蕎麦と書いてある店へ手を引いた。
ついこの間、死にかけた人の手は人の温もりを取り戻している。
蕎麦屋で席につき、きつねそばを二つ注文する。向かい合って座ると、顔色もすっかり良くなっているのがわかった。僕はたまらなく嬉しくて、鼻がツンと痛む。
「人の顔を見てニヤニヤして。なんなんだ」
「しゅーさんだなぁと思って。そういえばしゅーさん、この辺に何か用事あった?」
「いや……」
しゅーさんはすぐに顔を曇らせた。
「そういやね、僕の働いてるところにしゅーさんのお兄さんが来てたよ。もしかして、それ?」
「下宿先に来るもんだから居心地が悪いんだ。息が詰まる」
「そりゃ悪い子したからね、しゅーさん。お兄さんだって怒るさ。で、お金がないのに外に出て来て、当てもなく飲み屋街をフラフラってか」
「金が無いは余計だ!」
「無いだろ?」
「……無い」
まるで小さい子供だ。それに怒られて顔が合わせられなくて、また怒られるんじゃないかと恐れて逃げる逃げる。
事の重大さを理解したから、それ以上チクチクと言われたくなくて逃げている。だけど、お金が無いから店に入れない。
側から見たら反省していないバカなんだろうが、彼は彼なりに生きようとしているのだ。
きつねそばがさっと来ると、テーブルに備え付けの箸を手渡した。
「この蕎麦は僕、いや店長の奢りね。僕の体にいい物を食べろって言われてもらった金だからさ」
「いいのか?」
「僕の体にいいことって、元気なしゅーさんを見られたことだと思う」
「なんだ、それ」
しゅーさんは照れたんだか引いたんだか、よくわからない顔をした。でも、僕は嘘をついていない。しゅーさんに会ってテンションが上がったのは事実だし、温かくなったのも本当。
「これあげる」
なので、本当は最後に食べたいきつねそばに付いていた蒲鉾も、しゅーさんにあげてしまうのだ。
湯気の向こうに見える、僕の対象者は不器用で可愛らしい、どうしようもない人だ。
*
月明りが照らす夜の道。
食べたばかりの蕎麦の湯気が、息を吐くたびに体から漏れ出す。
道中、鎌倉で別れた後の話をし合った。
あの後、しゅーさんはお姉さん達とレストランでご飯を食べたらしい。誰もが無言で、どうにも空気が重たく、ついにお姉さんは食べていたグラタンを吐いてしまったとか。
それで一人、下宿先に帰ればお兄さんが待ち伏せて酷く叱られて。
ある程度の我慢はしたが、遂に一緒に居るのが耐えられなくなって、それで今に至るというわけだ。子供かよ。
僕もお兄さん達に言われた事を伝えたら、皆まで言わぬうちに遮られる。
当然だが、しゅーさんはお兄さん達が僕にお礼をしたくて飴屋に通っていることを知っているようだ。
「何が欲しいんだ。兄さんに言いにくいなら、俺が言ってやるぞ。会いたくないけど」
「本当に何も要らないよ」
僕は首を横に振った。
「それは困る」
しゅーさんも真似するように首を横に振る。
「どうしてさ。余計な出費がなくていいだろ」
「兄さんの顔を汚した俺が言うのもおかしな話だが、礼をしなければさらに兄さんの顔が汚れるからさ」
「あ……」
大地主で政治家のお兄さん。しゅーさんの事がきっかけでイメージが悪くなっているとして、その恩人に礼もしなかったとなれば、お兄さんのイメージは更に落ちる。
それを心配しているのか。血の繋がりは、切っても切れない。親が亡くなっていて、兄弟が問題を起こせば、兄弟がまた責任を取らねばならないのが世の中なのか。
――そう思うと、お兄さんに気にしてもらえるしゅーさんが羨ましく思えた。
僕の兄弟はそうはしてくれない。お兄ちゃん達が心配してくれたことはなかった気がする。
『お前たちに人生狂わされたの、わかっていないのか?』
『黙って居なくなれよ!』
ああ、また嫌な事を思い出す。僕はいるだけで責められていたっけ。
「いやだ……」
「は?」
しゅーさんの声に反応すると、何かを忘れてしまった。とても嫌な気持ちになって、どん底にいる気分だったのに。でも、何を考えてたんだっけ?
ああ、そうだ。何か欲しいものを考えたんだ。
「そうだ、今はどてらが欲しいかな」
「もっと真面目に考えろ! あと、くっつくな!」
帰りもとにかく寒くて仕方がないので、しゅーさんで温まろうと引っ付いて歩く。
嫌がる割に振り払わない。これが有り難かった。寒いのは体だけじゃない。記憶を思い出しても忘れても、どうも寂しくなってしまうのだ。
お兄ちゃん達に何をされたんだっけ。やっぱり思い出せない。けれど寂しい。
だから引っ付いて寒い所を埋めようとする。しゅーさんが本当にお兄ちゃんだったら、僕が甘えても怒らないか、とか。もっと僕自身が優しくなれるかな、とか。認めてもらえるかな、とか。
忘れてしまった何かに傷付きながら、そんな事を考え始めている。
お兄ちゃんが――なんだっけ?
「あまくせ? どうした?」
突然黙り込んだ僕を気にしてくれるしゅーさんが、お兄ちゃんだったならどうなるのかなぁ。
「ねぇしゅーさん。お礼の話なんだけど」
「何だ、欲しい物が決まったのか」
「うん」
「伝えても怒られないものにしてくれよ。じゃないと何て言われるか――」
しゅーさんに前に進んで欲しいから要らないなんて言ったのに。冬の夜の寒さがあまりに辛いからね、欲に負けてしまうんだ。
「僕を、しゅーさんの弟にして欲しい」
「……はぁ?」
やけに熱い頬。僕は今、どんな顔だろう。
*
翌日。
前日にしゅーさんと約束して、銀座へあんぱんを買いに行った。
その帰りに僕は飴屋へ、しゅーさんはお兄さんと中畑さんを呼びに下宿先に帰って、店に二人を招いた。
僕、しゅーさん、お兄さん、中畑さん、店長、先生。
六人が卓袱台を囲むようにして飴屋の奥の座敷に座るなり、吉次がお茶を出してくれる。外には距離をとりながら学生の野次馬が何人かいて騒がしい。見せ物じゃないし、どこから何を聞いて集まってるんだか。
気が散らないように気合いを入れろと、僕はワイシャツの襟を改めて整えた。
「それで生出さん。お礼をさせて頂けると言うことで、なんでしょう。さあさあ、ご遠慮なさらず」
お兄さんが愛想良く笑ってくれた。僕は生唾を飲んで、しゅーさんをチラりと見た。しゅーさんは「早く言え」と言うように顎を少し前に出して合図する。僕はしゅーさんを信じた。
「お兄さん。僕を、ですね」
「はい」
「修治さんの弟にして欲しいんです」
「は」
一気に場は凍りついた。何を言ってるんだ、と言われてもおかしくはない。
先生や吉次もぽかんとしている。お兄さんは笑顔が消えて口をあんぐりと開け、中畑さんもお茶を吹き出す始末。
でも僕の望みなんだ。僕はどうにかして説得しようと、懸命に言葉を探した。
「その、修治さんのことをこれからは近くで守りたくて。なんだか、しゅーさんに会うと元気になれるんです。それに、えっと……なんて言うのかな」
「お、生出さん。それは――」
お兄さんが困惑するのも無理はない。そしてすぐに「はい」と言われるわけもない。
「あの、僕は必ず修治さんの助けになります! お兄さんやご実家、中畑さんに迷惑かけません! たくさん働いてお金も送ります。すぐに答えなんて要りません。認めてもらえるような行いをしますから! 僕が、この言葉が嘘じゃないって、必ず証明します!」
頭を深々と下げた。僕なりに精一杯、しゅーさんの助けになりたい。その想いは告げた。文治さん達は何も言わず、相変わらず空気は重い。
しかし空気を変えたのは、呑気にあんぱんを頬張る店長の一言だった。
「なんだ? お前ら、兄弟じゃなかったのか」
皆のぽかんは、止まらない。
*
「生出さん」
「要でいいです。えっと、その、お兄さん」
僕はしゅーさんの弟になる許しを得た。
文治さん達に、爺さんや野次馬の学生達が僕の今までを話してくれたのだ。中には、最初から何も疑わずに僕としゅーさんを兄弟か親戚関係の人間だと思っている奴もいた。
お兄さんは僕をお目付役という名の“弟”として、しゅーさんとの同居を条件に認めてくれた。
が、全部が認められたわけではない。
僕が「もし女性だったらこの話はすぐに首を横に振っていましたけどね」なんて言われたので、気が気でない。
しゅーさん二十一歳、僕は十六歳という設定の弟。しゅーさんには実年齢も伝えちゃいない。僕がこの人を助けるには、年下の男の子である方が楽なのだから。
今まで以上に、本当は女であることをしっかり隠して生きねばならない。
胸がなくてよかった。声が低くてよかった。コンプレックスが今、キラキラと輝いている!
「お金は要りませんから、生出……ではなく、要さんは修治をきちんと見ていてください。今回のような事があっては困りますから」
「はい!」
「修治、やるべき事はやりなさい。いいね」
「……はい」
しゅーさんは俯き、僕はお兄さんとがっちり握手を交わすと、青森に帰る二人を見送った。その姿が街角に消えていくと、しゅーさんは口を開いた。
「僕が嘘じゃないって証明します、か」
「ん?」
「うるさい奴と生活し始める俺の身にもなれ。全く」
「でもしゅーさんは昨日許してくれたじゃないか」
「お前が泣いたりするからだろう! 同情させられたんだよ」
「じゃあ中畑さんにお目付けしてもらうか?」
「……ほら、行くぞ」
「うん!」
僕が引っ付いて並んで歩いても、しゅーさんは嫌がらない。
明治生まれ青森出身のしゅーさん、未来に生まれた宮城出身の僕。
接点なんて、同じ東北生まれというだけ。
けど、間違いない。今日から僕の帰る場所はしゅーさんの所だ。生まれてこのかた、一番嬉しいことかもしれない。
僕は最高に嬉しくてホカホカしているから、昨日の蕎麦のように湯気は出ちゃってるかもな。




