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9恥目 金で買う絶望(1)

「残念ですが……」


 その後、警察が来て静かに告げられた。やっぱり田部さんはダメだった。


 僕が来るよりもずっと前に、息を引き取ってしまったらしい。彼女のことをなんにも知らないのに、「ごめんなさい」とポツリ、呟いた。


 隣にいた医者に「知り合いですか」と聞かれたけれど、僕は「一方的に知ってるだけです」と返した。つまり他人だ。

 なら話すことはないと、医者も警察も部屋を出ていく。


「申し訳ない……岬を探そうなんて、頭になかった」


 ご遺体に頭を下げる。悔やんだってどうにもならない。命が無くなったら、それからその人をどうしようとしたって無理なんだ。


 結局、歴史の通りに時代が進んでいる。

 “女だけが死ぬ”。『道化の華』もそうだ。


 僕が異分子だったとしても、歴史にとっては些細なもの。変えられるわけじゃないんだ。

 今の僕には、濡れた袴をギュッと握ることしかできない。


 この先どうなるんだろうか。記憶があったりなかったりするから、わからない。


 もっと辛いことが、起きてしまうんだっけか。助けるなんて大それたことができないんじゃないかと、自信がなくなってしまう。


「こんな気持ちに、耐えていけるのかな……」


 どんな人でも、別れは辛い。誰かがこの世から去る瞬間は苦しい。


 ご遺体のある部屋を後にした。

 俯きながら、また別の部屋へ。僕がいるこの部屋には、しゅーさんが眠っている。


 部屋に入っても休む暇もなく、次はしゅーさんについて警察から詳しいことを聞かれた。


 疲労困憊していたのもあって、まともな答えができないことを指摘され、しゅーさんの家族が来てから聴取を受けることになった。

 

 彼は大丈夫、死なないと医者は言う。心中しようとカルモチンを服用し、昏睡状態にはあったが、命に別状はないらしかった。


 医者曰く、おそらくカルモチンに対しての耐性がついていたのと、死なない程度を知っていたんだろうという診断だ。


 つまりこいつは最初から、死ぬ気がなかったんだ。それはいいことなんだ。でも、呆れがどんな感情よりも先に来る。


 僕が助けなければいけない人だ。それなのに、どうしてこの人だけが……と思ってしまう。

 なんのために彼女と心中したんだ? という疑問が消えないからね。

 

 その理由なんて本人じゃないからわかるわけがない。聞いたところで理解できるかもわからないけど。

 しかしこの調子だと、僕が助けなくたって、どこかで勝手に死に損なって、勝手に助かるんじゃないかと思う。


 どんなに感情的になろうとも、この男が目を覚まさなければ何も進まない。

 思考が終わってる。体も心も酷く疲れきって、生きているのかどうかもわからない感覚になって。

 

 体がもうダメだと、丸椅子に腰を置いた。


 しゅーさんが眠るベッドの脇に上半身だけを乗せ、机に突っ伏すようにして眠った。


 *


 それから一日以上眠っていたみたいだ。僕まで死んだのかと疑うほどの爆睡。


 日付は当たり前に進んで、しゅーさんも目を覚ましている。


 そして部屋には三人の知らない男性が立っていた。一人は明らかに警察官で、一人はいい着物を着た三十代くらいの人。


 そして端っこに、痩せ細って今にも死にそうな若い人。

 寝ぼけ眼の僕へ着物の人が近づいて来る。深々と礼をしたので、僕もつられて頭を下げた。


「目を覚まされましたか。私、修治さんのお兄さんから頼まれてやって参りました。中畑慶吉と申します」

「あ、あ……っと。生出です。下の名前は、要」


 男性は続けて「この度は……」と畏まって挨拶してくれる。僕はうまく言葉が返せず、名前だけ名乗った。


 聞けばこの人は、津島家に出入りしている青森の呉服屋さん。しゅーさんの兄である文治さんから頼まれて、遠路はるばるやって来たという。


 話されている最中、しゅーさんは狸寝入りするように、また眠り始めた。


 このタイミングで寝られる図太さ。やば。

 自分は関係ないと言わんばかりの態度に、また腹が立ってくる。


 それより。一番気になったのは、痩せ細った男性だ。風に吹かれたら倒れてしまいそうな細さ。

 椅子を譲らなければ折れてしまうんじゃないかと、そわそわする。


「あちらの方は?」


 話を遮り、中畑さんへ尋ねてみた。


 すると耳を貸せとジェスチャーで上半身を右に傾けて、コソコソと「亡くなった田部さんの旦那さんです」と気の毒そうに言った。


 どうりでやつれてるわけだ。このまま座ってはいられない。すぐに椅子から降りて、膝と手をついて頭を下げた。


 床に頭を擦り付け、今出せる声量で惜しまず謝罪する。


「間に合いませんでした! 謝って済むとは思ってません。でも……本当にごめんなさい!」

「いいえ、いいえ。私が、悪いんです」

 

 田部さんは消え入りそうな声で俯きながら、ブツブツと自分を責めているようだった。どうしてだ。この人は悪くないのに。


 内縁の妻が、ただの客だっただけの知らぬ男と心中したんだ。衝撃で動揺して、泣けもしないんだろうか。


 田部さんは下を向いてうわ言を繰り返すだけになり、気の毒になった警察官が病室の外へ連れ出した。


 出て行ったのを確認した中畑さんは、ひと段落終えたような顔で椅子に腰掛ける。


「私ね、最初、遺体を見て不思議に思ったんですよ。あの人はヒョロヒョロっとして、神経衰弱で30歳前だっていうのに頼りない。だから本当に旦那さんなのかってね。でも、そうでした。遺体が鼻血を出しましたから」

「鼻血を出したから?」

「ええ」


 遺体が鼻血を出すとなんなのか? 


 僕は目をパチパチと瞬きを何度もすると、「遺体に親近者が近づくと鼻血を流すって言うんです」と、ハンカチで額を拭いながら中畑さんは言う。


 昭和の迷信、みたいなものなのだろうか。その迷信が僕には身近ではなかったので、「そうですか」としか返せないけど。


 それから中畑さんはこれからのことを話してくれた。


 どうやら鎌倉では、日没になってからでないと火葬出来ず、日の入り待ちということらしい。

 つまり、亡くなった田部シメ子さんの遺体は今日のうちに焼かれるんだ。


 早いな。何もなかったみたいに、もういなくなっちゃうんだ。


 中畑さんは宿に泊まって、ことが済んだら青森に帰るらしい。それで中畑さんは少し考えた後に、僕を見て首を傾げた。


「ところで、要さんはどうしてここに? 修ちゃんのご友人ですか」

「僕は……」


 なんと言ったらいいんだろう。ここで「未来から来ました。


 この事件が起きるのを知ってました」と言って通用するだろうか。多分、この人には絶対通じない。


 ていうか、信じてくれても、ならなんで防げなかったんだよってなるわ。


 だからと言って、なんでいるんだって話だし。気の利いた誤魔化し方もわからない。


 だから足を擦り合わせて、「あの、えっと……」しか言えないでいる。


「……知り合いだ」

「修ちゃん! 寝ていたんじゃないのかい!」


 誰が話したかと思ったら、しゅーさんだ。やっぱりコイツ、狸寝入りを!


 一発ぶん殴ってやろうと思ったが、やけに静かな顔をするので殴るのも気が引ける。

 中畑さんが故郷の家族の話をしても、何も言わずに遠くを見つめるだけで会話はしないんだ。


 何もかも諦めた顔にも見える。そんな顔していい立場じゃないだろ。


 しばらく話し込めば、すっかり日没を迎えていた。


 警察官が来て、火葬するからと中畑さんを迎えに来た。


 返事をして部屋を出る時、中畑さんが僕の手に紙の束を握らせてきたんだ。


「不謹慎ですが、偶然でも要さんが居て良かった。ありがとうございます。ありがとうございます。これはお国のお兄さんからの、ほんのお礼です。受け取ってください」


 手渡された封筒は厚い。中には紙が入っている。


 この紙は――金だ。


 人の生き死にを目の前に、生々しく金が出てくる。しかも100円。僕が働いて、コツコツ貯めている額をポンと渡してくるんだ。


 中畑さん。


 あなた、何で満足そうな顔してるの? 

 お礼? 何が? 


 ぐずぐずして、道に迷って、歴史がそうだったって、人ひとりを救えなかったのに? 

 もっと、早く思い出していたら間に合ったかもしれない。


 記憶を思い出すのに何かが邪魔をした? 現代に帰れなくなることからの恐れ? 


 違うよ、だって歴史は僕1人なんかじゃ変えられないんだよ。


 僕は感謝される側なんかじゃない、責められる側だ。なんでもっと早く気づかなかったんだって。


 胸が苦しい。締め付けられて、感情が暗いところに沈められて、「ごめんなさい」が溢れてくる。


 そして次は怒りが込み上げて来た。まるで噴火前の活火山のようだ。熱い、熱い、ああ、もうだめだ!


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