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8恥目 明日を望む、カルモチン(2)

 足場が悪い岬の岩場を、音を立てないように這っていく。野生動物かもしれないから、刺激しないようにしなくては。


 そして岬の先端に近づくにつれて、声が大きく聞こえてくる。人の声だ。吐きそうで吐けないような、とにかく苦しそうな声。


 畳岩の上に出た。目の前には女性一人が泡を噴いて倒れ、その隣に男性が一人呻いている。

 そして僕の足元に黄色い箱と、「カルモチン錠」と書かれた瓶がゴロンと転がっていた。


 ――カルモチン。


 気のせいで良かったのに、気のせいじゃなかった!


「しゅーさん!」


 思わず体に飛びついた。


 体を揺さぶって、朦朧としている彼に必死に声をかけた。大量のカルモチンを摂取したのだろう。


 瓶は空っぽになって、死ぬに死ねない苦しさがこの人を襲っている。


「吐け! 吐け吐け吐け! 吐けないのか!? しっかりしろ!」


 背中をバシバシと叩いて嘔吐を促す。


 少しずつダラダラ垂らすだけ。

 しゅーさんの背中を叩きながら、隣に倒れている女性の首に触ったが、既に息を引き取っている。あからさまに冷たい。


「この人……」


 触れて思い出した。

 本に書いてあった文章を鮮明に思い出してしまったんだ。『道化の華』に出てくる女性のモデル。名前は確か――


「田部さん!」


 この人は田部シメ子さん、という人。

 まだ若い。十八歳くらいだったろうか。


 銀座のカフェで働く人で、確か画家の旦那さんがいたはずで。目を閉じていてもはっきりわかる美人で、きっと死ななければ、明るい明日があっただろうと残念に思った。

 

 もっと早く思い出していれば――悔やんでも仕方がないのに、やりきれない。


「田部さん。必ず後から来ます。だから少し待っていてください。ごめんなさい」


 遺体にそっと、着ていた井桁模様の羽織を被せた。濡れているけど、ごめんねと呟いて。


 亡くなったシメ子さんの隣で、苦悩するこの「津島修治」とやらを救わなきゃいけないのかと思うと、無性に怒りが湧いてくる。


 お前が誘ったんだろう。お前が誘ったから、この人は死んだんだろう! 


 そう言ってやりたいが、気持ちとは裏腹に体はそうではないらしい。


「この、あんぽんたん! バカ! くそったれ! おぶされ!」


 無理矢理、しゅーさんを背負う。


 駅のすぐ側にある看板を頼りに、病院らしい建物を目掛けて歩いた。


 モゴモゴと背中で何か言っている。海水で濡れた服に文句を言っているのか? 


 クソ野郎。服のことでなくたって、文句を言う資格はないからな!


 怒りがそうさせるのか、自分より背の高い人を背負っているとは思えないほど速く歩けた。


 しかし、重い。歯を食いしばって、すり減った下駄を地面に叩きつけるように歩いた。

 自分が女だと忘れてしまったかのように、荒々しく。


 程なくして鎌倉高校に近い病院に着いた。近辺にあってよかった。不幸中の幸いとはこのことだ。


「すいません! 開けてください! 死にそうです、助けてください!」


 ガラスのドアを割れそうになるまで、力一杯叩いた。

 歪んだように波打つガラスを、右手を握りしめて力任せに叩く。


「はいはいはい、なんです、なんですか!」


 病院の奥から、バタバタとまだ寝間着の男性が駆けて来てドアを開けた。起きたばかりだというのがわかる顔つきだ。


 状況を理解できていないようだったので、図々しくも下駄を履いたまま室内へ。


「瓶が空になるくらいに、カルモチンを飲んでます。どうしたっていいです、金なら払います! だから助けてあげてください!」

「あ、ああ……わかった!」


 しゅーさんの体を下ろし、診察室のベッドに寝かせた。


 次は田部さんを運ばなければと、ベッドから離れる。

 すると、ワイシャツが力なく後ろに引かれた。


 後ろを振り返ると、なんとも言えない顔で、しゅーさんがか細い声で「どうして」と言う。


「どうして……? って?」


 感情的になった僕は、ぎゅっと右手で拳を作り、その手を彼の顔のギリギリまで振りかざした。


 そうして鼻にコツンと中指だけを当てて、殴ったことにしてやった。

 しゅーさんは震えながら目を瞑っている。びっくりしたのだろう。


「何回も言わせるな! 助けるって言ったろ!」


 心中は平気でするくせに。


 本当は……きっと、ちょっとしたことでびびってしまう人なんだ。

 この人はきっと弱い。弱いから心中したんだろうか。


 いいや、だからなんだ。知らん。人を巻き込んでいい理由にはならない。


「何度だって殴ってやる。痛いってわかるように、殴ってやる」


 田部さんが苦しかった分、しゅーさんは苦しまなければならない。だって不公平だ。


 あの人は死ななくて良かったはずなのだから。償って、苦しんで、その苦しさを噛み締めろ。それが何かは僕が教えてやる。


 ――津島修治。


 あなたは今日の朝日を見た。

 カルモチンは明日を望んだのだ。あなたは望まなかったかもしれない、今を。


「今は、生きろ」


 顔は見せずに診察室を素早く出た。


 だって、僕は泣いているんだもん。


 この数ヶ月、ずっと頭の中を占拠していたその人が、生死を彷徨ってしまったから。


 怒りとやりきれなさ、それから――。


 僕は、しゅーさんがもしかしたら手遅れで、いなくなってしまうのではないかと思った。


「お金貯まってたら、こんなことしなかったの?」


 追える人がいなくなるかもしれないって、寂しくなってしまったのだった。



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