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 庄司の住む集合住宅を離れながら、尊は写真フォルダを見ていた。スマホの中にいる女が、こうしてみてみるとまだ別人に見えていた。近くにいれば庄司だという環境なため、離れてしまえばそれはただの美女。しかもそれまで至近距離で接していたのである。汗の匂いも、部屋の匂いも、体の様々な部位を強く記憶しており、それが自分の帰り道をいつもより長く感じられた。何度も何度も、その美女を反芻した。

 尊は近くにある公園に寄った。まだ朝も朝で、人はいなかった。公衆便所に駆け込んで個室トイレへと入る。下半身から脳みその中心部にいたたまれないモヤモヤを感じる。それを抜き取るために、尊は美女の写真を見ながらズボンを降ろしたのだった。

 しかし、その時頭の中に現れたのは庄司だった。庄司は朝起きたら女になっており、しかも美女。友人である尊に出くわして、奇跡的に理解されているが、庄司は今後の生活に果てしない絶望を感じているはずだ。今も部屋で悩み、親にどう説明するか、大学に行けないことをどうするか、バイト先にどう説明するのか、きっと頭の中をぐるぐるさせている。そんな中、別に明日も男で、日常を過ごせて、それでいて何もないこの自分が、こんなことをする資格があるのか、尊は鈍い汗をかき始めた。トイレの個室の中の温度はどんどん籠っていき、じわりと背中全体に服がへばりつくのを感じた。さきほどの、庄司の行動を思い出す、お尻を向ける、紅茶のついたパンを卑しく食べ、体に付いた紅茶を舐める。尊はそんな空間との、存在との、とてつもなく大きななにかと性行為をしているかのような、庄司の様子を思い浮かべる。それを、男のころの庄司に当てはめて考える。

 しかし、尊は理性を捨ててしまった。本能のままに写真に欲情し、その個室トイレの中の空気を揺らし、そうしてモヤモヤを、鬱憤を晴らすことにした。

 いつしか尊は、庄司の顔も声も、忘れてしまっていた。あの笑顔も、過去の思い出も、さっき出会った見知らぬ美女に置き換えられて、すべて上書きされてしまった。そうして、存在しない記憶を経た最終的着地をしてしまった。その鬱憤をトイレに放って、はあはあと息を荒くし、スマホをポケットに入れる。

 尊は庄司の顔を、声を思い出そうとした。どのような、顔だったのか。どんな、声だったのか。いったい出会いはなんだったのか、しばらくは頭で考えた。写真にあるはずの庄司の顔に、なぜかしっくりこなかった。そうして考えたのち、尊はもう一度会いたいと思ってしまった。それが、庄司に会いたいのか、あの美女に会いたいのか、尊にはどうしても結論付けることが怖かった。


 尊が帰っていったあと、庄司はしばらく赤面していたわけだが、すぐに現実的な考えに支配されることとなった。それはもちろん、尊の想像通りで、今後の生活をどうするのかなどに違いはなかった。すぐにもう一度鏡を見に行った。やはり変わらず、自分とは思えない女がそこにはいる。どうやっても男に戻れないというのなら、どうするべきか。そういえば、中学生時代のクラスメイトが水商売をすることを自慢げに話していたことを思い出した。このような成長を遂げて、化粧かなんかすれば、それなりに稼げるのではないかと感じた。しかし、見た目は女でも、男は男であるために、女の体を売るという行為の痛みを感じるのは嫌だなと感じたのだった。おもむろにスマホを鏡に向けて、自分でも写真を撮っておこうと思った。顔をスマホで隠すように撮る。ネットじゃ常套の撮影方法をし始めるあたり、なんだか本当に女みたいになったなと、シャッター音が呼応するようにユニットバスに響いた。

「どうなったまったんだろう……私」

 ハッと口を押さえた。『私』いや違う。それは違うと言い聞かせた。これは声が、あまりにも女声であるから、透き通りすぎて、『俺』にはふさわしくないから。反射的に『私』と言ったまでで、まさか男であることを忘れるわけがないと、何度も言い聞かせた。今だって、実際鏡に立っている自分に違和感しかない。実際そうだ。

 いやしかし、であれば尊への感情をどう説明できようか。庄司は少しずつ、確実に外堀が埋まっているような、自分が確実に女になっていることを実感し始めた。それは本当にたしかで、いつしか、庄司自身でさえも、自分の声を忘れてしまったようだった。なんせ、今の声の方が、自分にとっては良いとすら思い始めたからであった。

 その時また、あの人間味のないインターホンが鳴った。最初より鳴る感覚が長かった。もしこれが尊だとしたらば、きっと尊はなにか分別をつけてきたんだろうな。と大方庄司は察するのであった。そっと扉を開けると、そこに立っていたのは尊だった。庄司も尊も何も言うことなく、また見つめ合った。

 今度こそ、ラブソングが似合いそうな空気であった。


 庄司は尊を招き入れ、扉を閉めた。そのまま、奥の部屋にもいかず、その場に立ち尽くしていた。尊も気まずく、そして庄司も尊の行ったことは分かっているため、どうしようもなかった。庄司は、いたずらな気持ちになった。いつもなら、庄司は冗談交じりに言葉で尊をからかっただろうが、庄司は確実に、女へと侵食されていた。

 バッと尊に抱き着いて、尊の耳元で吐息交じりに。庄司は

「やってきたんでしょぉ、わかるよ……」

 と囁いた。透き通った声が、吐息の混じることによって、それは確実に体を奪おうとしてきている感覚に、尊はぞわぞわと体を伸ばしてしまった。玄関の電気も付いていない空間で、二人は密着した。

「いいんだよ、正直に言ってよ……その方が打ち明けやすいでしょ?」

 庄司の手が、華奢な手が、弱弱しく、しかし包容力のあるように尊の背中を抱いた。庄司の、いや美女の背中を抱き返す勇気が尊にはなく、目を開いたまま、鼻の中に流れこんでくる甘い臭いに頭をくらくらさせた。

「ホントに、庄司だもんな……? ドッキリじゃ、ないんだもんな……?」

 尊は再確認した。それは、事実を伝えるための覚悟のようなものだった。尊は、肩に乗っている庄司の頭を見た。さらさらとした髪の毛で、しかしまだ女特有の手入れをしていないからか、少し荒れていた。そういえばと、庄司は女になってから身長が小さくなっていることも、今気づいたのだった。

「正直、か?」

 尊は正直に伝えようと思った。現に庄司はそのことを理解しているようだし、ではわざわざ嘘をつく必要もない。だからこそ、尊はこの甘ったるい空間に耐えることができず、前に進むことができず、この場から後ずさりするように

「まさか、庄司は庄司だろ。そんなことしねぇよ」

 と後悔しながら、言ったのだった。

 庄司は肩の中で何も言わなかった。二人の関係が、北国のように冷え付いた。


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え?これだけ?続きは?
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