断罪の席で『判決は家計簿が下します』――監査王女の公開ざまぁ
鐘が三度鳴り、私は断罪台へ上った。
泣くつもりはない。代わりに、革表紙の一冊を抱えている。王城台所の出納帳。
「リーディア・アウレリア。お前は姉である王妃候補を貶め、王家の威信を損ねた」
宣告を読み上げる重臣の声に、広場がざわめく。
今日の私は、捨てられる予定だった。
「申し開きは?」
「ございます。――ただし、数字で」
私は帳を開き、一枚の領収書を高く掲げた。
「王家紋章入りの金箔舞踏会招待状――費目は『福祉』。ここが最初の誤りです」
ざわつきが一拍、遅れて静まる。
「福祉費の流用。さらに日付が王妃候補殿の滞在記録と食い違う。姉はその夜、王都に不在でした」
私はもう一枚、パン職人の納品伝票を広げる。小麦価は前月比二割高騰、だが支払い額は据え置き。差額は――。
「“どこか”に消えた。消えた先は、義妹殿下の私室で御座います」
人々の視線が、白いドレスへ突き刺さる。義妹セリカは扇子で口元を隠し、笑おうとして笑えなかった。
「名誉ある断罪の場で、出納などという雑事を喚くな!」
後見の侯爵が吠える。
「雑事こそが真実です、閣下」
私は公証庁の印璽が押された監査状を示す。
「支出の目的、日付、承認者、そして印影のブレ。あなたの印は夜更けに押されている。灯りの煤と酒の匂いが紙に残る。公務の印は、酒の席で押してはなりません」
王弟殿下の手が合図を送る。公証官が前へ出て、静かに宣言した。
「監査王女リーディア殿の主張は、証跡整合により一次適合」
広場に息が戻る。
私は最後の紙束――贈答品の受領証を掲げる。受け取り印は義妹と侯爵。その日の王妃候補は国境視察で都外。
「すなわち、“罪”を着せられたのは私。罪を犯したのは――」
沈黙が落ちた。
「あなたがたです」
侯爵が笑い飛ばそうとした瞬間、公証官が魔印を点火する。赤い紋が宙に浮かび、偽りにだけ反応して紙縒りの炎が走った。
「印影、燃焼」
侯爵の顔から血の気が引く。
「王家の断罪は、感情ではなく家計簿による」
私は本を閉じ、まっすぐ前を見る。
「判決を」
王の椅子より半歩下がった席で、王弟殿下――アーヴィンが立つ。
「――暫定判。婚約破棄の執行停止。背任の疑いにより侯爵家を拘束、義妹殿下は出納保全が終わるまで謹慎。最終判は、二日後の公開監査で下す」
ざわめきが再び膨らむ。私は胸の奥で、小さく呼吸を整えた。
泣くのは、数字にしてからだ。
*
夕刻、公証庁の書庫は薄青の光を保っている。魔術師が配合した光で紙の劣化を防ぐのだという。
私は出納帳を台に置き、アーヴィンと向かい合った。
「よく踏みとどまったな、リーディア」
「私には、泣くよりめくるべき帳があります」
殿下は口元だけで笑う。
「二日で決める。王国の金がどこへ滑っているか。君の推測は?」
「“福祉費”で買われたのは、贈答と見栄。侯爵の夜会、義妹殿下の衣装、そして……婚約の下準備」
「婚約?」
「はい。第一王子ローレンス殿下の。わたくしとの契約を覆して、義妹殿下を正妃に立てるための外堀です」
口にしてはじめて、自分の胸の痛みを自覚した。
ローレンス。幼い頃は、私の読みかけの書を静かに閉じてくれる人だった。だが王位継承の渦のなかで、彼は言葉の多い人になり、数字の少ない人になっていった。
「出入りの印影、納品伝票、寄付先の名簿――三つの鎖を繋げば行先が見える」
私は薄紙を三列に並べ、紙端を重ねる。
「ここです。白手袋」
アーヴィンの目が細くなる。
「婚姻周りの印影工作人。噂では聞いている」
「名簿に直接は載りません。ですが、寄付の先――孤児院に回ったはずの粉が、白手袋の運営する“礼節学院”へ流れている。孤児院は入荷不足、学院は過剰在庫」
私は粉袋の検収印に押された煤を指先で撫でた。
「粉袋の煤は窯の種類によって色が違います。孤児院は薪窯、学院は石炭窯。袋は石炭の煤だ。――つまり横流し」
「良い目をしている」
殿下は短くそう言い、机上の金糸の紐をひねった。壁の魔導具が反応し、地図が光る。王都の物流路が、血管のように浮かび上がる。
「二日後の公開監査までに、三つの点を刺す。日付、数量、行先。どれか一つでも嘘なら、鎖は切れる」
「切らせません」
私は頷き、紐を結び直した。
数字は、裏切らない。
裏切るのは、いつも人だ。
*
夜の王都は、静けさの皮に包まれている。
公証庁からの帰路、私たちは石畳に靴音を落としながら歩いた。衛士の灯りが点々と続く。
「ローレンスは、君の涙を見たかったのだろうか」
アーヴィンが不意に問う。
「彼は、正しさより楽を選びました。言葉を並べるほうが、数字を積むより簡単ですから」
「君は数字で泣くと言ったな」
「はい。数字は、あとから誰にでも確かめられます。私が今日泣けば、誰も確かめなくなる」
殿下は足を止めた。
夜風が、私の頬を撫でる。
「……ならば、君が泣けるのは、最後だ」
言葉の温度が、ひどく正確で、胸の芯に届いた。
「殿下」
「アーヴィンでいい」
「……アーヴィン」
名前を呼んだ瞬間、路地の奥で乾いた音がした。
影が四つ、素早く広がる。
侯爵家の私兵だ。
「書を渡せ」
短い命令の声。
「王弟殿下に刃を向けるのは、高くつきますよ」
彼らは笑い、その笑いは粗末な布のように薄かった。
一本が私へ向かい、もう一本が殿下へ――その刹那、私は出納帳を抱え直し、足を踏み込む。
数字は人を守れない。抱える手が守る。
刃が光った。
光は、すぐに別の光で消された。
――アーヴィンの剣。
殿下は私の前に出て、二歩、三歩で私兵の手首を叩き落とす。鈍い音。膝が石に当たる音。
「退け」
声が低く、短く、揺れない。
残りが怯み、退いた。
私は紙の角を胸に押し当てた。
紙は薄い。だが、薄いものは強い。
人は厚い鎧に隠れるほどに、嘘が増える。
*
二日後。
王城広場は、再び満ちた。
公開監査――王国の制度は古いが、恥を晒す勇気だけは、古くから持っている。
私は壇上で紙束を三列に並べ、深く息を吸った。
「三本の鎖を示します。日付、数量、行先」
魔印が点り、空中に三つの輪が浮かび上がった。輪は薄い光の紐で繋がれ、ひとつでも食い違えば切れる。
「まず日付。福祉費からの支出が実行された日――王妃候補殿は国境視察。承認者としての署名は不在。これは不可能」
第一の輪が鳴って合図する。
「次に数量。小麦粉の荷が『孤児院へ』と記録されているが、孤児院の焼成記録はその日空欄。代わりに“礼節学院”の窯が三度焚かれている。袋の煤は石炭」
第二の輪が締まる。
「最後に行先。孤児院への寄付者名簿に、侯爵家の家宰ルストの名。だが学院の寄付者名簿には白手袋の印。二つの印影、一画目が上から入っている。――代筆」
第三の輪が閉じた。
三つの輪が連結し、光は鎖になった。
「鎖は繋がりました。流れは一つ。福祉費は、侯爵家と義妹殿下の見栄へ。孤児院は空の棚、学院は過剰在庫」
侯爵が立ち上がる。
「断罪台で、私塾の運営を非難するのか!」
「非難はしません。簿を見ます」
私は一枚の紙を掲げた。
「――婚姻贈答リスト。王家の婚姻に伴って贈られる礼物の一覧。王妃候補への贈答は、王家の出費ではありません。『贈る側』の支出です。ところが、見てください」
私は列を指でなぞる。
「“白手袋”が取り仕切る“礼節学院”からの贈答――“誓約の指輪”。費目、福祉」
広場が波打つ。
「福祉費寄付の袋が学院へ渡り、学院が王家へ“指輪”を贈る。――つまり、王家が自分に贈っている。金の色だけを取り替えて」
王の椅子の隣で、アーヴィンが静かに目を伏せた。
私はゆっくりと紙を伏せる。
「私の婚約破棄は、その外堀として準備されました。正妃の座に義妹を据えるために。対象は、私ではない。制度です」
空気が冷える。
侯爵は笑った。笑いは薄く、音を立てて破れた。
「証拠は紙切れだ。紙は燃やせる」
「――だから、燃やしません」
私は出納帳を閉じ、壇上の端に置いた。
魔印が、静かに明滅する。
「紙を燃やすなら、人も燃える。王国は、お金の流れで人を暖めるべきです」
沈黙を破ったのは、一人のパン職人だった。
彼は帽子を胸に抱き、壇の下で頭を下げる。
「孤児院に粉が届かない日は、パンが一斤減る。子らはよく食べる。俺は数を数える。嘘は、毎朝、余りの形で出る」
私は頷き、魔印へ視線を送った。
赤い紋が、空に花を描く。
「証跡整合、二次適合。――判決を」
アーヴィンが立つ。
「判決。リーディア・アウレリアの無罪。婚約破棄を取消し、第一王子ローレンスに注意。侯爵家の背任を認め、家宰ルストを含む関係者を処分。義妹セリカ殿下は、公務より退け」
広場は一瞬、無音になり、次に爆ぜるような歓声で満ちた。
ローレンスは蒼白で、私を見なかった。
それでいい、と私は思った。
数字に背を向ける人は、いつか言葉にも背を向ける。
*
判決からの数刻、私は王城の小庭にいた。
噴水の細い糸が、日差しを細かく切り分ける。
アーヴィンがやって来る。
「おめでとう、では足りないな」
「ありがとうございます、でも十分です」
「十分なのは君の仕事だ。――さて、君の恋はどうだ」
私は噴水を見た。
「……公証庁の特別監査官なら、どう答えるべきでしょう」
「監査官なら、『関係を継続するには再評価が必要』と言うだろう」
「では、私も言います。再評価を」
アーヴィンはわずかに眉を上げ、笑みを堪えた。
「ローレンスではなく?」
「ええ。制度を守る人と、数字で話せる人と」
水音が、風の音に混ざった。
アーヴィンはポケットから、細い鎖のついた銀の札を取り出す。
「公証庁特別監査官の証。これは公的承認だ」
札は小さい。だが、重さがあった。
「そして、これは私的提案」
彼は札の裏へ、短い文字を書いた。
『婚姻監査の初代主任を、君に』
私は思わず笑った。
「求婚ではありませんか?」
「制度から入るのが、我々のやり方だ」
私は札を握りしめた。
「よろしいでしょう。準備は好きです」
「泣かないのか?」
「最後にします。――数字のあとで」
私の目に、ようやく水が滲んだ。
噴水の粒が、ゆっくり増えたように見えた。
*
婚姻監査は、三つの柱で立てられた。
一、求婚者は支出計画を提出すること。
二、贈答は王家ではなく贈り手の費目であることの再確認。
三、印影は光刻で記録し、代筆の余地をなくすこと。
私は公証庁の仕事机に向かい、昼と夜の境目を紙の山で示した。
最初に来たのは、言葉の多い人々だ。
「恋に数字を持ち込むのですか」
「書類で愛は測れません」
私は笑って、印箱を開けた。
「測りません。確認します」
「なにを」
「あなたが、明日も同じことを言う人かどうか」
多くは帰り、少しは残った。
残った人々の顔は、どこか穏やかだった。
数字は冷たいと人は言う。
だが冷たいものは、熱を正確に伝える。
*
侯爵家の処分は淡々と進み、家宰ルストは書類の海に沈んだ。
義妹セリカは、静かに地方へと下げられた。
ローレンスは、王の前で長い沈黙ののち、ひとつだけ言った。
「数字を、学びます」
嘘でも、いい。
人は、嘘でも紙に書けば、いつか本当にする。
私は公証庁の窓から、王都の屋根を見渡した。
孤児院の煙突からは、パンの匂い。
礼節学院からは、質素な花束。
贈り物は、贈る人の顔を持っているべきだ。
*
夕暮れ、監査官室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、布を抱えた老職人だ。
「王女様。これを」
包みのなかは、帳面の表紙。新しい革。指で撫でると、わずかな凹凸――金糸で織られた王家の紋。
「お代は?」
「もう、いただいております」
「どなたから」
「“白手袋”から。……いや、冗談だ。王弟殿下からです」
私は思わず肩の力を抜いた。
「殿下は冗談を言う質ではないでしょう」
「そうだな。あの方は冗談の代わりに制度を作るお人だ」
職人は笑い、去っていった。
私は新しい表紙を古い出納帳にかぶせ、そっと閉じた。
物語は、表紙で変わる。
中身は同じでも、手が伸びやすくなる。
*
ある夜、アーヴィンが私を屋上へ連れ出した。
王都の灯りは、星座のように散らばっている。
「見えるか、リーディア」
「何を」
「見栄の光と、生活の光の差だ」
私は息を止め、目を凝らす。
王城に近い眩い光、商人街の点滅、下町の安定した明るさ。
「見栄は瞬く。生活は続く」
「君の監査は、生活を続かせるためにある」
アーヴィンの言葉は、風に混ざってゆっくり降りた。
「君の涙は、どこに落ちる」
「数字のうえに。――そして、人のうえに」
ようやく言えた。
殿下は横を向き、頬を指先で押さえた。
「やっと泣いたか」
「ええ。遅れて、すみません」
「遅い涙は、信用が高い」
私は笑い、涙を拭き、殿下の袖に少し付けてしまった。
「すみません」
「帳簿に書いておこう。貸方:ハンカチ」
「借方は?」
「求婚状」
私は驚いて殿下を見た。
「制度から、では?」
「制度は整えた。次は人の番だ」
殿下は懐から封筒を出した。
封蝋に押された印は、私の指に馴染み、震えなかった。
「読むのは、明日でいい。今日は確認だけしたい」
「なにを」
「君が、明日も同じ目で僕を見るかどうか」
「見ます」
答えは、数字より短かった。
*
翌朝、私は封筒を開いた。
中には、簡単な求婚状と、支出計画が添えられていた。
『婚姻後一年間の支出内訳――式は質素、贈答は各自負担。孤児院へ毎月の寄付。共同の読書費を計上』
私は赤鉛筆で余白に承認の印を付けた。
そして、余白にもうひとつ書き足す。
『二年目以降も継続』
扉が開き、アーヴィンが入ってくる。
「監査官殿、判は」
「ここに」
私は封筒を返した。
彼はそれを胸に当て、短く頷いた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
言葉が短くて足りないのなら、数字と日々で足せばいい。
帳面は、今日も増える。
支出も、収入も、涙も、笑いも。
すべて、記録すれば、人は少しだけ正しくなれる。
*
公開の場に立つのは、たぶんこれからも怖い。
けれど、怖いと書けば、次に読む人が準備できる。
私は今日も、小さな印を紙の左下に押した。
赤い丸は、丸い目に似ている。
この王国を、見張る目。
そして、見守る目。
泣きたいときは、数字が泣く。
嬉しいときは、人が笑う。
その順序を守るだけで、世界は少しだけましになる。
私は帳面を閉じ、窓を開けた。
朝の匂いは、パン。
それだけで、今日の判は、半分決まっている。
――了――
(おまけ:用語ミニ解説)
・証跡整合:書類の日時・数量・承認者・印影の一致度を魔印で可視化する工程。
・印影のブレ:夜間・酒席で押された印に生じやすい煤・筆圧偏差。光刻で検出。
・出納保全:関係者の口座/保管庫/私室の収支を凍結し、証憑の出入りを止める処置。
・婚姻監査:求婚時に支出計画・贈答費目・印影の真正を審査する新制度。愛を測らず、継続可能性を確認する。