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共同戦線

 ヨルが次に目を開けた時、目に映ったのはやはり、見慣れない純白の天井だった。

 だが、昨日までのそれとは、少しだけ感覚が違っていた。全身を鉛のように重くしていた倦怠感は薄れ、脳を締め付けていた鈍痛も、遠い記憶のこだまのように微かに響くだけになっていた。

 窓から差し込む光が、部屋の白い壁に淡いオレンジ色の模様を描いている。どうやら、もう夕暮れらしい。

 ゆっくりと身体を起こすと、ベッドの脇に置かれた硬そうな椅子の上で、誰かが丸くなって眠っているのが見えた。

 オレンジレッドの、鮮烈な髪。アカだった。

 彼女は窮屈そうに膝を抱え、その身体には、ヨルが昨日まで着ていたはずの、少し大きめの病室の服が無造作にかけられていた。寝ている間も、警戒を解いていなかったのだろうか。その健気さが、なぜか少しだけ、ヨルの胸を締め付けた。


 ヨルがベッドから静かに足を下ろした、その物音で、彼女は「ん……」と小さく身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。

「……あ、起きたんだ」

 まだ眠気の残る、少し掠れた声。彼女は大きなあくびを一つすると、ごしごしと目を擦った。

「体、どう? まだ頭痛い?」

「いや……もう、ほとんど大丈夫だ」ヨルは答えた。「ありがとう。ずっと、ここにいてくれたのか?」

「べっつにー? あたしが寝たかったから寝てただけよ」

 アカはそっぽを向き、ぶっきらぼうに言った。だが、その耳が少しだけ赤くなっているのを、ヨルは見逃さなかった。

 気まずい沈黙が、部屋に落ちる。

 二人はパートナーになることを決めた。だが、その関係はまだ、生まれたばかりの赤子のように、どう扱っていいのか分からない、脆いものだった。

 その沈黙を破ったのは、ヨルの方だった。彼は、これが自分の新しい「日常」の第一歩なのだと、自分に言い聞かせた。

「俺たち……これから、どこへ行くんだ? 何をすればいい?」

 その問いに、アカの顔がぱっと輝いた。眠気は完全に吹き飛び、いつもの太陽のような笑顔が戻ってくる。

「よくぞ聞いてくれました!」彼女は椅子から勢いよく立ち上がると、ポンと手を叩いた。「まずは腹ごしらえ! 話はそれからよ! その後、あたし達の『新居』にご案内! そして、いよいよ……地獄の特訓開始だ!」


 アカに連れられて医務室を出ると、そこは昨日までの無機質な廊下とは全く違う、一種の生活感と……そして、殺伐とした空気が混じり合う空間だった。

「ここが『選手村』。妖術杯の参加者が、敗退するか死ぬかするまで暮らす場所よ」

 アカはこともなげに言った。

 そこは、さながら巨大な基地のようだった。近未来的なデザインの居住ブロックが並び、その間を様々な人種の、明らかにカタギではない人々が行き交っている。

 共有スペースでは、屈強な男がハイテクなライフル銃のような武器を分解清掃している隣で、和服の少女が静かに目を閉じ、指先から小さな式神を飛ばす練習をしていた。壁際には、昨日まで自分たちがいた闘技場の試合中継がホログラムで映し出されており、数人が食い入るようにそれを見つめている。誰もが、互いに干渉せず、しかし牽制し合うような、独特の緊張感を放っていた。

「ここでは、宿泊と基本的な食事は無料で提供される。けど、それ以外は全部『ポイント制』よ」

 アカは歩きながら説明した。

「もっと性能のいい武器や防具、対戦相手の情報、特別な治療サービス……そういうのは全部、試合に勝って稼いだポイントで買うしかない。だから、ここでは全員がライバル。馴れ合いは禁物よ」

「じゃあ、俺たちは……」

「無一文からのスタートってわけ」アカはウィンクした。「ま、なんとかなるでしょ!」

 彼女が案内したのは、居住ブロックの一室だった。ドアが開くと、そこには驚くほど殺風景な空間が広がっていた。二段ベッドと、小さな机、そして壁に埋め込まれた情報端末が一つ。それだけ。

「へえ、ここがあたし達の城ってわけね」

 アカは楽しそうに言い、荷物をベッドの上に放り投げた。ヨルもそれに倣う。ここが、彼の新しい「家」だった。


「さて、と」

 部屋の探索もそこそこに、アカは真剣な表情で向き直った。

「作戦会議を始めるわよ、ヨル。あたしの戦い方は、前の試合で見た通り。正直、蓮みたいなトップクラスの奴ら相手には、力押しだけじゃジリ貧になる。あんたの……あの『力』が、あたし達が勝つための唯一の切り札よ」

 彼女の目は真剣だった。

「でも、毎回あんな使い方してたら、勝つ前にあんたが死んじゃう。だから、まずはあの力が何なのか、どうすればコントロールできるのか、それを探る。いいわね?」

「……ああ」ヨルも頷いた。

「じゃあ、やってみて。あの時みたいに」

「やってみてって言われても……」

 ヨルは困惑しながらも、目を閉じて、闘技場でのあの瞬間に意識を集中させようと試みた。

 蓮の刃がアカに迫る光景。自分の中から湧き上がった、焼け付くような激情。「彼女を守りたい」という、純粋な祈りにも似た願い。

 すると、瞼の裏に、チカチカと光のノイズが走り始めた。

 来た。

 彼はゆっくりと目を開け、目の前にある机に意識を向けた。

 世界の“色”が、再び褪せていく。

 机の輪郭が曖昧になり、その表面を、裏側を、内部を構成する、無数の光る線……「コード」が、ぼんやりと見え始めた。それは、月詠小雪の術式ほど複雑ではなく、単純で、静的で、ただそこにあるだけの「情報」の羅列。

「……見えてる。光る、線みたいなものが……」

「よし! じゃあ、それをどうにかしてみなさい! 消すとか、動かすとか!」アカが興奮したように言う。

 ヨルは、その無数の線の中から、一本だけを選び出し、意識を集中させた。

 消えろ。

 変われ。

 俺の言うことを聞け。

 だが、コードは微動だにしない。それどころか、ヨルの意識を拒絶するかのように、激しい抵抗を返してきた。

「ぐっ……ぅ……!」

 脳を内側から万力で締め上げられるような、耐え難い圧迫感。視界が真っ赤に染まり、次の瞬間、温かい液体が鼻からつ、と垂れた。

「わっ! ちょっと、もうやめなさい!」

 アカの焦った声で、ヨルははっと我に返った。集中が途切れ、世界は元の色を取り戻す。彼は激しく咳き込みながら、自分の鼻から流れる血を手の甲で拭った。

「……ダメだ。見えはするけど、何もできない……。それに、無理に干渉しようとすると、頭が……」

「分かった、もういい!」アカは彼の背中をさすりながら言った。「なるほどね……。あの力は、あんたが『誰かを守りたい』って本気で思った時じゃないと、本当の力を発揮しないのかも」

 彼女の分析は、的を射ているように思えた。

「厄介な能力ね……。毎回、死にかけなきゃ使えない必殺技なんて、クソの役にも立たないじゃない」

 アカは腕を組んで唸った。自分たちの唯一の希望が、とんでもなく燃費の悪い、気まぐれな代物であることを突きつけられたのだ。

 どうすれば、平時でも、あの力を自在に……。


 二人が行き詰っていた、その時だった。

 コン、コン。

 部屋のドアが、控えめに、しかし規則正しくノックされた。蓮の来訪とは全く違う、礼儀正しい響き。

 アカが訝しげな顔でヨルと視線を交わす。選手村で、わざわざノックをしてくるような丁寧な人間がいるとは思えなかった。

 ヨルは警戒しながら、ドアへと歩み寄る。ゆっくりとドアを開けると、そこに立っていたのは、彼の心臓を再び鷲掴みにする人物だった。

 黒い、長い髪。怜悧なまでに整った顔立ち。そして、全てを見透かすような、氷のように静かな瞳。

 あの夜、自分を救ってくれた、刀の女──サク。

 だが、その姿はあの時とは全く違っていた。夜闇に溶け込む黒のトレンチコートではなく、清潔で、一切の無駄がない、純白の制服に身を包んでいる。それは、選手村の職員たちが着ているものと似ていたが、より上質で、権威を感じさせるデザインだった。

 サクの視線は、まずヨルを捉え、彼の健康状態をスキャンするように観察した。次に、彼の背後で全身を硬直させているアカを一瞥し、そして、再びヨルへと戻ってきた。その態度は、純粋なまでに、公務的だった。


「ヨル」

 彼女は、初めて彼の名を呼んだ。

「私の名はサク。妖術杯運営委員会、及び内閣官房直属・第四種特別公安課の特務エージェントだ」

 サクは、一枚のタブレット端末を取り出し、その画面をヨルに向けた。そこには、ヨルの個人情報と、闘技場で彼が能力を発動させた瞬間の、不鮮明な監視映像が映し出されていた。

「未登録のまま妖術杯に参加した民間人。及び、月詠家の『箴言』を根源から瓦解させた、正体不明の特異能力。以上の嫌疑により、君は現在、我々の『特級監視対象』に指定されている」


「なっ……!?」アカが、サクとヨルの間に割って入った。「ちょっと待ちなさいよ! こいつはあたしのパートナーよ! 主催者が選手に手出しするってわけ!?」

 サクの静かな視線が、威嚇するアカを捉える。

「手出しではない。これは、規定に沿った措置だ」

 彼女は端末をしまうと、その氷の瞳で、真っ直ぐにヨルを見つめた。

「私がここに来た目的は二つ。一つは、君に対する正式な事情聴取。そして、もう一つは……」

 サクは、わずかに言葉を切った。その一瞬の間に、部屋の空気がさらに張り詰める。

「……私個人からの、『提案』だ」

 彼女の言葉は、拒絶を許さない、静かな響きを持っていた。

「風見家の人間とは、もう接触したようだな。君のトラブルは、まだ始まったばかりだということを、理解した方がいい」

「生き残りたいのであれば、賢明な選択をすることだ」

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