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次の「夜」

 静寂。

 先程まで耳を劈くような歓声と狂熱に支配されていた闘技場は、不気味なほどの静けさに包まれていた。人間、亜人、あるいは妖怪──幾千幾万もの視線が、砂の上に膝をつき、手の甲で無造作に鼻血を拭う黒髪の少年へと注がれている。

 司会者エックスの常にハイテンションな声が、初めてトーンを落とした。

『……い、今、何が起こったんだ!? 月詠選手の術式が……自壊しただと!? ま、まさか……これは、ヨル選手の隠し玉だったとでもいうのか!?』


 その問いに、誰も答えることはできない。

「蓮、気をつけて! あの少年は……おかしい!」

 月詠小雪の声が、初めて平坦さを失い、僅かな震えを帯びていた。彼女が誇りとする、無数の“言葉”によって編み上げられた「箴言」の法則が、これほどまでに馬鹿げた、理解不能な形で瓦解させられたのは初めてだった。それは、より強大な力で砕かれたというよりは……まるで、世界を構成する設計図そのものを誰かに無理矢理書き換えられ、建物が土台から崩れ落ちたかのような感覚だった。


「黙りなさい、雪」

 蓮の声は氷のように冷たいままだが、握りしめた双刀の柄は、無意識に軋むほど強く握られていた。背中には、自分でも気づかぬうちに冷や汗が滲んでいる。

 理解できない。

 先の一瞬、あの少年から感じたのは、強大な妖力でもなければ、既知の術式の発動波でもない。もっと根源的で、形而上の“干渉”。まるで神が気まぐれに草稿を修正し、自分が誇りとしてきた力が、気安く塗り潰された一行の文章に過ぎなかったかのように。


「あなた……何をしましたか?」

 蓮の声は低く、アカの肩越しに、その視線は突き刺すようにヨルを捉えていた。


「はっ……あんた、目でも悪いの?」

 アカの声が、全員の意識を引き戻す。彼女は既に橘金色の騎士剣を拾い上げ、満身創痍の身体で再びファイティングポーズを取り、まるで手負いの獅子のように、ふらつくヨルを背後にかばっていた。

「見えなかった? あたしの‘術師’が、あんたんちのお嬢様の小細工を破ったのよ。どう、不服? なら、もう一回やろうじゃないの、‘竹のお兄さん’」


 その顔には挑発的な笑みが浮かんでいたが、橘紅色の瞳の奥には、彼女自身も整理しきれていないであろう驚愕と困惑が渦巻いていた。彼女は背後のヨルをちらりと盗み見る。少し前まで恐怖に顔を青くし、震えることしかできなかった少年。今、その身体は限界に達しているはずなのに、その瞳には……何かが宿っていた。

 それは、深淵を覗き込んだ者が、自らも深淵となることを決意したかのような光だった。


「……面白いですね」蓮の口角が、危険な弧を描く。「感知不能の‘術師’……いえ、あなたは術師ですらない。一体、何者です?」

 もはや、迷いはない。理解できぬなら、あの忌々しい女ごと、破壊するまで。

 蓮の身体が沈み込み、青黒い妖力が再び旋風のように全身を纏う。その殺気は、先程の比ではなかった。


「来るわよ!」

 アカが低く叫び、騎士剣を胸の前に構える。

 ヨルは立ち上がろうとした。だが、力を込めた瞬間、脳を無数の鋼の針で刺し貫かれたかのような激痛が走り、視界がぐらりと揺れ、世界が不鮮明な二重写しになった。先程の行使は、彼の生命力の全てを使い果たしていた。


 蓮が疾風と化して突撃しようとした、その刹那──。


『ストーップ!!! ストップ、ストップ! 試合中断!』

 司会者エックスの声が、有無を言わさぬ強制力をもって場内に響き渡った。

『予測不能の特殊事態発生につき、妖術杯管理委員会の緊急裁定により、第一試合は……ノーコンテスト(無効試合)と判定します!』


「何ですと!?」蓮の動きが急停止し、その顔に初めて、隠すことのない怒りが浮かんだ。「主催者は何を考えているのです! まだ勝負はついていません!」


『これは最終決定です!』エックスの声も真剣みを帯びる。『風見家の蓮、月詠家の小雪、両選手は速やかに退場なさい。繰り返します、速やかに退場を! さもなくば、妖術杯の権威への冒涜とみなし、両家の名誉に相応のペナルティが課されることになります!』


「……っ!」

 蓮は歯を食いしばり、闘技場のどこか、見えぬ監視者がいるであろう一点を忌々しげに睨みつけた。数秒の睨み合いの末、彼は全身の殺気を潮が引くように霧散させた。

 双刀を鞘に収め、その氷のような視線で最後にアカを一度だけ射抜き、そして、彼女の背後で立つことすらままならない少年へと視線を移した。

「ヨル、と言いましたか」蓮は言った。「記憶しましたよ。あなたのその身に纏う『匂い』……そして、その力。すぐにまたお会いすることになるでしょう」

 それだけを言い残し、彼は顔色の優れない月詠小雪の肩を支え、万雷のどよめきの中、西側の退場ゲートへと姿を消した。


 敵が去った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

 アカが背後の気配の揺らぎを感じて振り返ると、ヨルが目を閉じ、糸が切れた人形のように前方へと倒れ込むところだった。

「おい! ヨル!」

 アカは咄嗟に駆け寄り、ヨルの顔面が砂に激突する寸前で、その身体を抱きとめた。腕の中に伝わるのは、異常なほどの体温と、抑えきれない震え。温かい液体が彼の鼻から流れ、彼女の袖を赤く濡らした。

「おい、しっかりしろ! くそっ!」

 アカは焦燥に駆られて叫んだが、腕の中の少年は完全に意識を失っていた。

 少年の、苦痛に歪んだ寝顔と、自らの袖に滲む血を見て、アカの胸中に複雑な感情が渦巻く。

 自分が、この争いとは無縁だったはずの一般人を、この血塗られた肉挽き機に無理矢理引きずり込んだのだ。

 そして、その自分が引きずり込んだ少年が、土壇場で、自分には到底理解できない力で、自分を救った。

「……あんた、一体……」

 アカは呟くと、少年を横抱きに抱え上げた。その身体は想像以上に軽く、まるで儚い羽根のようだった。

 彼女は彼を抱き、一歩、また一歩と、喧騒の闘技場を後にしていく。

 観客たちの騒めきも、エックスの興奮した試合解説も、全てが遠い世界の音のように聞こえた。今、彼女の世界で鳴り響いているのは、腕の中の少年の、弱々しく、しかし確かな呼吸の音だけだった。


 ヨルが次に目を開けた時、見えたのはやはり、見慣れない純白の天井だった。

「……また、ここか」

 呟きが漏れる。全身の倦怠感と、脳を締め付けるような鈍痛が、少し前の出来事を思い出させた。最初に目覚めた部屋と似ているが、消毒液の匂いはなく、代わりに微かに……柑橘系のような香りがした。

「目が覚めたのね?」

 ベッドの脇から声がした。顔を向けると、椅子に座ったアカの姿があった。彼女は戦闘服を脱ぎ、ラフな白いTシャツとデニムのショートパンツ姿で、橘紅色の長い髪を無造作におろしている。彼が目覚めたことに気づくと、安堵と、そしてどこか申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべた。

「……俺、どのくらい……?」声が掠れていた。

「丸一日よ。試合は、無効試合になったわ」

「そうか……」ヨルは身体を起こそうともがいた。アカがすぐに駆け寄り、その背中を支える。

「無理しないで。あんた、マジで死ぬとこだったんだから」

「ごめん……」

「謝るのは、あたしの方よ」

 アカは深々とため息をつき、何かを語り始めようとした。だが、その言葉は、何の前触れもなく、礼儀を欠いたノックと共に開かれたドアの音に遮られた。


 入ってきたのは、ヨルが今、最も会いたくない人物だった。

 風見家の蓮、そして、彼の後ろに控えるように立つ、月詠小雪。


「あんた、何しに来たのよ!?」

 アカは毛を逆立てた猫のように飛び上がり、ヨルのベッドの前に立ちはだかった。

「試合は終わったでしょ! やるってんなら相手になるわよ!」

「喧嘩を売りに来たわけではありませんよ、ドイツのお嬢さん」蓮の口調は丁寧だが、その響きは侮辱的に冷ややかだった。彼の視線はアカを完全に無視して、ベッドの上のヨルに注がれている。「確認したいことがあるだけです。あなたの身に宿る……『呪い』について」

「呪い?」ヨルとアカの声が重なった。

 蓮は二人の疑問を意に介さず、続けた。

「日本は世界で最も特殊な土地です。ここは『妖怪』の溜まり場であり、この国そのものが強大な妖力を孕んでいる。故に、我々のような、この地に根差した特定の旧家に生まれた者だけが、生まれながらにして『術式』を継承するのです。常識ですね」

 彼が一歩前に出ると、アカが緊張に拳を握りしめる。

「ですが、例外も存在する」蓮の瞳に、明確な嫌悪の色が浮かんだ。「野生の妖怪と禁忌の契約を交わし、己の身体の一部を贄として捧げることで、強引に術式を簒奪する者たちがいます。我々はそれを、『妖化者』と呼んでいます」

 ヨルの呼吸が、一瞬止まった。あの狂気に満ちた、美しい女の顔が脳裏をよぎる。

「数日前、東京A32区で、一人の少年が『妖化者』に襲われ、その後、何者かに助けられた。その少年は、あなたでしょう?」

 蓮の言葉は、寸分の狂いもないメスのように、ヨルの最も深い恐怖を切り裂いた。

「な、ぜ……」

「あなたを襲った『妖化者』の匂いは、私が誰よりもよく知っていますから」蓮の声に、丁寧な言葉遣いでは隠しきれない憎悪が滲んだ。

「その名は『イザヨイ』。我が風見家の名を捨て、一族に泥を塗った……裏切り者。そして、私のアネです」


 部屋の空気が、凍り付いた。

「あの女は狂っています」蓮は続けた。「彼女があなたの身体に残したのは、単なる妖力の残滓ではない。『印』です。それは、獣が己の獲物につける目印のようなもの。その印は灯台となり、血の匂いに惹かれた他の雑多な妖怪や化け物、そして……彼女自身を、何度でもあなたの元へと呼び寄せるでしょう」

「それは、呪いなどでは……」

 それまで沈黙を守っていた小雪が、静かに口を開いた。その声は鈴の音のように可憐で、しかし内容はヨルの背筋を凍らせるのに十分だった。

「どちらかと言えば……食事の前の、予約、のようなものです。後でゆっくりと味わうための、一皿の」

「そういうわけです」蓮が、最終宣告を下す。「あなたが、もはや一般人の世界に戻ることは不可能です。あなたが生きている限り、災厄は影のように付きまとい、いずれあなたと、あなたの周りの全てを喰らい尽くすでしょう」


 ヨルの顔から、完全に血の気が引いた。

「……なぜ、それを私に?」震える声で、ヨルは尋ねた。

「一族の恥は、一族で始末するのが風見家の流儀ですので」蓮は冷徹に答えた。「イザヨイは我ら一門の汚点。彼女の所業は、いずれ我々が断ち切ります。あなたが彼女に喰われる前に、お答えなさい。彼女について何を知っていますか? <クラブ>という組織の名を聞きましたか?」

「……知らない。何も……」ヨルは苦痛に顔を歪め、首を振った。「僕はただ、家に帰る途中で……」

「……そうですか。ご存知ない、と」蓮は失望を隠すように小さく息をついた。「ですが、雪の『箴言』を瓦解させたあの力。確かに、ただ者ではないようです。イザヨ-イがあなたに目をつけたのも、あながち偶然ではなさそうですね」

 彼は聞きたいことを聞き終えたのか、踵を返して部屋を出て行こうとした。

「待ちなさいよ!」衝撃から立ち直ったアカが叫ぶ。「あんた達の家のゴタゴタに、こいつを巻き込むな!」

「部外者は黙っていてください、外国人の方」蓮は足を止めない。「術師の血を混ぜ込んだだけの玩具の剣に頼るあなたが、我々と対等に渡り合えるとお思いで? 術式を授かる資格すらない者が、我々日本の内情に首を突っ込まないでいただきたい」

「なによ……!」アカは怒りに身体を震わせた。「『妖術杯』は、あんた達みたいに恵まれてない人間のためにあるんでしょ! 勝ち進めば、あたし達だって‘術式’が手に入るんだ!」

「でしたら、勝って見せてはいかがです?」

 蓮の背中が扉の向こうに消え、氷のように冷たい、侮蔑を込めた言葉だけが部屋に残った。

「次の試合まで、生き延びることができればの話ですがね」


 扉が閉まり、部屋にはヨルとアカだけが残された。空気は、鉛のように重い。

 長い沈黙の後、アカが、まるで空気を全部吐き出すかのように、椅子にどさりと腰を下ろした。

「……ごめん」俯いた彼女の声は、悔しさに滲んでいた。「まさか、こんなことになってるなんて……。あんたが主催者のスタッフで、せめて下級の術師くらいに思ってたあたしが、馬鹿だった……」

「いいんだ」ヨルは静かに言った。彼は自分の両手を見つめていた。「今、なんとなく……全部繋がった気がする」

 あの夜、自分を救ってくれた黒づくめの女の正体。彼女は恐らく、蓮の言う「主催者」──サクの所属する組織の人間なのだろう。

 そして、自分にはもう、退路がないことも。

 帰るべき家は、最も危険な場所になった。

 当たり前の日常は、二度と手に入らない幻になった。

 そして自分の身には、狂った女からの「食事の予約」と、名門一族からの「後始末」という、二つの重荷がのしかかっている。


「ねえ、ヨル」

 アカが深呼吸をして、彼の瞳をまっすぐに見つめた。その橘紅色の瞳には、決意の炎が燃え盛っていた。

「あのムカつく奴の言う通り、あたし達はもう、同じ船に乗ったようなもんよ。あんたは化け物に狙われ、あたしは何が何でもこの試合に勝って‘術式’を手に入れなきゃならない」

 彼女は、闘技場で倒れる前の彼にしたのと同じように、手を差し伸べた。

「あたしの元々のパートナーは逃げた。そして、あんたは……あたしを助けてくれた。あの力が何なのかは分からないけど、すごい力よ。もうどこにも行く場所がないなら、あたしと一緒に戦いなさい」

「あたしと、本当のチームを組むのよ!」

 その声には力があった。ヨルの、絶望に覆われた心に差し込む、一筋の光のようだった。

「勝ち続ければ、あたし達も‘術式’を授かることができる! そうすれば、あんたも自分の身を守る本当の力を手に入れられる! 昨日みたいに、命を削るだけじゃなく! あの、イザヨイとかいう女に、立ち向かう力だって!」


 ヨルは、差し伸べられた手を、静かに見つめた。

 その手は、少し前に、敵の刃を掴んで血に濡れていた。

 彼は、自分が倒れる前に、アカが躊躇いなく自分を庇ってくれた背中を思い出した。

.そして、その背中を守るために、魂の底から絞り出した、己の叫びを。

 そうだ。もう、選べる道など、他にないのだ。

 逃げれば、家族が危険に晒される。

 屈すれば、“一皿の主菜”として喰われるだけ。

 ならば、残された道は、ただ一つ。


 ヨルは、ゆっくりと、しかし迷いなく手を伸ばし、アカの手を握った。

 その手は温かく、力強かった。

「僕は……」

 彼は口を開いた。その声は小さく、だが、今までにないほど、確かな意志が宿っていた。

「どうすればいい?」


 少年の瞳に再び灯った“意志”の光を見て、アカは、心の底から、太陽のように眩しい笑顔を咲かせた。

「簡単よ」彼女は言った。「今日から、あんたがあたしの術師で、あたしがあんたの剣になる」


「ようこそ……あたし達の戦場へ」


2025年2月5日。

 少年ヨルの“日常”は、この日、完全に死んだ。

 そして、彼が戦い続けなければならない、新たな“夜”が始まった。

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