法則の編纂者
砂塵の中の敵は、一撃を当ててからは後続の動きを見せない。まるで忍耐強い獣のように、静かに次なる好機を窺っているかのようだ。
アカは増えた傷に頓着せず、一瞥すらくれない。ただ重心をより低く落とし、感覚を極限まで研ぎ澄ませ、吹き荒れる砂嵐の中から、あの「術言」の使い手──月詠小雪の気配を探っていた。
「後ろからこそこそ撃ってんじゃないわよ!」
アカは声を張り上げ挑発し、相手のペースを乱そうと試みる。
それに答えたのは、四方八方から響いてくるかのような、蓮の氷のごとき声だった。
「無意味な挑発ですね。術師と戦士の連携は、戦いの基礎でしょう。あなたとて、ただ立っているだけの‘術師’を連れているではありませんか?」
その言葉が終わらぬうちに、新たな異変が起こった。
アカの足元の黄砂が突如として震え、何かが地中から這い出してくるかのような気配がした。彼女は即座に警戒して後方へ跳んだが、すでに手遅れだった。
「──白澤、‘沈黙の箴言’」
それまでとは全く異なる、銀鈴を転がすように凛と澄んだ少女の声が、闘技場全体に響き渡る。
月詠小雪の声だ。
次の瞬間、数十条もの雪白の文字で構成された鎖が砂の中から猛然と現れた! それらは既知のいかなる言語でもなく、歪み、とぐろを巻き、不吉な幽光を放っている。まるで生き物のように、恐るべき速度でアカの四肢へと殺到した!
「こんなものッ!」
アカは怒号を上げ、手にした騎士剣で橘金色の光幕を舞わせ、数条の文字の鎖を斬り砕く。しかし、寸断された文字は消滅せず、空中でより細かなルーンへと分解されると、即座に再結合し、さらに数を増し、速度を上げた!
瞬く間に、アカの回避スペースは完全に封鎖される。一条の鎖が彼女の足首を捉えることに成功し、続いて二条、三条……無数の黒い文字が、まるで附骨の疽のように彼女の身体へ層を成して絡みつき、ついにその場で身動き一つ取れないよう、がんじがらめに縛り上げた。重い騎士剣も手から滑り落ち、遠くの砂地へと深々と突き刺さる。
「くそっ……!」
アカは必死にもがくが、文字の鎖はますます固く締まり、あまつさえ彼女の皮膚へと侵食を始め、妖力を蝕む不祥の気を放っていた。
砂塵が、次第に晴れていく。
蓮の姿が、鬼魅のごとく、束縛されたアカの眼前に現れた。その背後には、優雅な和装に身を包み、古風な書冊を手にした小柄な少女──月詠小雪が立っている。彼女は無表情で、先ほどの驚異的な術法が、まるで自分とは無関係であるかのように佇んでいた。
「終わりです、ドイツから来たお嬢さん」蓮は、アカの血で濡れた短刀を、そっと彼女の首筋に当てた。「その無謀さが、あなたの敗因です」
「けっ! 殺すなら殺しなさいよ、御託はいいから!」アカは怯むことなく、逆に鋭い視線で彼を睨みつけた。
蓮はその挑発を意に介さなかった。彼の視線はアカを通り越し、遠くで終始、木の杭のように立ち尽くしている、顔面蒼白の少年へと注がれる。
ヨルの頭の中は、真っ白だった。恐怖が心臓を鷲掴みにし、逃げ出す力さえ奪われている。
蓮の姿が瞬間移動のように掻き消え、次の刹那、ヨルの目の前に現れた。その氷のような、まるで品定めでもするかのような眼差しに、ヨルは全身の血の気が引くのを感じた。
「あなた、一体何者ですかな?」蓮の声は軽やかだったが、有無を言わせぬ圧が込められていた。「その身に……‘彼女’の匂いが残っている。あの女……イザナミの」
“彼女”? その名に、ヨルの身体が震えた。昨夜の恐怖が、鮮明に蘇る。
「まだご自身の状況を理解していないようですね」蓮の口元が、残酷な弧を描いた。
「ここを離れ、あの平和な世界へ戻りさえすれば、全てが元通りになるとでも思っているのですか?」
「……!」
「甘いですね。あなたのように、‘妖化者’の中でも高位の存在に印を付けられた‘餌’は、もはや日常には戻れません。我々が今日、あなたを見逃したとしても、‘彼女’が、あるいは‘彼女’と同類の化け物が、いずれあなたの世界に現れる。あなたの言う‘家’が、あなたの‘大切な人々’が……」
蓮は一度言葉を切り、事実を告げるだけの冷たい口調で、ヨルの未来を宣告した。
「……いずれ、次なる狩場となるでしょう」
その言葉は、最も鋭利な氷の錐となり、ヨルの心臓を瞬時に貫いた。
家に帰る?どこへ帰るっていうんだ?危険を家族にまで持ち込むのか?昨夜の惨劇を、自分にとって最も大切な人々の身の上で、繰り返させるというのか?
いやだ……そんなのは、絶対に。
絶望が、潮のように彼を飲み込んでいく。彼がこれまで歩んできた人生そのものが、この一瞬に否定されたかのようだった。もはや自分には、帰る場所などどこにもないのだと。
「やめなさい! そいつに手を出すな!」
アカの怒声が、ヨルを氷のような絶望の底から引き戻した。彼が顔を上げると、黒い文字に縛られた少女が、今までにないほどの怒りの形相で蓮を睨みつけていた。
「そいつはあたしのパートナーよ! あんた達との因縁なんて関係ない! やるならあたしにやりなさい!」彼女はまだもがいている。文字の鎖はすでに肉にまで深く食い込み、鮮血が黒いルーンを伝って絶えず流れ落ちていた。
「アカ!」ヨルはどこからか湧き出た勇気で、初めて彼女に怒鳴り返した。「なんで俺のことなんか構うんだ! あんたは俺を知らないだろ! 逃げろよ! あんた一人なら逃げられるだろ!」
「馬鹿!」アカの顔に、初めて焦燥と苦痛が入り混じった表情が浮かんだ。「自分のパートナーを置いて逃げるわけないでしょ! あんたこそ逃げなさい! あたしのことはいいから、早く!」
彼女は、自分を庇ったから、罠に掛かった。
彼女は、自分を庇ったから、深手を負った。
彼女は、この期に及んで、まだ自分を逃がそうとしている。
なぜ……。
ヨルの脳裏で、何かが「ぷつり」と音を立てて切れた。
家に帰る? もう帰るべき家などない。
逃げる? どこへ逃げられるというのだ。
この世界で、ただ一人……まだ自分を「パートナー」だと認め、自分のために命を懸けようとしてくれる人間が、目の前にいる。もし彼女さえも失ってしまったら、自分には一体何が残るというのか。
「なるほど……」蓮は全てを見通したように、まるで面白い芝居でも鑑賞するかのように言った。「共犯というわけですか。良いでしょう。ならば、まずはあなたという‘実験動物’から処理させていただきましょうか」
蓮が短刀を振り上げた。その切っ先が、ヨルの眉間へと真っ直ぐに向けられる。
ヨルは動かなかった。ただ静かに蓮を見つめ、それから、遠くで苦痛に喘ぐアカをもう一度見た。
もう、いい。
本当に、もうたくさんだ。
「──やめろ」
彼は、静かに呟いた。
ほぼ同時に、蓮の背後から、月詠小雪の短く鋭い叫び声が響いた。
「蓮、危ない! 術式が……!」
蓮の動きが、ぴたりと止まった。彼は感じていた。今までにない、理解不能な力が、目の前の無害に見えた少年から溢れ出しているのを。
ヨルの視界の中で、世界が一変した。
音が消えた。色彩が褪せた。時間の流れが、まるで極限まで引き伸ばされたかのように緩慢になる。
アカを縛り付けている、あの無数の黒い文字で構成された術式が、彼の目には、もはや単なるエネルギーや魔法としては映っていなかった。
それは、一篇の……無数の光る「コード」と「プログラム」によって構築された、精密にして複雑な、立体的な文章と化していた。
一つ一つのルーンが、一つ一つの紋様が、この「現象」を成立させるキーワードだ。それらは互いに連鎖し、厳密なロジックを以て、「束縛」と「侵食」という二つの効果を編み上げている。
読めない。
それら「コード」の意味するところなど、何一つ理解できない。
だが、彼は「視る」ことができた。
彼は視た。その「文章」の中核に、一際強く輝く、最も重要な一つの字符があるのを。その字符こそが、まるでこの術式の心臓であり、全てを支える礎石であるかのように。
それが何なのかは、わからない。
だが、強烈な直感があった。
あれを……あの、一つを……。
「──俺の前から、消え失せろぉぉぉぉぉっ!!!」
ヨルは、魂を引き裂くような咆哮を上げた。彼は、縛られた少女へと、右手を突き出す。
光も、衝撃も、何もなかった。
ただ、全身全霊の意志を込めて、あの中核の「字符」へ向けて、一つの命令を下した。
──【削除】。
次の瞬間、月詠小雪の術式に、奇怪千万な「エラー」が発生した。
鎖を構成していた黒い文字は、消滅しなかった。
だが、それらを互いに繋ぎ止めていた「接続」と「論理」が、強制的に断ち切られた。
「束縛」という形態を維持していた法則が改竄され、鎖を編んでいた無数のルーンは瞬時に制御を失う。まるで糸の切れた真珠のネックレスのように、ばらばらと崩れ落ち、無害な黒い染みとなって、黄砂の中へと溶けていった。
アカの身体にかかっていた圧力が、霧が晴れるように消え失せる。彼女は力を失い、その場に膝から崩れ落ち、大きく肩で息をした。
闘技場は、水を打ったような静寂に包まれた。
「な……に……?」
月詠小雪は己の両手を見つめ、その顔に初めて信じられないといった驚愕の色を浮かべた。自らの術式が、最も得意とする「箴言」が、全く理解不能な形で……崩壊した?
蓮もまた、弾かれたように振り返り、その場に崩れ落ちた少年を見た。
ヨルは膝をつき、激しく喘いでいた。一股の生温かい液体が、鼻から伝い落ちる。頭が割れるように痛み、目の前の景色がぐらぐらと揺れていた。
だが彼は、それでも顔を上げた。今までにない、怒りと決意が入り混じった瞳で、蓮を真っ直ぐに睨みつける。
『おーっと、これはどういうことだ! 月詠選手の術式が、突如として自壊したぞ! これは隠された切り札か!? いや、違う、この様子では、この奇跡を起こしたのは……まさか、あの今まで鳴りを潜めていた少年、ヨル選手なのかぁ!?』
司会者エックスの興奮した声が、その不気味な静寂を破った。
観客席も、それに呼応するように、割れんばかりのどよめきに包まれる。
「嘘だろ? 今のは何だ?」
「あいつ、ただの一般人じゃなかったのか?」
「まさか、月詠家の‘箴言’をさらに上回る、言霊系の術師だってのか?」
アカは地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。彼女は遠くで膝をつくヨルを見つめ、そして自分の身体から消え失せた鎖の痕跡を見た。その橘紅色の瞳に、震撼と当惑の色が満ちていた。
彼女は、ようやく理解した。自分は、もしかしたら最初から「勘違い」をしていたのかもしれない、と。
だが、その「勘違い」は、どうやら想像を絶するほど、とんでもないものだったらしい。
蓮の表情が、この上なく険しいものに変わった。彼は短刀を収め、もはやヨルを見ようとはしない。その全神経を、再び立ち上がり、傷一つないかのように構え直したアカへと集中させていた。
戦局は、この最も取るに足らないはずの「一般人」の覚醒によって、一瞬にして覆った。
ヨルは手の甲で鼻血を拭い、ふらつきながらも、立ち上がった。
家に帰る道は、もうない。
逃げるという選択肢も、消え失せた。
ならば、残された道は、ただ一つ。
彼は、自分に背を向け、再び騎士剣を構えて敵と対峙しようとする、あの炎のように鮮烈な少女を見つめた。
──戦う。
それは、ヨルが初めて、自らの意志で選択した、彼の戦場だった。