守るための約束
蓮の言葉は、静かだったが、その一言一句が、ヨルの鼓膜に重く響いた。
「……殺せ、だって?」
アカが、テーブルを叩かんばかりの勢いで身を乗り出す。
「あんた、自分が何を言ってるか分かってるの!? こいつは殺し屋じゃない!」
「黙りなさい」蓮は、アカを一瞥だにせず、冷ややかに言った。「これは、あなたには関係のない話です。彼と、私との間の問題だ」
「関係なくないわよ! こいつは、あたしのパートナーだ!」
「ならば、パートナーとして、彼の置かれた状況を正しく理解させてあげるのが、あなたの役目ではないのですか?」
蓮は、懐から一枚の古い写真を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
そこに写っていたのは、まだ幼い、蓮によく似た少年と、その隣で、優しく微笑む、美しい黒髪の女性だった。
「……これは?」
「十年前の私と、姉……まだ、風見イザヨイだった頃の彼女です」
写真の中の女性は、ヨルが路地裏で見た、あの狂気の女とは似ても似つかない、穏やかで、慈愛に満ちた表情をしていた。
「姉は、かつて風見家で最も優れた巫女でした。誰よりも優しく、誰よりも強い力を持っていた。だが、ある日を境に、彼女は変わった。禁忌とされる、野生の妖怪との直接契約に手を出し、力を求めた。その結果が、今のあの姿です」
蓮の声には、憎しみと共に、深い悲しみが滲んでいた。
「あなたの力は、術式を根源から破壊する。それは、姉のような、妖怪と癒着した存在を、完全に、跡形もなく消滅させられる、唯一の手段かもしれない。我々風見家の祓いの術では、彼女を殺すことはできても、その魂を妖怪との契約から解放することはできないのです」
それは、復讐であり、そして、かつて愛した肉親に対する、彼なりの“救済”の願いだった。
「……だからって、ヨルが手を汚す理由にはならない!」アカが叫ぶ。
「理由なら、ありますよ」蓮は、静かに言い返した。「イザヨイが、あなたにつけた『印』。あれは、いずれ発動する。発動すれば、あなたの存在そのものが、彼女をさらに強化するための“贄”となる。あなたは、彼女を殺すか、彼女に喰われるか。選択肢は、二つしかありません」
絶望的な、二者択一。
蓮と小雪は、それだけを言うと、静かに席を立ち、部屋を出て行った。
残されたのは、重い沈黙と、テーブルの上に置かれた、一枚の古い写真だけだった。
その帰り道、アカは、珍しく何も言わなかった。
部屋に戻ると、ヨルは、ベッドに腰掛け、受け取った写真を、じっと見つめていた。
「……どうするの?」
アカが、静かに尋ねた。
「あんな奴の言うこと、聞く必要なんてない。あたし達は、あたし達のやり方で……」
「アカ」
ヨルは、彼女の言葉を遮った。「……俺、怖いんだ」
彼は、震える声で、初めて本音を漏らした。
「あの写真の女の人みたいに……いつか、俺もこの力に呑まれて、化け物になってしまうんじゃないかって……。それが、怖い」
それは、彼の心の奥底にずっとあった、純粋な恐怖だった。
「……っ! 馬鹿なこと言わないで!」
アカは、彼の胸ぐらを掴み上げた。その瞳には、怒りと、そして、悲しみが浮かんでいた。
「あんたは、あんな奴らとは違う! 絶対に、ならない!」
「でも、もし……もし、俺が俺でなくなりそうになったら……」
ヨルは、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、懇願するように言った。
「その時は、アカが、俺を止めてくれ。殴ってでも、蹴ってでもいい。俺を、正気に戻してくれ」
アカは、息を呑んだ。
それは、「殺してくれ」という絶望の言葉ではなかった。
それは、「生きたい」と願う、魂の叫びだった。
彼女は、掴んでいた手を、そっと彼の肩に置いた。
「……当たり前でしょ」
彼女の声は、少しだけ震えていたが、そこには絶対的な覚悟が宿っていた。
「あんたが道を踏み外しそうになったら、あたしが何度だってぶん殴ってやる!」
彼女は、ヨルの顔をじっと見つめ、そして、どこか遠い目をして、小さく付け加えた。
「……本当に、あんたはあいつにそっくりだ」
ヨルは、アカのその必死な顔を見て、そして、初めて、心の底から、笑った。
「……ありがとう」
彼は、そっと、彼女の手を握った。
「契約は、まだ結ばない。でも、蓮から、情報は引き出す。俺は、もう逃げない。戦うって、決めたから」
それは、悪魔との契約ではなかった。
傷ついた二つの魂が、互いを守るために交わした、本物の約束だった。




