「人形」との対話
翌朝、午前4時50分。
選手村の居住区画がまだ深い静寂に包まれている中、ヨルとアカは指定された場所──彼らの部屋から最も遠い、地下深くにある第七訓練場の前に立っていた。
「……眠い」
アカは大きなあくびをしながら、不機嫌そうに呟いた。彼女はヨルの決断を受け入れたものの、その表情にはまだ納得しきれない色が浮かんでいる。
ヨルは何も答えず、ただ目の前の巨大な金属製の扉を見つめていた。その先にあるであろう、未知の訓練への緊張が、眠気を完全に吹き飛ばしていた。
午前5時ジャスト。重いロックの解除音と共に、扉が滑るように開いた。
中から現れたのは、昨日と寸分違わぬ純白の制服に身を包んだサクだった。
「時間通りか。入れ」
彼女に促され、二人は中へと足を踏み入れる。
そこは、想像を絶する空間だった。
壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない乳白色の素材でできており、どこまでが自分で、どこからが世界なのか、境界が曖昧になるような感覚に陥る。広さは、学校の体育館ほどもあっただろうか。
「ここは『境界模擬室』」サクが説明する。「妖力をエネルギー源とし、あらゆる戦闘環境、あらゆる敵を、現実と見紛うほどの精度で再現できる、第四課が誇る最高の訓練施設だ」
彼女は部屋の中央まで歩くと、壁に向かって声をかけた。
「プログラム・デルタ、起動。被験者ヨル。目標、生存及びターゲットの防衛。シミュレーションレベル3より開始」
その瞬間、純白だった空間に、凄まじい速度で景色が“描かれて”いく。それは、ヨルが昨夜までいた、あの薄暗い路地裏だった。
「さて、訓練を始めよう」
サクは、アカの方を向いた。
「ブラント・アカ。君は、そこの観察室から見ていろ。決して、中には入るな」
「はあ!? あたしは見てるだけだって言うの!?」
「そうだ。これは、ヨルのための訓練だ。君がいては、邪魔になる」
サクの言葉は、有無を言わさぬ響きを持っていた。アカは悔しそうに唇を噛んだが、反論できずに、指定されたガラス張りの小部屋へと入っていった。
訓練室に、ヨルとサクの二人だけが残される。
「私の理論が正しければ、君の力は『守護』の本能に直結している」
サクは淡々と語りながら、部屋の中央を指差した。
何もない空間の空気が揺らぎ、光が集束して、一つの人影を形作っていく。
オレンジレッドの髪。気の強い瞳。ヨルが昨日からずっと見てきた、その姿。
「……アカ?」
それは、アカと瓜二つの、精巧な人型ホログラム──“人形”だった。
「この訓練の目的は、敵を倒すことではない」
サクの声が、冷たく響く。
「あれを、何があっても守り抜け。それだけだ」
サクがそう言った瞬間、路地の闇の中から、数体の『妖化者』が、涎を垂らしながら姿を現した。それは、サクがかつて路地裏で切り伏せた化け物と、同じものだった。
化け物たちは、ヨルには目もくれず、一直線に、中央に立つ“アカ人形”へと突進していく。
「やめろ!」
ヨルは咄嗟に叫び、人形の前に立ちはだかった。だが、彼に武器はない。術もない。
一体目の妖化者が、巨大な爪を振りかぶる。ヨルは覚悟を決めて目を閉じた。
しかし、衝撃は来ない。
目を開けると、妖化者は彼の身体をすり抜け、その爪を、背後の人形の胸へと深々と突き立てていた。
人形は、悲鳴も上げず、ただ、驚いたようにヨルを見つめ、そして、光の粒子となって霧散した。
『ターゲット、破壊を確認。シミュレーション、失敗』
無機質な合成音声が響き渡る。
「……なんだよ、これ……」
「言ったはずだ。これはシミュレーションだと」サクの声は冷たい。「だが、君の脳は、今の光景を“アカの死”として認識した。違うか?」
確かに、心臓が嫌な音を立てていた。偽物だと分かっていても、背筋が凍る。
「続けるぞ」
サクの言葉と共に、破壊された人形が再生し、新たな妖化者が現れる。
それから、地獄が始まった。
ヨルは何度も、何度も、目の前で“アカ”が殺される光景を見せつけられた。
爪に引き裂かれ、牙に噛み砕かれ、得体の知れない妖術で溶解させられる。その度に、無機質な「失敗」の音声が響き渡る。
彼は、無力だった。偽物だと自分に言い聞かせても、蓄積されていく“死”の光景は、確実に彼の精神を削り取っていく。
観察室のアカは、壁を叩き、何かを叫んでいた。だが、その声は遮音されたこちら側には届かない。
何十回目かの失敗の後、ヨルはついに、砂利の上に膝をついた。
「……もう、やめてくれ……」
「立て」サクの声は、どこまでも冷徹だった。「君が風見蓮に告げた覚悟は、その程度か? これが偽物だから、本気になれないと? では聞くが、本物の戦場で、君は常に本気になるための“準備時間”を敵に請うのか?」
「……っ!」
「君のパートナーは、君が本気になるのを待っている間に、死ぬぞ」
その言葉が、ヨルの心の最後の壁を打ち砕いた。
そうだ。俺は、決めたんだ。
アカを守るために、何にでもなると。
ヨルは、血が滲むほど唇を噛みしめ、立ち上がった。
シミュレーションが、再開される。
今度の敵は、一体だけ。だが、その姿を見た瞬間、ヨルは息を呑んだ。
青緑色のメッシュが入った、痩身の青年──風見蓮のホログラムだった。
蓮は、感情のない瞳でヨルを一瞥すると、その姿を掻き消し、一瞬で“アカ人形”の背後に現れた。その手には、青白い光を放つ短刀が握られている。
速い。反応できない。
また、守れないのか。
蓮の刃が、人形の首筋を捉えようとした、その瞬間。
「──俺の前から、消え失せろぉぉぉぉぉっ!!!」
ヨルの魂が、叫んだ。
世界から、再び色が失せる。
彼は見た。蓮のホログラムを構成する無数の光のコード。その切っ先から放たれる、必殺の一撃を定義する、複雑な術式プログラムを。
中核は、どこだ。心臓部は。
これだ。
彼は、その一点に向けて、全神経を集中させた。
──【削除】。
次の瞬間、蓮のホログラムが振り抜いた刃が、まるで致命的なバグを起こしたかのように、虚空で霧散した。
攻撃プログラムそのものが、根源から削除されたのだ。
『……エラー。対象オブジェクトのロジックが、外部干渉により崩壊。シミュレーション、強制終了』
合成音声が、戸惑うように響いた。
世界が、元の純白の訓練室へと戻っていく。
ヨルは、その場に崩れ落ち、激しく喘いだ。鼻から、また温かいものが流れている。だが、意識は、まだ保っていた。
やったんだ。俺は、自分の意志で……。
彼の目の前に、サクが立った。彼女は、床に倒れ込むヨルを、初めて、温度のある瞳で見下ろしていた。
「……立てるか」
その声は、まだ硬質だったが、どこか、ほんの少しだけ、柔らかい響きを帯びているように、ヨルには聞こえた。




