最初の「夜」
2025年8月15日 午前3時13分
街灯が、まるで寿命を終えようとする蛍のように、道端で弱々しく明滅している。痩せた少年が、不釣り合いなほど大きな買い物袋の包みを抱え、街灯の下を疲弊しきった体で引きずるように歩いていた。
ヨル。彼の名だ。
じっとりと汗ばんだ額に、黒い前髪が張り付いて鬱陶しい。夏の夜だというのに、指先は氷のように冷え切っていた。
「早く……家に帰って、温かいシャワーを……」
家に帰りさえすれば、きっと大丈夫になる。この胸騒ぎも、背筋を這う悪寒も、全て洗い流せるはずだ。
──そう、だよな?
彼の戸惑いに応えるかのように、周囲の街灯が一斉に、音もなく消えた。世界から色が失われ、少年は闇という名の海に突き落とされる。息が詰まるような静寂。彼は怯えながら辺りを見回した。ほどなくして、再び明かりが灯る。ヨルは知らず安堵の息を漏らした。
ふと、前方に視線を戻すと、そこには人影が一つ増えていた。
女だった。
女は街灯の下に落ちた自分の影を、まるで初めて見る珍しい生き物でも観察するかのように、まじまじと見つめている。何かを確かめるように、くねり、と身体を揺らした。
非常識な時間、非常識な光景。ヨルの脳内で警報が鳴り響く。関わるな。目を逸らせ。通り過ぎろ。
少年は歩みを速め、女の横をすり抜けようとする。
「ねえ、キミ。こんな夜更けに、か弱い女の子が一人でいるのに、心配じゃない?」
背後から、蠱惑的な声が投げかけられた。思わず振り返るが、そこに女の姿はない。まさか、幻聴?
ヨルは息を呑み、何かを決意したように、勢いよく再び前を向いた。
「わっ!」
女の顔が、すぐ目の前にあった。彼は驚きのあまり、たたらを踏む。
「うそ、そんなに怖かった? ちょっと傷つくなあ」
頭がおかしい女だ、と彼は心の中で毒づいた。しかし、女はさらに一歩踏み込み、彼の顔にぐいっと自分の顔を近づける。逃げ場はない。
ヨルは、女の顔を直視せざるを得なかった。
その瞬間、彼は思考を奪われた。想像していたような都市伝説の怪人めいた顔ではない。むしろ、その逆。まるで、世界で最も繊細な筆遣いで描き上げたかのような、白玉のごとく滑らかな肌を持つ、類い稀な美貌。
僅かに吊り上がった目尻。瞳は深く艶やかな墨色で、その奥に宿る光は爛々と輝いている。しかし、その輝きは温かいものではなく、ほとんど妖しいと言っていい、人の心を惑わす鋭さを放っていた。
そして今、その美しい瞳には、恐怖に引きつる彼の表情が映り込んでいる。まるで、次の瞬間には彼を八つ裂きにしてしまいそうな、純粋な狂気を孕んで。
2025年8月15日 午前3時5分
夜は、底知れぬ深さを持つ黒いベルベットのように、この鋼鉄のジャングルを優しく、そして冷たく包み込んでいる。
彼女はその都市の頂、摩天楼の平坦な屋上に立っていた。ざらついたコンクリートの縁の向こうは、万丈の深淵だ。夜風が容赦なく彼女の着る大きなトレンチコートに吹き付け、その裾を激しくはためかせている。
彼女の眼前に広がるのは、無数の光が織りなす海。巨大な獣のように静かに潜む摩天楼たち、その億万の窓から漏れる光が幾筋もの煌びやかな川となり、ビルの峡谷を駆け巡る。遠くのネオンサインが幻惑的な色彩を放ち、夜空をサイバーパンクめいた紫と藍に染め上げていた。奇怪でありながら、息が詰まるほどの繁栄がそこにあった。
この人工の天の川が、彼女の唯一の観客だった。
そして彼女の手の中にあるものだけが、この光の海における唯一のリアル。長刀が、無造作に体の脇に提げられている。刀身は細長く、流麗でありながら致命的な線を描いていた。未だ鞘に収められているというのに、街の無数の灯りが、その冷たい鋼へと競うように流れ込む。磨き上げられた鞘の上を光が滑り、まるで街中のネオンを一本の線に凝縮したかのような、細長い液体金属の弧を描いていた。
「“奴”は現れた。お前の近くにいる。急行しろ」
ヘッドセットから、無骨な男の声が響く。
「了解」
佩刀の女はそう答えると、その声が風に消え去るよりも早く、その場から姿を消していた。
2025年8月15日 午前3時16分
「キミ、お名前は?」
女が首を傾げて尋ねる。ヨルはごくりと唾を飲み込み、震える声で言い返した。
「……あんたには、関係ないだろ」
女は目を細めて、くすくすと笑う。
「それもそうね。どうせすぐ忘れちゃうし。……ごめんね、ボク」
「私と一緒に、生きましょう」
まるで天国の舞踏会へ誘うかのように、女は少年の耳元でそう囁いた。しかし、その美しい指先は、真っ直ぐに彼の喉笛を狙っていた。
電光石火。
一筋の銀閃が、二人の間の空気を切り裂いた。
耳をつんざくような鋭い金属音と共に、長刀が寸分の狂いもなく、女の攻撃軌道上に突き刺さる。刀身は深く地面に食い込み、柄は未だ激しく震えていた。
だが、これは序章に過ぎない。
刀が放つ光がまだ消えぬうちに、その傍らの空気がぐにゃりと歪んだ。水面に小石を投げ込んだかのように、見えない波紋が広がる。女が呆気に取られた瞬間、そこに突き立っていたはずの刀が、見えざる力に引かれるように真上に引き抜かれ、代わって鬼神の如き速さの黒い影がその場に出現した。
夜の闇に咲く黒蓮の如く、凄絶な殺意と絶対的な決意をその身に纏い、人影と共に現れた刃。瞬間移動がもたらした恐るべき運動エネルギーを乗せたその一閃は、音もなく敵の急所へと奔る。その速度は、もはや肉眼で捉えられる限界を超えていた。時間と空間がこの一瞬に凝固し、ただ冷徹な刀の光と、やがて咲き乱れるであろう血の色だけが存在を許されたかのようだった。
しかし、女の顔に恐怖や驚愕の色は一切浮かんでいない。まるで、命脈の上に突きつけられたその刃が、取るに足らない装飾品であるかのように。
彼女は、刀を構えた女のことなど見てすらいなかった。
その妖しい瞳は、眼前の冷たい鋼鉄の障壁を興味深そうに越え、施しのように、少し離れた場所で必死に立ち上がろうともがく少年の上へと注がれる。少年は腹部の傷を押さえ、指の間から絶え間なく血が溢れ出ていた。その顔は雨に濡れた紙のように青白く、呼吸のたびに苦痛の喘ぎが漏れている。
「ちっ」
女は、まるで壊れかけの芸術品を惜しむかのように、軽く舌打ちをした。
そして、彼女はゆっくりと、一言一言区切るように口を開く。その声は大きくはないが、毒を塗った羽のように、その場にいる全員の鼓膜を軽やかに撫でていく。病的なまでに甘い、気遣いの声色で。視線は未だ少年に固定したまま、言葉は刀を構える女に向けられていた。
「サクちゃん……彼のこと、放っておいていいの?」
彼女は僅かに首を傾げ、唇の端を残酷で、遊び心に満ちた笑みに歪ませる。まるで面白い芝居でも鑑賞しているかのようだ。
「彼、」彼女はわざと語尾を伸ばし、相手が一瞬見せた硬直を愉しむ。「もうすぐ、死んじゃうよ?」
「失せろ」
サクと呼ばれた女は、そう吐き捨てた。
「賢明な判断ね」
女の顔に浮かぶ笑みが、さらに深くなる。彼女は悠々と一歩下がり、安全な距離を取った。すぐに逃げることさえせず、ヒーローに軽薄な投げキッスを送った。
その体は亡霊のように後方へ跳躍し、数度の跳び移りで、背後の深い夜の闇に完全に溶け込んでいった。まるで、初めからそこに誰もいなかったかのように。
2025年8月15日 午前3時20分
「クソッ、俺、死ぬのか」「痛い、痛いっ」「なんで俺なんだよ、クソが!」
彼は心の中で叫んでいた。喉からは、もう声らしい声は出ない。
「大丈夫。私が助ける。名前を教えて」
女の声が聞こえた。その声は冷静で、揺らぎなく、まるで鎮痛剤のように心を落ち着かせる響きを持っていた。
「ヨル。……助けて、くれ」