雨宿りと対話
梅雨というのは、相変わらず僕の肌にまとわりつく。ジメジメとした空気は、まるで肌に薄い膜を張ったように僕を包み込み、制服は朝からしっとりと重い。学校の廊下を歩くたび、布が皮膚にへばりつく感触が気持ち悪くて、何度も背中を丸めた。それでも、あの神社へ向かう足は、以前のような億劫さを感じなくなっていた。むしろ、少しばかり軽やかになっている気さえする。あの雨宿りの日から、僕の日常は、ほんの少しだけ変わったのだ。
6月の半ば。空は、まるで神社の屋根に定住したかのように、毎日毎日降り続いていた。おかげで僕は、ほとんど毎日、学校帰りにあの古びた神社に立ち寄るようになった。傘を閉じ、鳥居をくぐる。ひんやりとした湿った空気が、肺いっぱいに吸い込まれる。それが、僕の心を落ち着かせる合図になった。
そして、そこに彼がいる。いつもと同じ、深い緑のポンチョを被り、社の柱に静かに寄りかかっている。彼は決して、僕が来るのを待っている素振りは見せない。ただ、そこにいる。それなのに、僕が傘を畳み終える頃には、いつも決まって、あの静かな声が響くのだ。
「……また来たね、紳助」
顔は見えないけれど、その声は僕の耳にすっと馴染んで、もう初対面のぎこちなさはなかった。僕が「うん」と頷くと、彼は何も言わずに、僕の隣に立つことを許してくれる。僕たちは、いつもそうやって、雨音の中で時間を過ごした。
最初こそ、何を話せばいいのか戸惑った。だけど、雨男は僕の話を急かすこともなく、ただ静かに耳を傾けてくれる。その心地よい沈黙が、不思議と僕の言葉を引き出してくれた。学校で起きた他愛もないこと。クラスの女子が飼っている犬の話で盛り上がっていたこと。数学のテストが思ったより難しかったこと……。雨男は多くを語らない。ただ、僕の言葉に雨音がぽつりぽつりと相槌を打つように響いている。それでも、彼は僕の話を聞いてくれている、という安心感があった。
ある日、僕は初めて、自分の「好き」を彼に打ち明けた。
「……僕、音楽が好きでさ。特に、ロックバンドの曲をよく聴くんだ」
そう言うと、雨男のポンチョの奥から、わずかに吐息のようなものが聞こえた気がした。
「音楽、ね」
彼が静かに呟いた。
「雨の音も、音楽のようなものだ。屋根を叩く音、水たまりに落ちる音、葉を揺らす音。それぞれに違う楽器が、違うリズムを刻んでいる」
「そう言われると、確かに。ザーッと降る時と、パラパラ降る時とじゃ、全然違うし」
僕が相槌を打つと、雨男は続けた。
「まるで、静かなオーケストラのよう。君の好きなロックとは、対極にあるかもしれないが、どちらも人の心に響く力を持っている」
「ふうん。雨の音がオーケストラか……。雨男らしい発想だね」
僕は少し笑った。彼の言葉は、常に僕の感覚のさらに奥を突いてくるような響きがあった。
僕と雨男の関係が深まるにつれて、僕の中には別の感情も芽生え始めていた。それは、啄木鳥琢磨、僕の親友に対する、ごく漠然とした違和感だった。
啄木鳥は、僕にとって特別な存在だった。小学校の頃、僕と啄木鳥は似た者同士だった。集団行動に苦手意識を持ち、クラスの隅で二人で本を読んだり、携帯ゲームをしたりする方が性に合っていた。しかし、中学に進級してからの啄木鳥は、まるで違う人間になったかのように変わった。彼は瞬く間に友達を増やし、誰とでもすぐに打ち解けることができるようになった。いつも明るく、気遣いができて、周りを笑顔にするのが得意な彼は、クラスの中心的な存在になっていった。人から好かれ、輪の中心にいる彼を見るたび、僕とは違う華やかな世界で生きているのだと感じていた。そんな彼が、今もこうして僕の親友でいてくれることに、僕は感謝と、ほんの少しの不思議さを感じていた。
ある日のことだった。下校途中、いつものように傘をさして歩いていると、前から歩いてくる人影に気づいた。僕と同じ中学の制服。まさか、啄木鳥だ。彼は僕を見つけると、少し驚いたように目を見開いた後、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。彼の周りには、いつものようにクラスの賑やかなグループがいた。彼はその中心で、軽口を叩きながら笑っていたはずなのに、気づけば僕の目の前に立っていた。
「お、紳助じゃん! こんな雨ん中、どこ行くんだよ、水も滴るいい男ってか? ははっ!」
いつもの、人を惹きつける明るい声と、僕をからかうような軽口。周りの友達も、彼の言葉に笑い声を上げた。僕たちは自然と、彼のグループと合流する形になった。
「ん、ああ、ちょっと、寄り道。別に面白くもないとこだけど」
僕は反射的に口ごもった。雨男のことは、誰にも言いたくなかった。特に、友達が多い啄木鳥には。彼の口が軽はずみでないことは、僕が一番よく知っていた。
「へえ、珍しいな。紳助がこんな雨の日に寄り道なんて。最近、放課後すぐに帰るようになっただろ? もしかして、なにか面白いことでも見つけたとか?」
彼の問いかけは、普段の親友同士の他愛もない会話の範疇だった。だけど、その笑顔の奥に、ほんのわずかだけ、いつもとは違う興味が感じられた。まるで、僕の言葉の裏に何か隠されているのではないか、と探っているかのように。それは、警戒するほどの強いものではなかったが、僕の心の片隅に、小さな引っかかりを残した。
「な、何言ってんだよ。そんなんじゃないって。ただ、ちょっと本屋に寄りたいだけだよ」
僕は曖昧に答えて、はぐらかした。啄木鳥はそれ以上は突っ込まず、「ふうん、そっか」とだけ言って、またいつものように周りの友達と話始めた。だけど、僕の心臓は、少しだけ、いつもより速く脈打っていた。
雨男に、その時のことを話す。
「啄木鳥、最近、僕のこと気にしすぎなのかなって。別にやましいことなんてないんだけど、妙に探られると、なんか変な感じがしてさ」
僕は苦笑いしながら言った。あの時の啄木鳥の目の奥にあった、何とも言えない好奇心と、少しだけ僕の行動を気にするような視線が、今も引っかかっている。彼は本当に、ただ僕の近況が知りたかっただけなのだろうか?
雨男は、何も言わなかった。ただ、雨音だけが、ぽつりぽつりと僕の言葉に相槌を打つように響いている。その沈黙が、かえって僕の中の漠然とした不安を浮き彫りにするようだった。僕が啄木鳥への違和感を打ち明けた時、雨男のポンチョの奥から、再び微かな吐息のような音が聞こえた気がした。それは、同情とも違う、まるで深い知識を持つ者が発するような、静かなため息にも似ていた。
「……友達、ね」
雨男が、静かに呟いた。
「それは、傘のようなものだ。雨が降る日に、一人でいると濡れてしまう。だから、誰かが傘をさしてくれる。あるいは、一緒に一つの傘に入る」
僕の呟きに、雨男の肩がごくわずかに揺れたような気がした。いつもの静かな佇まいの中に、一瞬だけ、微かな動揺が見えたような。
「うん、まあ、そう、だね」
僕は少し考えて、相槌を打った。
「でも、傘は、時々、風に煽られて裏返ることもある。あるいは、いつの間にか穴が開いていて、気づかないうちに濡れていることもある」
低い声が、雨音に溶けていく。その声には、微かな寂しさが滲んでいるように感じられた。それは、まるで自分自身の記憶を辿るような、遠い響きだった。彼の言葉の奥には、僕が知りえない、もっと深い孤独が隠されているような気がした。
「……そんなこと言ったら、友達なんて信じられなくなるじゃん」
僕が少しだけ苛立ったように言うと、雨男は静かに首を振った。
「そうではない。傘は、それでも雨を凌ぐためのものだ。裏返っても、穴が開いても、直せるものなら直せばいい。新しい傘を見つけることもできる。ただ、傘は、雨そのものではないということだ」
「……傘は、雨そのものではない」
僕は彼の言葉を反芻した。なんだか、深いようで、それでいて煙に巻かれているような、不思議な感覚だった。
「僕、啄木鳥のこと、親友だって思ってるんだ。多分、啄木鳥もそう思ってくれてるはず、なんだけど……」
なぜか、そこから先は言葉にならなかった。僕の中で、啄木鳥に対する信頼と、彼の行動へのわずかな疑問、そして何よりも、彼を失いたくないという未練が、静かにせめぎ合っていた。雨男は、僕の沈黙を急かすことなく、ただ静かに寄り添ってくれた。その無言が、かえって僕の心を深く癒やしてくれるようだった。この神社では、学校での小さな悩みも、啄木鳥への複雑な感情も、全てが雨音の中に溶けていくような気がした。まるで、僕の感情の澱を、雨が洗い流してくれるかのように。
雨男と話していると、僕はいつも、自分でも気づかなかった気持ちに触れることができる。啄木鳥へのもやもやも、ここで話すと少し軽くなった。彼にはどんなことでも話せるような、確かな信頼感が芽生えていた。
梅雨の期間が、ゆっくりと終わりを迎えようとしていた。毎日神社に通ううちに、僕は雨男との会話を通して、自分自身と向き合うようになっていた。彼の言葉は、直接的なアドバイスではない。だけど、彼が僕の話を聞き、時折口にする短い言葉の端々から、僕はこれまで気づかなかった自分の感情や思考の癖を見つけることができた。
「紳助は、『大丈夫』ってよく言うね」
ある日、彼がぽつりと言った。
「そうかな?」
僕が首を傾げると、彼は続ける。
「そう。まるで、傘をさして、『濡れてないよ』って見栄を張っているように。でも、本当は大丈夫じゃない時も、そう言ってる気がする。……心の奥に、何かを隠している時に」
ドキリとした。まさに、啄木鳥に対する複雑な感情を抱えながらも、彼にそれを悟られないように「大丈夫」と振る舞っていた僕の心理を見透かされているようだった。彼の言葉は、まるで僕の心の表面を覆う薄い膜を、そっと剥がしていくようだった。
「心に溜まった雨粒は、誰かに話すと少しは軽くなる。でも、本当の雨が降らないと、土には染み込まないだろう? 土壌が乾いたままじゃ、何も育たない」
彼は静かに続けた。
「強い雨音は、弱い音をかき消す。でも、雨が弱まると、隠れていた小さな音が聞こえてくる。……君の心も、そうなんじゃないかな。無理に隠さなくても、いつか、その音は聞こえる時が来る。それが、君を育てる水になる」
その言葉が、僕の心に深く染み込んだ。僕はこれまで、自分の不安や弱さを、友達にさえ見せまいとしてきた。それが、僕なりの「大丈夫」だった。だけど、雨男は、その隠された部分をそっと拾い上げてくれた。僕の弱さも、戸惑いも、全部包み込んでくれるような、そんな存在だった。
この神社は、雨音に包まれると、まるで外界から切り離された秘密の場所になる。僕と雨男だけの、特別な空間。ここでは、学校での小さな悩みも、啄木鳥への複雑な感情も、全てが雨音の中に溶けていくような気がした。まるで、僕の感情の澱を、雨が洗い流してくれるかのように。彼の存在は、僕にとって「理想の友達」の象徴になっていった。彼には、どんな自分でも受け入れてもらえる。そう、確信できた。梅雨のじめじめとした鬱屈した気分も、雨男との時間があるおかげで、以前ほど嫌ではなくなっていなかった。むしろ、雨が降ることが、彼に会えるチャンスを意味するようにさえ感じていた。
そうして、どれくらいの時間が流れただろう。雨が少し弱まってきたのを感じて、僕は顔を上げた。社殿の屋根から滴る雨の粒が、木の床に規則的なリズムを刻む。まるで、過ぎゆく時間を示す時計の音のように。
「……そろそろ、帰るね」
「うん。……また、雨の日に」
いつもの言葉が返ってきた。その日も、彼は振り返らなかった。振り返らずに神社を後にする僕の背中を、雨男の視線が追っているような気がした。
帰路につく途中、雨は小降りに変わっていた。アスファルトに残る水たまりは、街灯の光を鈍く反射して、街の景色を逆さまに映し出す。道端の紫陽花が、雨の雫を弾いてきらめいている。花びらの上を滑り落ちる雫が、まるで小さな涙のようにも見えた。湿った空気が、僕の頬を優しく撫でる。濡れたスニーカーが、水たまりを避けるたびに、控えめな音を立てる。その一つ一つの音が、雨男との会話の余韻と重なり合って、僕の心に静かに響いていた。
僕の心には、雨男の言葉が確かに残っていた。「また会う」という、未来を約束するような彼の声。それは、雨音のように静かで、深く、僕の胸に染み込んでいた。まるで、僕の心の奥底に、新しい芽吹きがあったような、そんな穏やかな確信があった。
遠くから雷鳴が聞こえた。梅雨の終わりを告げるような、夏の訪れを予感させる音。その音は、これまでの静かな雨音とは異なる、どこか力強い響きを持っていた。
翌日、学校は休校になった。激しい雷雨に見舞われたからだ。
僕は一日中、部屋の窓から外を眺めていた。土砂降りの雨音が、僕の心のざわめきとシンクロする。雨男に会いたい。彼の静かな声を聞きたい。そう願う自分がいる一方で、心の片隅には、啄木鳥の存在が小さな引っかかりとして残っていた。彼の**「もしかして、なにか面白いことでも見つけたとか?」**という、たった一言の問いかけが、僕の日常に少しずつ影を落としているように感じられた。それは、単なる友人の気まぐれな好奇心なのか、それとも……。
その夜、携帯が震えた。啄木鳥からだった。
『紳助、明日は晴れるらしいぞ』
たったそれだけのメッセージ。だけど、僕は背筋が凍った。天気予報なんて、テレビを見れば誰でもわかることだ。なのに、なぜわざわざ僕に送ってきたのだろう? まるで、僕の行動を知っているかのような、奇妙な暗示のように感じられた。彼のメッセージは、温かい期待ではなく、僕の日常に、何か不穏な変化が訪れることを告げるかのようだった。
雷鳴が、再び遠くで鳴り響いた。今度は、もっと近く、もっと強く。梅雨の終わりを告げるような、夏の訪れを予感させる音。だけど、その音は、僕にとって、希望ではなく、まるで嵐の到来を告げるかのようだった。僕の日常に、何かが起こり始めている。そして、それはきっと、**「晴れた日」**に始まるのだ。空の様子と、僕の心のざわつきが、不穏な静けさの中で重なり合っていた。