5-①.紫立ちたる雲
赤塚が解放される日の早朝、伸びた前髪を軽く分け、顔の左半分を覆う黒い眼帯をつけ、赤塚がまだ寝ているのを確認してまだ薄暗い町へと駆り出す。
「春はあけぼの」と昔誰かが言ったそう。その文章では、少しづつ白む山と山際の空のほのかな明かりの中、紫がかった横雲のたなびく優雅さを讃えたものだった。
この神奈川県には山らしい山はほとんど無いし、あったとしても等間隔に立ち並ぶ住宅や、向こうにそびえ立つビル群で山際の光なんて見れないのだろう。
しかし、この紫がかった空だけはいくら物が建とうとも上を見上げれば見ることができる。
約四十年前、青という色が消えたように、この色もいつかは消えてしまうのだろうか。そうなるのは嫌かもしれない。
紫といえば、あの面倒くさがりの彼は元気だろうか。最近、「上層部に怒られた。お前少しは人に厳しくしろ」と小言を言われた。
個人的には充分冷徹に接しているつもりなのだが、上層部はそう思わないらしい。
威圧感を出すためには、やはり身長を伸ばすしかない。だがこの歳になってまだ一五〇cm台……諦めるしかないのか?
そんなどうでもいいことを考えていると、信号に捕まってしまった。
一旦足を止めると途端に重りを付けられたように足が上がらなくなるのは知っていたから、足踏みをしながら緑になるのを待っていた。
「あれー、黄田くんじゃん。こんな朝からランニングなんて偉いねー」
そう横に並んできたのは今まで共に過ごしてきた大学生、土生彰宏。
珍しくパーカーのチャックを閉め、手をポケットに突っ込んでいる。手首にはレジ袋がかけられており、うっすら中の菓子パンが見えている。
共に過ごしたと言っても、せいぜい二、三週間程度の付き合いだ。それでも、彼がいなかったら今日までの日々は苦痛であっただろう。
黄田飛耀は少しばかり気まずそうな顔で土生を見上げる。
「いや、半分趣味みたいなものですから、偉くもなんともありませんよ」
「こんな小さいのに謙遜なんて覚えちゃって……最近の子ってみんなそんな感じなの?」
「赤塚くんに爪の垢を煎じて飲ませたいよ」と言われ思わず笑い声が漏れてしまう。確かにあいつは呆れるほど愚直で心配だ。いつか目上の人に対して失礼な物言いをしてしまいそうだ。
気づけば足は止まり信号は赤と緑を交互に繰り返していた。
出発した時は向こうのビルに隠れていた朝日も、今は目の前の彼の黒髪を柔らかい橙で照らしていた。
「――あ、もう六時になりそうなので僕は帰ります。もう会えないかもしれませんが、また会えたらゆっくり話したいです」
ふと時間を確認すると時刻は五時五十三分を示していた。あいつは無駄に健康的だから、六時十五分くらいにいつも起きている。
後ろ髪を引かれながらも早足でその場を立ち去ろうとすると、待ってと土生に止められた。
「会えないかもなんて水臭い。これ俺の番号だから、気が向いたら連絡してよ」
そう小さなメモ用紙を握らされる。メモには〇九〇から始まる番号が書かれていた。
最初から最後まで詳しいことはよく分からない人だった。
だが、それが逆にまた会いたいと思う理由になっていた。
あとで電話帳に追加しておこう、そう思いながら今度こそ朝日を背に煌高へと走っていった。
*
「前髪下ろしてる……」
「似合わないだろ。知ってるよ」
結局、煌高の寮についたのは六時半の少し前であり、赤塚賢斗は解放されるのが余程嬉しいのか、もう煌高の制服に着替えていた。
「いや、結構似合ってると思うけど。そっちの方が年相応って感じがする」
年相応というのは誉められているのか、貶されているのか……まあ、今日くらいは見逃してやろう。
「これ、土生さんの電話番号。気が向いた時に連絡して良いってさ」
書かれていた番号をサッと自分の電話帳に追加し、メモを赤塚に渡す。
やったーと喜ぶ赤塚だったが、一瞬で固まってしまう。
わざとらしくスラックスのポケットを裏返すと、「携帯も没収されてるんだった」とバツの悪い顔で言う。
まあ。まあ、それなら仕方がないか。そうだ、仕方がない。
今日くらいは優しくしてやろう、メモを奪い裏側に自分の番号を書きまた返す。
「悪用したら殴るからな」
「やっぱお前優しいよ」
にやにやと意地の悪い顔で黄田を見つめる赤塚に一つデコピンを食らわせ、最後となる料理を始める。
なんだかんだ悪くない数週間だった。少し騒がしかったが、本来自分が中学校に行っていたら、普段からこんな感じなのだろうか。
いつの間にか手が止まっていた自分に喝を入れ、せっせと作り続ける。
心残りはない。あくまで監視対象だ。この先を案じなんてしない。
『――赤塚賢斗がどうなるかって? そりゃ今後も教会の監視対象のままで、アレが発現するまでは手厚くされるだろうな』
『じゃあ、アレが……聖火が覚醒したら、あいつはどうなるの?』
『お前は気にしなくていい。飛耀みたいな子供の教育に悪いような、そんな仕事なんだよ』
「おい黄田、こっち見てどうしたんだよ。何かゴミでもついてんのか?」
何でもないと顔を下げ、野菜を切っていく。
トマトの切る場所を見誤り、まな板に赤みがかった汁が流れていった。
次回投稿は来週1月11日です。




