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──僕は、君が好きだ。
授業が始まるのを待ちながら、僕は自分で雪音に対して言った言葉を頭の中で繰り返していた。
あのとき雪音は、ただ「ありがとう」と言って僕の腕の中に飛び込んできた。
あれは、雪音も同じように思っていると受け取っていいのだろう……か。
うん。
いいんだよな、きっと。
「どうした? 最近妙に楽しそうだな」
「え?」
「一人でぶつぶつ言いながらにやついて」
博樹が気味悪そうに声をかけてきた。
「ぶつぶつって、僕、独り言なんか言ってたかな?」
「ああ。ここ最近、ずっとそんな感じだ」
高校時代からの友人の博樹は僕と違ってそれなりに社交的な性格だが、地元がいっしょなせいか不思議と気が合った僕たちは、大学に入った今でもこうして友人関係が続いている。
「原因は、最近噂の彼女か?」
僕の前の席に後ろ向きで座りながら、博樹は僕を冷やかし続ける。
「噂?」
「ああ。あの七海に女ができた、って評判だぞ」
「そ、そうなのか?」
「まぁ、いいじゃないか。みんなそういう噂話が大好きなんだよ」
「なんか、恥ずかしいな」
そうは言ったものの、悪い気はしなかった。
「そうそう、噂と言えば」
「ん?」
博樹は、後ろを振り返りながら話を続けた。
「大輔と明日美、付き合ってるんだってさ」
「え? 大輔が?」
僕はてっきり、大輔は美香に気があるんだと思っていた。
大輔と美香。
共に成績優秀、容姿端麗といった共通点から、勝手に結び付けていたのだけれど。
「ふーん……」
不思議なくらい、今の僕にとってはどうでもいいことに思えた。
劣等感と言うのは、自分さえ幸せになってしまえば感じなくなるものなのかもしれない。
授業を終え、教室を出た僕は、階段の踊り場で美香と出くわした。
「あ、七海くん」
「美香」
もう、すっかり美香とは会話が少なくなっていた。
「……七海くん、あの女の子と付き合ってるんだって?」
「女の子……雪音のこと?」
「そう、雪音ちゃんって言うんだ」
美香にも、その噂は伝わっていたのか。
「……ねぇ。あの子のどこがいいの?」
「え?」
「あの子のどこが好きなの?」
「急に何言い出すんだよ」
美香は、何だか様子がおかしかった。
「どうして……。七海くん、私のことが好きだったはずでしょ!? どうしてあんな子に……!」
「美香、どうしたんだよ? 急に何を……」
「どうして? どうして私じゃないの? 私は……!」
美香は、何かを見つけたのか、突然言葉を止めた。
僕は、美香の視線の先を探った。
そこには、大輔と明日美がいた。
「美香……。どうして、そんなこと言うんだよ?」
「私は……」
「……好きな男が、他の子と付き合い始めたから?」
「……!」
そうだ。
僕は知っていた。
僕はずっと、美香だけを見ていたから。
美香の視線が、僕になんて向いていないことを。
その視線の先に、いつも誰がいたのかも。
「どうして!? どうして私じゃないの!?」
「美香……」
美香がこんなに辛そうな顔をしているのを見るのは、初めてだった。
「七海くん」
「……何?」
「……今だったら、七海くんと付き合ってあげてもいいわよ」
「な、何言ってるんだよ……!」
「七海くん、私のこと好きだったんでしょ? その私が付き合ってもいいって言ってるのよ?」
「いい加減にしてくれ!」
僕たちの大声を聞いた他の学生たちが、何事かと好奇の眼差しを向けているのが痛いほど分かった。
「今の美香は、僕の好きだった美香じゃない。僕の好きになった美香は……」
「七海くん!」
突然名前を呼ばれ振り返ると、遥美が息を切らして立っていた。
「遥美、どうしてここに?」
遥美は、青ざめた顔で僕の腕をつかんだ。
「雪音ちゃんが……」
「雪音がどうしたんだ?」
「雪音ちゃんが、いなくなったの!」
遥美の突然の言葉に、僕は何が起きたのか受け入れられなかった。
「どういうことだよ、ちゃんと説明してくれ」
「今日部屋に帰ったら、これが……」
遥美は、握りしめていた左手を差し出した。
「……手紙?」
僕は、くしゃくしゃになったその手紙を開いた。
──遥美ちゃん、短い間だったけど、ありがとう。七海のこと、よろしくね。
「これは……! 遥美、一体何があったんだ?」
「分からない! でも、きっと雪山に……!」
「遥美……もしかして知ってたのか、雪音の……」
「きっと、私のせいだわ」
突然、隣の美香が口を開いた。
「私、前に聞いちゃったの。七海くんとあの子が、あの子の正体について話してるのを。……『雪女』だって。もちろんすぐには信じられなかったけど……。彼女と七海くんが雪の中を飛んでいたのを思い出して、もしかしてホントに、って……」
美香は、明らかに感じ取れる動揺を示していた。
「こないだ偶然彼女に会ったときに、そのことを問い詰めたの。『私は、あなたの正体を知ってる』って」
何てことだ。
遥美だけじゃなく、美香まで気付いていたなんて。
「だけど、どうしてそれが雪音がいなくなる理由になるんだよ?」
「あの子、正体を知られても驚くくらい冷静だったの。『私は春になれば消えてしまう。だからこの短い一生を、七海といっしょに過ごすんだ』って」
「春になったら……消える……!?」
そう言えば、以前僕も聞いたことがあった気がする。
あの時は、まだ雪音が雪女だということさえ信じていなかったから、半分聞き流していたけれど。
「たしかに、雪音ちゃん、私にも話してくれたわ。自分は、冬の間しか生きられない、って」
遥美が、思い出すように呟いた。
何も聞こえないかのように、美香は話を続ける。
「私、あまりに真っ直ぐなその態度が何だか悔しくて、思わず言っちゃったの。『あなたにとってはそれが一生でも、七海くんはこれからの人生を、あなたを失った悲しみを背負って生きていくのよ。あなたはすぐに、七海くんの前から消えるべきだ』って」
「何だって!?」
「ひどい……どうしてそんなこと……」
呟きながら、遥美は美香を睨み付けていた。
「行かなきゃ……」
「行くってどこに」
「決まってるだろ、雪音を探しに行くんだ」
「あの雪山に? どうやって見つけるのよ!?」
「分からない……だけど、このまま放っておけないよ」
「どうして? 人間の女の子なんていくらでもいるじゃない! どうして彼女一人のためにそこまで……!」
僕は、美香を見つめて答えた。
美香が涙を流している姿を、僕はそのとき初めて見た。
「たくさんの人に愛されてきた美香には、きっと分からないよ。たった一人の人に愛されることが、どれだけ幸せなことなのか……」
「たった一人……」
「それに、美香が教えてくれたんじゃないか。『丁寧に書いたノートのほうが、後で読み返したときに気持ちいい』って。僕は、いつか雪音と別れる日が来ても、今という時間を振り返ったときに後悔なんてしたくない」
だから、僕はもうこれ以上、大切なものから目を反らすわけにはいかないんだ。
「……行ってくる」
「あ、待って、七海くん! ホントは、七海くんには言わないでほしい、って言われてたんだけど……」
「雪音から?」
「うん。私も疑い半分で聞いてたし……」
「……何を?」
「雪女の話の結末、知ってるでしょ?」
「ああ。自分と会ったことを話してしまった男を殺せずに、雪の中へ消えて行く、ってやつだろ?」
「そう。だけど……」
「それがどうしたの?」
遥美は、意を決したように深呼吸してから続けた。
「あの話には、続きがあるの」
雪女の話の……続き?
どういうことだ?
あれは、ただのおとぎ話じゃないのか?
遥美は、静かに語り始めた。
雪女の伝説の、もう一つの結末を。