5
昔々、雪深い山奥に、木こりの親子がいました。
ある吹雪の日、家に帰れなくなった二人は、近くにあった山小屋で夜を明かすことにしました。
その夜、顔に降りかかる雪の冷たさに息子の木こりが目を覚ますと、そこに真白い装束を着た、美しい女がいました。
その女が、横でまだ眠っている父親の木こりに息を吹きかけると、父親は瞬く間に冷たくなり、死んでしまいました。
女は怯えて震える息子の木こりにもその冷たい息を吹きかけようとしますが、しばらく息子を見つめた後、静かにこう囁きました。
「あなたもあの男のように殺してしまおうかと思ったけれど、あなたはまだ若い。だから、助けてあげましょう。しかし、今夜のことを決して人に話さないと約束して下さい。もし話せば、すぐに私はあなたを殺しに来ます」
そう言うと、女は吹雪の中へ消えて行きました。
数年後、木こりは美しい「お雪」という名の女と出会い、二人は結婚しました。
二人の間には十人の子どもが生まれ、幸せに暮らしていました。
ある日、木こりはお雪に昔の話をし始めます。
「実は、私は昔、雪山で不思議な女と会ったのだ。その女は、私の父親を凍り付かせて殺してしまうと、そのまま吹雪の中へ消えていった。あれは夢だったのか、それとも……」
そこまで話して木こりがお雪のほうを見ると、お雪は悲しそうに木こりを見つめながら話し始めました。
「その時あなたが会った女、それは私です。私はあの時、あの夜のことを人に話したら、あなたを殺すと言いました。どうして……どうして話してしまったのですか」
木こりは、驚いてお雪を見つめ返します。
「でも……私たちの子どもたちの寝顔を見ていると、とてもあなたを殺すことなんてできません。けれど、私はもう行かなくてなりません。どうか、子どもたちのことを、よろしくお願いします……」
そう言うと、お雪はあの夜と同じように、吹雪の中へと消えていきました。
「あれ?」
僕は、幼い頃に聞いた雪女の話を、もう一度読み返していた。
朝一番で図書館へ行き、児童書のコーナーから借りてきたのだ。
やっぱり、雪女は恐ろしい妖怪として描かれている。
けれど、どこか悲しい終わり方だ。
「これで終わりだったっけ?」
たしかに本はそこで終わっていたが、何かしっくりしない気持ちだった。
なぜか、その話の結末に違和感を感じていた。
「うーん、でも、たしかにこんな話だよなぁ。……ってもうこんな時間か」
僕は本を閉じ、コタツの上に置いた。
雪音との約束の時間が近付いていることに気付き、駅へと向かうためにコートを着て家を出た。
真冬の澄んだ空気に彩られた街は、互いの温もりを求めて寄り添う人々で溢れている。
そんな雰囲気がいつも以上に体を凍えさせる気がして、僕は肩をすくめた。
駅へ着くと、すでに雪音が待っていた。
「あ、七海、おはよう!」
「う、うん、おはよう。あれ、その服……」
「あ、これね、遥美ちゃんから貸してもらったの。へへへ、似合う?」
そう言うと雪音は、くるっと一回転しながら、遥美に借りたという白いダッフルコートに薄いブルーのマフラーを自慢気に僕に見せつけた。
「うん……」
まるで、中学の頃に、学校の外で初めて私服姿のクラスメイトに会ったときのような気分だった。
どうしてこんなにドキドキしてるのだろう。
「それで、どこに行きたいの?」
もしかして顔が赤くなってるんじゃないかと不安になって、僕は頬をこすって誤魔化しながら聞いた。
「えっとね、海が見てみたい!」
「海?」
「うん! ずっと山奥に住んでたから、見たことないんだ」
「海かー。じゃあ、横浜にでも行こうか」
「ヨコハマ?」
「うん、海が近くて、すごくオシャレな街だよ」
「よし、じゃあそこに行こう! 振ーりー向ーけばヨコハマ~」
「……雪音、絶対ヨコハマ知ってるでしょ……」
僕らは、電車に乗って横浜を目指した。
白いコートを纏って、僕の前に現れた雪音。
僕は雪を待ち焦がれていた子どものように、隣を歩く雪音の存在に胸が高鳴っていることに戸惑った。
新宿と渋谷を経由して一時間ほどでみなとみらいへ辿り着いた僕たちは、そこからさらに歩いて海の見えるデートスポットへと向かう。
普段歩いている街以上に、カップルの数は格段に多い。
ベタなコースだが、僕自身デートの経験なんて無いのだから仕方ない。
「うわー! すごい! どこまでも水がいっぱい!」
「あはは、そりゃまぁ、海だからね」
太陽を映して輝く水面に、雪音は夢中で目をこらしている。
あまりにも素直に感動するその姿に、何だか僕もすごく楽しい遊びを見つけたような気分になってきた。
「すごいなぁ、初めて見たよ」
「ホントに?」
「うん、だって、私の住んでる山奥は、水なんてすぐ氷になっちゃうし」
不思議な気分だった。
まるで普通の友達のように話しているけれど、雪音は、自分が「雪女」だと言っているのだ。
最初はとても信じられなかったが、一瞬で大雨を雪に変えた魔法のような力や、雪空の中を僕を連れて飛び回った姿を見て、疑いの気持ちがキレイに消えた訳ではないけれど、それでも信じないわけにはいかなかった。
「すごいなあ、海……。ずっとこうして見ていられたらいいのに……」
雪音は、なぜか淋しそうに呟いた。
「……ずっと、いたらいいじゃないか」
「え?」
無意識に口にした言葉に、僕は自分自身で動揺してしまう。
けれど、本当にそう思った。
「いつまでも、ずっとここにいたらいいじゃないか。あんな寒い場所になんて帰らずに、ずっと……」
そばにいてほしい。
出逢ったばかりなのに、そんなことを願っていた。
「七海……」
微かに笑いながら、雪音は再び遠くを見つめた。
「うん……でも……」
「でも?」
「……ううん、何でもない」
雪音は、一瞬うつむいた顔を上げて言った。
その姿に何かを言いかけたけれど、思わず吸い込んだ空気がとても冷たくて、言葉にならなかった。
遊覧船に乗ったり、赤レンガで買い物をしたりして一日を過ごした僕らは、辺りも薄暗くなってきた頃、海の見えるベンチに座った。
「他には、どこに行きたいの?」
「そうだなぁ。なんだか、一生分楽しんじゃった感じだよ」
「もう? 一生って、大げさだなぁ。まだ一日しか遊んでないじゃないか。行きたいところ、たくさんあるんだろ?」
「うん! でも……」
水平線の向こうを見つめながら、雪音は呟いた。
「ホントはね、どうしても見たいものがあるんだ」
「何?」
「笑わない?」
「分かんないよ、聞いてみないと。面白かったら笑うかも知れないし」
「じゃあ言わない」
「じゃあ笑わない」
「もう、何よそれ? 人が真剣に言ってるのに」
お互いの顔を見ながら笑い合う、僕と雪音。
ドラマや小説で描かれているような、こんな楽しい気持ちを自分が経験するなんて、少し前までは思いもしなかった。
雪音は、遠くを見つめながら呟いた。
「……桜、見てみたいんだ」
「桜?」
「うん、桜。海といっしょでね、一度も見たこと無いんだ、桜の花」
「ふーん。あ、桜なら、うちの大学、桜の名所なんだよ」
「ホントに?」
「うん。正門からキャンパスに続く桜並木道、すごくキレイなんだよ。一般にも公開されてるから、近所の人とかもよく来てるし」
「そうなの? 見てみたいなぁ」
雪音は、子どものように目を輝かせながらそう言った。
「あ、でも……。まだ冬だから、春にならないとね」
「春?」
「うん。桜は、春の花だから」
「そっか……」
「春になったら、いっしょに見に行こうよ。連れて行ってあげるから」
「……うん、そうだね……」
雪音はとても嬉しそうに微笑っていた。
夕日に映えたその横顔を見つめながら、僕は、なぜか雪音がこのままあの水平線の向こう側へ消えてしまうような不安を感じた。
ただ強く、雪音がこの風にさらわれてしまわないように。
強く、強く、願っていた。