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桜吹雪のシュプール  作者: 七咲ひろむ
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読み終えた本を閉じ、枕元に置く。


もう何年、いや、何十年経ったのだろう。


雪音は、まるで夢だったかのように僕たちの前から消えてしまった。


やがて大学を卒業した僕らは、それぞれの道を歩き始めた。


幼馴染みの遥美は、出版社に就職した。


本が大好きだった彼女にとっては天職だったと、僕は思う。


それからしばらくして、彼女からの薦めで僕は雪音との思い出を一冊の本にした。


この本、「桜吹雪のシュプール」は瞬く間にベストセラー、とは行かなかったが、僕にとって、世界一大切な本となった。


今思えば、それで良かったと思う。



あれから長い年月が過ぎ、僕はすっかり年をとった。


高齢社会の進行に伴って、あの頃僕たちが暮らした町にも、今では老人介護施設が建てられている。


僕は、数年前からその施設へと入居した。


自分の通っていた大学の近くということで愛着もあったし、何よりここにいれば、いつか彼女に会えるんじゃないかという淡い期待も、心のどこかにあったのかもしれない。


人は、きっと僕のような老人のことを孤独だと憐れむのだろう。


けれど、僕は自分では決してそう思ったことはなかった。


僕の心にはいつでも雪音との思い出が宿っていたし、毎年、彼女と出会った冬が訪れるたびに、いつか彼女が帰ってくるんじゃないかという感覚に心が温められていたからだ。


ただ、それももう長くはないことが、僕には分かっていた。


窓の外、真っ白に彩られた景色を眺めながら、僕は彼女のことを思い出していた。



雪音。


君は、本当に幸せだっただろうか。


君は誰よりも温かい思い出を残してくれたのに、僕は君に、何かひとつでも与えることができていたのだろうか。


優しい君はきっと、「幸せだった」と笑ってくれるのだろう。


あとどれくらい一人きりで春を迎えたら、もう一度君に会うことができるのだろう。


「小泉さん」


木村さんの声が僕を呼んだ。


「ご面会の方がいらしてますよ」


窓の外を向いたまま、僕は答えた。


「面会? 珍しいね」


僕は、結局一度も結婚せずにこの年になってしまった。


家族と呼べる人はほとんどこの世にはいないし、この施設の外から知り合いが訪ねてくるなんてことは滅多になかった。


「何だか若くてキレイな女性の方ですよ。小泉さん、隅におけませんね。さぁ、どうぞ」


笑いながらそう言った木村さんは、僕への面会人を中へと招き入れた。


「どなたかな。こんな年寄りに会いに来てくれたのは……」


軽く身なりを整えながら振り返った僕の目に、いつかどこかで見たことのあるマフラーが映った。


「君は……」


薄いピンクのマフラーを纏ったその人を、僕は忘れているはずもなかった。


何年も流していなかった涙が、熱い雫となって瞳に溢れてくる。


「……おかえり」


「七海……」


「やっと、帰ってきてくれたね……」


僕は、涙声のままそう言うのが精一杯だった。


「と言っても、僕はもうこの通り、おじいちゃんになってしまったけどね」


「ごめんなさい……。こんなに長く待たせて……」


懐かしい、彼女の香りがした。


「いいんだよ」


僕は、彼女を抱きしめ返す。


「本当に待っていてくれるなんて、思わなかったよ」


僕の胸の中で、雪音は小さな声で呟いた。


「何を言ってるんだ。当たり前じゃないか」


僕は、雪音の感触を、温もりを、何十年分も噛みしめながら答えた。


「君のことが、好きだからだよ」


顔を上げた彼女を見つめて、僕はもう一度彼女を強く抱きしめる。


「それに、ほら」


僕は胸のポケットから皺だらけになった紙を取り出し、雪音に差し出した。


「これ……」


それは、あのとき雪音が僕にくれた大吉のおみくじだった。


「ずっと、とっておいてくれたの?」


「ほら、ここに」


僕は、細長い紙に敷き詰められた言葉の一つを指さした。


『待ち人、必ず現れるだろう』


そこには、そう書いてあった。


あの日から、何度も何度も読み返した一文だった。


静かに笑う雪音の笑顔は、あの日最後に見たのと少しも変わらない。


僕が初めて、そして誰よりも愛した、雪音のままだ。


「そうだ。外へ行かないか?」


「外へ?」


「ああ。いっしょに、桜を見に行こう」


「でも、まだ桜の花なんて……」


「いいんだ。それでも、君を連れていってあげたいんだ。あのとき君も、そう言っていただろう?」


笑いかける僕に、雪音も優しく微笑み返してくれた。


「……うん」


雪音に手を引かれ、僕たちは外へ出た。



「寒くない?」


「ああ、大丈夫だ」


僕たちは、桜並木のそばにある小さなベンチに腰を下ろした。


「懐かしいなぁ……。あれから、どれくらい経つんだろう」


まだ葉も付けていない桜の木を見上げながら、雪音は目を細める。


「もう、数えることも忘れてしまったよ……」


僕も同じように、枯れたままの桜の木を見つめながら答えた。


「君がいなくなってから、僕は冬が来るたびに、周りのどこかに君を探し続けていたんだ……」


けれど、僕はずっと君を見つけることができずに生きてきた。


「七海……。私も、あの日からずっと、夢の中で七海のことを探していた気がする……」


「ありがとう……。……うっ……!」


突然、胸が苦しみを覚えた。


「七海!」


雪音が、心配して僕の肩を支えてくれた。


「大丈夫!? すぐにお医者さんを……!」


「……いや、いいんだ」


「七海……?」


「もう、いいんだ」


「何言ってるの!」


「今日まで生きてこれたのは、きっと神様が、最後にこうして君と再会させてくれるためだったんだ。けれど、もう君のそばにいてやることも、できないみたいだ……」


僕は、空を見上げながら雪音に語りかけた。


「雪音……。僕は、ずっと君を待ち続けて良かったと思っているよ」


「七海……」


「だから、最後くらい君の腕の中で眠らせてくれないか?」


「七海、私ね……」


何かを言いかけて、言葉を止めて雪音は僕をそっと抱きしめてくれる。


けれど僕にはもう、彼女を抱きしめ返せる力は残っていなかった。


「桜、キレイだね、雪音……」


「うん……。あの日と同じだね……」


雪音は、僕の手を握りしめて答えた。


「ありがとう、雪音。君と出逢えて、僕は本当に、幸せだったよ」


雪音の温もりを感じながら、僕の目はゆっくりと閉じていった。



目を閉じる瞬間。


最後に見た雪音は、涙を流しながら微笑んでいた。


まぶたの裏には、美しい桜吹雪が見えた。


満開の桜の下で、嬉しそうに無邪気にはしゃぐ雪音の姿を見つめながら、僕は眠った。



雪音。


僕もいつか、また生まれ変わることができるだろうか。


そのときは、必ずまた君と出会って、君に恋して、君といっしょに生きていこう。


いっしょに海を見に行き、ホットショコラを飲んで、桜の下を、手を繋いで歩くんだ。


きっとまた、僕は君を見つけてみせるから。



あの雪原のどこかで。

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