20
翌日。
雪音を失った僕は、ただ呆然と部屋の中で過ぎてゆく時間に身を任せていた。
雪音が初めてこの街に来たとき、僕がこのベッドで目を覚ますと、コタツに入ってお茶を飲む雪音の姿を見つけたことを思い出した。
何度も目を閉じては開いてみるけれど、どんなに目を凝らしても、もうそこに雪音の姿を見つけることはできなかった。
雪音。
いつかまた、君に会える日が来るのだろうか。
外はもう春だというのに、僕は君を連れ去ってしまった新しい季節に踏み出せないまま、一人きり凍える吹雪の中に取り残されてしまっている。
どれだけの孤独に耐えたなら、神様はもう一度、君という存在を与えてくれるのだろう。
「雪音……」
僕は、確かめるように何度もその名前を呟いていた。
その時。
玄関から、チャイムの音が聞こえた。
「まさか……」
微かな期待を胸に、僕は玄関へのわずかな距離を走った。
けれど、ドアを開けた僕の前に現れたのは遥美だった。
「七海くん……。ちょっと、心配になって……」
そう言ってうつむいた遥美は、涙を堪えているようだ。
「心配って……。自分が泣いててどうやって人の心配するんだよ」
「だって……」
けれど、雪音がいなくなったことを悲しんでいるのが自分だけじゃないんだということが、僕の心を少しだけ楽にしてくれる。
「ありがとう、遥美」
「そんな、私は何も」
「遥美がいてくたから、雪音もきっと、楽しかったと思うんだ」
精一杯、笑顔を作ってみたけれど、やっぱり僕自身の孤独は癒されなかった。
「そうだ、これ」
「……手紙?」
涙を拭いながら遥美が差し出した手紙を受け取った僕は、その宛名に僕の名前を見つけた。
「もしかして……」
遥美は、無言で頷いた。
「今日、部屋を片付けてたら見つけて……。たぶん、最後の夜に書いてたんだと思う」
僕は、手渡された手紙を開いた。
「七海へ
たった数ヶ月だけれど、私にとっては一生のほとんどを七海と過ごせて、本当に楽しかったよ。
七海に出会うまでは、私きっと、本当の幸せも、本当の孤独も知らなかったのかもしれない。
一人でいることが当たり前だった。
でも、七海と出会って、私は一人になることの淋しさを知ってしまったの。
たった一人の人に愛されることの暖かさも。
その人を心から愛することの幸せも。
全部、七海が教えてくれたんだよ。
私、ずっと考えてたの。
白雪姫やシンデレラは王子様と結ばれて幸せになれたのに、どうして雪女は、こんなに悲しい物語なのかって。
でもね、私、今ならきっと、どんな物語のヒロインよりも幸せだよ。
だって、短い一生の中で、こんなにも愛してくれる人に巡り会えたんだから。
こんなにも愛する人に、巡り会えたんだから。
好きな人といっしょにいられることだけが幸せなんじゃなくて、いっしょにいたいって思える人に出会えることこそ幸せなんだって、七海が教えてくれたから。
私、七海と出会えて、本当に幸せだったよ。
こんな私を愛してくれて、本当に、本当にありがとう。
雪音」
こぼれ落ちた涙が、子供のような雪音の文字を滲ませた。
まるで、目の前に雪音が笑顔で現れるんじゃないかと思うくらいに、その手紙が彼女をそばに感じさせる。
「あのね、七海くん。私、一つ隠してたことがあるの」
「隠してたこと?」
「うん……。雪音ちゃんね、私に話してくれたことがあったの。雪女が、どうやって冬以外の季節を越えていたのか」
たしか、僕も一度雪音に聞いてみたことがあった。
彼女の母親が、春になってもどうやって生き延びていたのか。
僕が、雪音を迎えに行った日のことだ。
けれど……。
「雪女が夫と出会うシーン。彼の父親が、氷付けにされて殺されるでしょ? あれが、雪女が春を迎えるための儀式なんだ、って」
「それじゃ、まさか……」
遥美は、無言で頷いてから続けた。
「人間を凍り付かせることで、その冷気で生き延びることができる、って」
「そんな……。雪音は、そんなこと一言も……!」
「だって、言えるわけないよ」
「どうして?」
「話したからってどうなるの? 雪音ちゃんが、自分のために無関係の人間を犠牲にするなんてできない子だって、七海くんが一番良く分かってるでしょ?」
「だったら僕が……。そんなことで雪音が救われるなら、僕はいくらだって……!」
「だから言えなかったんだよ! それを知ったら、七海くんはきっと雪音ちゃんのために自分の命なんて投げ出すでしょ? だけど、それで雪音ちゃんが幸せになれると思う? 雪音ちゃんは、七海くんといっしょにいたかったんだよ?」
「だけど……!」
何も知らず、何もできなかった自分が、悔しくて仕方なかった。
「ごめん……。雪音ちゃんに、七海くんには絶対に言わないで、って言われてて……」
僕は、言葉もなく雪音の手紙を握りしめた。
手紙の下に持っていた封筒から、何かが落ちた感触がした。
拾い上げたそれは、何かの紙が小さく畳まれたものだった。
「これ……」
破れないようにそっと紙を広げると、それは「大吉」と書かれたおみくじだった。
「雪音ちゃん、七海くんに自分の幸せを分けてあげたかったのかも……」
僕に、自分の大吉をくれようとしたのか。
雪音のために、僕は何もしてやれなかったというのに。
「こんな、子供みたいなことしやがって……」
いじらしいほどの雪音の優しさに、「大吉、大吉」と嬉しそうに口ずさんでいた雪音の声がすぐそばに聞こえた気がした。
「七海くん……。雪音ちゃん、幸せだったんだよね? そう信じて、いいんだよね?」
遥美は、涙声で僕に問いかけ続けた。
僕は何も答えられないまま、雪音が最後に残してくれた手紙と、雪音の小さな幸せが込められたおみくじを、ただ強く握りしめていた。