19
雪音を抱えて歩く道は、いつもとまるで違う景色に見えた。
僕たちは気付いていないだけで、本当は、平凡な生活の中にも季節を感じさせる出来事はたくさんあるんだ。
雨が降っても雪になることがなくなっていたことも。
行き交う人々の中に、コートやマフラーを身に付けている人がほとんどいなくなっていることも。
デパートの広告たちが、春物の新作をうたったものになっていることも。
普段なら何気なく見過ごしていた、そんな一つ一つの出来事が、僕たちはもう、そう長くはいっしょにいられないんだということを僕に教えていた。
「雪音、もうすぐ学校だぞ?」
僕は、苦しそうにもたれかかる雪音に呼びかける。
「うん……」
弱々しく答えた雪音は、ゆっくりと顔をあげた。
「やっぱり、まだ桜、咲いてないね……」
遥美が、雪音の気持ちを代弁するかのように呟く。
「いいの……。良かった、最後に来ることができて……」
「最後って……そんなこと言うなよ!」
「ごめんね、七海……。私、もう……」
雪音の体が、うっすらと光を帯びたかと思うと、少しずつその姿が曖昧に消えかけていく。
「雪音……!」
「七海くん! 雪……!」
遥美の声に顔を上げて空を見ると、真っ白な雪が静かに降り注いでいた。
それがきっと、この冬最後の雪なんだということを、僕は心のどこかで気付いてしまった。
「七海……私には見えるよ……。キレイに舞い落ちてくる桜が……」
雪空を見上げながら呟く雪音は、もう声を出すのも辛そうに見えた。
「桜、キレイだね……七海……」
「雪音……!」
「ねぇ、七海……?」
腕の中で、雪音が聞こえなくなりそうなくらいに小さな声で囁く。
「私、もう一度生まれ変われるかな……? もしもまた生まれ変われたら……。また、桜の花を見に連れて来てくれる……?」
「ああ……。必ずいっしょに来よう。絶対に、絶対に連れてきてあげるから……!」
「ありがとう……」
「生まれ変わっても、きっとまた雪音のことを好きになるよ! もっとキレイな桜を見せてやる! もっと幸せにしてやる! だから……!」
「ありがとう、七海……。七海に会えて……良かった……」
それが、僕に聞こえた雪音の最後の言葉だった。
雪音の声が消えるのと同時に、彼女の体は淡雪のように消えていった。
「……雪音? ……雪音ーーーーーー!」
もう触れることもできない雪音の姿を求めて、僕はその名前を呼び続けた。
『……雪音。それが私の名前』
『私、寒いの苦手なの。特に手とかすぐ冷えちゃって』
『生きている時間なんて、本当は人を好きになるには短すぎるんだと思う。だから、せめてその短い時間をどれだけ大切に過ごせるかで、その気持ちの価値は決まってくるんじゃないかな』
『あ、これね、遥美ちゃんから貸してもらったの。へへへ、似合う?』
『……桜、見てみたいんだ』
『ううん、いいよ。すごく温かいし、気に入ったよ』
『私、ここから見える海が一番好きだなぁ』
『ありがとう……七海……。七海に会えて……良かった……』
雪音と交わしたすべての言葉たちが、僕の心の中に蘇ってきた。
「雪音……。僕は、ずっと待ってるから……。何年経っても、いつまでも雪音が生まれ変わるのを待ってるから……!」
僕の声に、もう雪音は答えなかった。
後にはただ、真っ白な雪が降り注いでいた。
舞い降りたその雪は不思議と温かく、まるで彼女が、僕のすべてを優しく包み込んでくれているような気がした。
雪音。
いつの日か、もう一度君に会えたら。
ただそれだけを思いながら、さっきまで彼女を抱きしめていた手の平に降り注いだひとひらの雪を、いつまでも、いつまでも見つめていた。