18
その日は、いつにも増して春の装いを深めていた。
スウェットで寝ていた僕は、ベッドで目を覚ますと少しだけ汗ばんでいて、カレンダーの日付を確認しながら、ああ、あと少しで三月も終わるのか、と気付く。
いつの頃からか、季節の変わり目には疎くなり、ただ漠然とした時間だけが流れる日々を過ごすようになった。
僕にとって、木々の葉の色が変わることはただの植物学的現象に過ぎないし、人々の服装が変わってゆくのも単なる気温調節としか映らない。
けれどこのときの僕は、まるで子供の頃のようにもうすぐ訪れるであろう新しい季節をはっきりと感じていた。
ただ一つ違っていたのは、僕はその季節を待ち侘びているのではなく、流れる時間に身を任せることしかできない無力感の中に立ち尽くしていることだ。
暖かくなり始めた気温に逆らうように厚着をし、いつものように雪音の待つ駅へと向かった。
こうしていないと、僕が春の訪れを受け入れた瞬間、雪音が僕の目の前から消えてしまうような気がしていたからだ。
駅へと続く歩き慣れた道は、今日はなぜだか僕の足を急がせた。
緑の葉を付け始めた街路樹を見ないように、僕は早足で歩き続ける。
駅に着くと、いつも僕より先に来ていた雪音の姿が無かった。
「おかしいな……」
僕の心は、不安で今にも壊れそうだった。
きっと、寝坊したんだろう。
昨日は遅くまで遊んでたから、疲れてしまったんだ。
もうすぐ、そう、きっともうすぐ雪音はいつもの笑顔で現れて、特に申し訳ないなんて素振りをすることなく僕の手を引いて歩き始めるに違いない。
そんな雪音に僕は文句を言いながらも、それでも雪音が僕の隣にいることだけで十分嬉しくて、きっとすぐに許してしまうんだ。
自分に言い聞かせながら、僕は落ち着き無く辺りの景色の中に雪音の姿を探す。
雪音が現れたのは、僕が駅に着いてから二十分ほど経ってからだった。
「雪音! どうしたんだよ、心配して……」
雪音の隣にいる遥美の姿に気付き、僕は言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「ごめん……ね……。七海……」
一目で分かるくらい雪音の顔色は青ざめ、荒く繰り返す呼吸は弱々しかった。
「雪音!」
「今朝から突然苦しみ出して……。今日は休んでいたほうがいいんじゃないかって止めたんだけど、どうしても七海くんのところに行くって……」
雪音に寄り添っている遥美が、不安そうな顔で説明する。
「どうしたんだよ! すごく苦しそうじゃないか!」
「だい……じょうぶ……」
「どこが大丈夫なんだよ! 早く……どこか横になれるところに……!」
雪音の肩を抱えて歩きだそうとする僕を、雪音は力無く引き止めた。
「ホントに……大丈夫だから……。それより、今日は、連れて行ってほしいところがあるんだ……。えへへ……」
無理に笑おうとする雪音は、小さな手で僕の腕を掴みながらせがんだ。
「行きたいところ? いったいどこに?」
「学校……連れて行ってほしいんだ……」
「学校? どうしてこんなときに……」
「……桜……」
「桜……?」
雪音の言葉を反芻しながら、僕はいつか雪音と話したことを思い出した。
『……桜、見てみたいんだ』
『桜?』
『うん、桜。海といっしょでね、一度も見たこと無いんだ、桜の花』
『ふーん。あ、桜なら、うちの大学、隠れた桜の名所なんだよ』
『ホントに?』
『うん。正門からキャンパスに続く桜並木道、すごくキレイなんだよ』
『そうなの? 見てみたいなぁ』
記憶の中で笑っている雪音が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
「雪音……桜が見たいのか?」
「うん……。お願い、最後のお願いだから……」
「何言ってるんだよ! 最後って……。それに、まだ桜の花なんて……」
まだ寒々しい街路樹を見渡しながら、僕は戸惑った。
「いいの……。それでも、連れて行ってほしいの……」
いつものマイペースぶりが嘘のように健気に微笑む雪音の姿は、僕をどうしようもなく心細くさせる。
「七海くん……」
隣にいる遥美が決断を迫る。雪音の息づかいは、今にも途絶えてしまいそうだった。
「……分かった、行こう」
僕と遥美は、雪音を庇うように寄り添いながら学校へと向かった。
神様……。
もしも叶うなら、もう春なんて、いっそ永遠に来なければ……。