17
その日、僕は雪音と初めていっしょに来た、海沿いの道を歩いていた。
「懐かしいねー。あれからもう三ヶ月近く経つのかー」
雪音の言った言葉に、僕は彼女と過ごしたわずかな時間を思い出してみる。
そうだ。
僕たちは、まだそれだけの時間しかいっしょに過ごしていないんだ。
そして、僕と雪音に与えられた時間は、それ以上にわずかしか残されていない。
雪音を連れて、この街に帰ってきてからの数日。
奇蹟なんて起こるはずもなく、時間はただ淡々と、けれど確実に、次の季節への加速を始めていた。
「どうしたの?」
隣を歩く雪音が、僕の顔を覗き込んで訊ねる。
「え? いや……」
「ふふふ、変なの」
不思議そうに笑う雪音の歩幅に合わせて、僕は歩き続ける。
僕たちの歩調と、すぐそこに聴こえる波の音が、なぜかお互いにリズムを合わせているように感じられて、僕はただ、そのリズムに身を委ねていた。
あと、どれくらいいっしょにいられるのだろう。
たしかに隣にいるはずの雪音の存在を感じながら、僕はその香りが途絶えてしまわないように、必死で感覚を研ぎ澄ませている。
「あ、見て!」
港を出ようとしている遊覧船を見つけて、雪音が走り出す。
「あ、待ってよ!」
僕も慌てて後を追う。
美香のことが好きだった頃、何度もこうして美香の背中を追いかけていた。
その度に、僕はどうしても美香には追い付けないという焦りに見舞われていた。
ほとんど絶望的とも言える焦燥の中で、それでもあの頃、僕は走り続けていたんだ。
「ねぇ、写真撮ろうよ!」
振り返った雪音が、シャッターを押す仕草をしながら言う。
僕はカバンからカメラを取り出し、近くを歩いていた人に声をかけてカメラを預けた。
遊覧船を背景に海際で待つ雪音の隣に立ち、軽く髪型を整える。
その時、雪音が自分の手を僕の腕に絡めてきた。
少し戸惑いながら、そんな心の動きを悟られないように、僕も少しだけ彼女に体を近寄せる。
とても自然なそんなやり取りは、きっと写真を撮ってくれている人の目には、ありふれた恋人のように見えているんだろうな、なんてことを考えてみる。
そして、僕らが本当にただのありふれた恋人であったならどんなにいいだろうと、心の奥で思った。
「ありがとうございました」
写真を撮ってくれた人に礼を言い、僕はカメラを受け取った。
「私、ここから見える海が一番好きだなぁ」
雪音が、カメラのディスプレイに映った写真と本物の海を見比べながら言う。
どうしてだろう。
彼女は、どうしてこんなにも普通に笑っていられるのだろう。
「って言っても私、他の海なんて見たこと無い……」
そう言いながら振り返る雪音を、僕は何も言わずに抱き寄せた。
「……七海? ……どうしたの?」
「忘れたくないんだ……。雪音の温かさや、感触を……」
「七海……」
雪音も、僕の背中に手を回してきた。
雪音の温もりは、僕の心を優しく包んでくれる。
僕はその温もりを失わないようにゆっくりと、雪音から少しだけ体を離した。
彼女を見つめる僕に、雪音は静かに微笑み返す。
「……七海」
彼女がもう一度僕の名前を呼んだあと、僕たちは、初めてのキスをした。
目を閉じて、ゆっくりとお互いに近付く僕らは、次の瞬間、この世界に自分たち以外の誰もいないかのような感覚を分け合っていた。
海からの風の冷たさも。
波の向こうに聴こえる遊覧船の汽笛も。
空を漂うヘリコプターのプロペラ音も。
すべてが、ずっと遠くのものに思えた。
まるで古い外国のサイレント映画のように、ただ静かで心地良い時間だけが、僕たちの中を流れていた。
今思えば、これが雪音と交わした最初で最後のキスだった。
行き場のないくらいに押し寄せる幸せと不安を抑えながら、いつまでも、彼女の小さな肩を抱きしめていた。