16
三月も、後半に入ろうとしていた。
大学も春休みに入り、友達も少なくていつもなら時間を持て余していたであろう僕だったが、今年だけは違っていた。
僕は、できるだけ長い時間を雪音といっしょに過ごそうとしていた。
決して口には出さなかったけれど、きっと雪音もそう感じていたと思う。
「そうだ、これ」
ある日、いつものように雪音と待ち合わせた僕は、手に持っていた紙袋を雪音に手渡した。
「何?」
「今日、ホワイトデーだから」
「ホワイトで? 何それ?」
「まぁ、いいから、開けてみてよ」
その意味を説明するなんて恥ずかしくてできなかった僕は、目を反らしながら雪音を促した。
「何だろう……。あ、マフラー?」
雪音は、袋の中から薄いピンクのマフラーを取りだした。
「いつまでも遥美の服ばかり借りてるわけにもいかないだろ?」
「そうだね……ありがとう」
嬉しそうに微笑みながら、雪音はそのマフラーを身に付けた。
「似合う?」
首に巻いたばかりのマフラーを見せながら、雪音は微笑んだ。
きっと僕は、この時少し顔が赤くなっていたと思う。
「ホントはもっといろいろ揃えてあげたいんだけど。僕、あんまりお金持ってないから」
「ううん、いいよ。すごく温かいし、気に入ったよ」
ああ、良かったな、なんてことを、僕は素直に思っていた。
「でも、もうそろそろマフラーもいらなくなっちゃうかな、暖かくなってくるし」
「大丈夫だよ。私、寒がりだから」
気を遣って言ってくれているのかどうか分からなかったけれど、僕はただ、その言葉の意味よりも、大丈夫と言った雪音の声だけを感じていた。
雪音が寒がりなのは、ずっと人の温かさを恋しがっていたからなのかも知れない。
何の根拠も無くそう思いながら、僕が少しでも彼女の必要とする温かさになれたらと、強く願った。
僕たちは、時には遥美たちともいっしょに食事をしたりすることもあった。
「七海ったらね、すごい情けない顔して遭難してたんだよ。もうこの世の終わりみたいな。あはは」
「もういいじゃないか、その話は!」
雪音はこうして遥美たちといっしょにいるとき、僕たちが初めて雪山で出会ったときの話をするのが好きだった。
この話をしているときの雪音はいつも楽しそうだったし、僕もそんな雪音を見ているのが好きだった。
「七海くん、昔からスポーツ苦手だったしね」
馬鹿にする風でもなく、興味が無いといった感じでもなく、遥美はそんな相づちを打つ。
「そんなこと無いよ、これでもマラソン大会は真ん中より速いほうだったし、リレーの選手に選ばれたことだってあるんだから」
僕は、必死で自己弁護する。
「まぁ、逃げ足だけは速かったからな、七海は」
博樹が、例のごとく意地悪く笑いながら茶化した。
「あの時は、私たちがちゃんと見ていてあげなかったから……ごめんね」
そう言って申し訳なさそうな顔をしたのは、美香だった。
雪音を連れて街へと戻ってきた僕を迎えた美香は、まるで別人のようだった。
前のような煌びやかさは無くなり、たくさんの友達に囲まれて歩くことも無くなっていた。
逆に、雪音とも自然に打ち解け、僕らの心にあったわだかまりもゆっくりと解けていった。
何かの心境の変化かメイクも薄くなり、少しだけ短くなった髪は、彼女を以前よりも若々しく見せた。
そんな美香を見て、僕は少しだけ雪音に似ているな、と思った。
「そういえばさ」
博樹が、ビールの缶を揺らしながら話し始めた。
「大輔と明日美、別れたんだってな」
「ええ? もう?」
「ああ。何だかんだで、お互いに大して好きじゃなかったんじゃないのか」
僕は、横目で美香の様子を伺った。
「……いいのよ、もう」
それに気付いたのか、美香は静かに笑いながら呟いた。
あれ以来、美香は大人しくなったな、と僕は思う。
落ち込んでいるという訳でもなく、ただ今までどこか無理をしていたのをやめたという様子で、きっとこれが本当の美香だったのかも知れない。
けれど僕は今の美香のほうが、ずっと明るく、幸せそうに思えた。
まるで、昔好きだった子が結婚するときのような感覚で、そんな美香の仕草を見ていた。
「ふぅ。お腹いっぱいになったら眠くなってきちゃった」
そう言いながら、雪音はコタツにもぐり込んだ。
「またそうやって炬燵で寝ようとする。風邪引くぞ」
「七海、お母さんみたいだね」
雪音は、遥美から借りた毛布をかけてやる僕を見上げながら笑った。
「何言ってるんだよ」
こうしていると普通の人間と何も変わらないのに、と僕は急に思った。
雪音が雪女だなんて、本当は嘘なんじゃないか、なんてことを考えて、それでもこれまでの出来事を思い出して、そんな淡い期待はすぐに消えてしまう。
このまま時間が止まってくれたらいいのに。
いつか見たドラマで聞いたような言葉を思い浮かべながら、まだ完全には眠ってはいないであろう雪音の寝顔を、ただ何も言わずに見つめていた。
「ちょっと、外の空気吸ってくる」
まるで何も知らないかのように無邪気に眠りにつこうとする雪音を見ているのが何だか苦しくて、僕はベランダへ出た。
曇り空に微かに瞬く星を数えながら、雪音と出会ってからのことを思い返してみる。
一人きり、誰もいない雪山へと帰ってしまった雪音を連れて帰ってきたけれど、本当はどうしてあげたらいいのかなんて分からなかった。
ただ、残されたわずかな時間、少しでも長く雪音のそばにいたいと、それだけが僕の望みだった。
「七海くん」
振り返ると、窓を開けて遥美もベランダへ出てきていた。
「何?」
僕は、極力平静を装った。
「何か、考え事?」
「……うん、まぁね」
「雪音ちゃんに、どうしてあげたらいいのか、って考えてるんでしょ?」
「ははは、参ったな。遥美には何でも分かっちゃうのかな」
「分かるよ……。七海くん、昔からそうやってすぐ一人で悩み込むんだもん」
「……雪音にとって、何をしてあげることが一番幸せなのか、分からないんだ」
僕は、空を見上げたまま答えた。
「僕なんて、自分のことすら思い通りにできないのに……。自分以外の誰かを、幸せにしてあげるなんて……」
僕の胸のもどかしさを写し取ったかのように、空に浮かぶ星たちが雲の向こうに隠れてしまったように思えた。
「雪音ちゃんね、泣いてたんだ」
「え?」
「私に、生まれ変わる前の話をしてくれたとき」
「泣いてた?」
「うん。そのとき、雪音ちゃんに頼まれて、シンデレラとか、白雪姫とか、昔話の本をいくつか見せてあげてたの」
遥美は、僕の隣で同じように曇った空を見上げながら話し続けた。
「そしたら雪音ちゃん、急に泣き出して……。『シンデレラや白雪姫はみんな最後は幸せになれるのに、どうして雪女の話だけ、こんなにも悲しく、冷たい結末なのか』って……」
「雪女だけが……」
「どうして雪女は、幸せになれないのか、って……」
雪音の笑顔の裏に隠された悲しみが、今なら全て分かるような気がした。
「私、考えたことも無かった。たくさんある物語の中で、どうして雪女は、こんなにも悲しいお話なのかなんて」
「……そっか」
「だから、お願い。雪音ちゃんが少しでも幸せを感じることができるとしたら、きっと、七海くんが必要だと思う。七海くんが、そばにいてあげたら……」
雪音の幸せとは、何なのだろう。
残された時間、何を得ることができれば、彼女は幸せになれるのだろう。
僕はただ、彼女の悲しみを全て背負えるだけの強さが欲しいと、姿を消した星に祈るしかなかった。