二日目
翌日、祖父母の習慣に合わせて朝一で仏壇に手を合わせる。
そこには位牌と共に遺影が置かれている。
その子の突然の訃報と葬儀での叔母の慟哭は今でも忘れられない。
葬儀の場の雰囲気にそぐわない、その子の屈託のない笑顔の遺影がとても印象的だった。
数か月振りに見たその子の遺影に違和感を覚えた。
別に他の人に変わっているとか姿勢が変わっているとかそういう不思議体験的な事ではなく、例えてみれば知見が増えた事で見飽きた日常に気が付いていなかった理屈を発見した様な感じ。
その違和感の理由に気が付きそうで気が付けず、まるで喉に刺さった小骨のようもどかしい。
そんなどうでも良いような事で悩んでいると両親から呼ばれた。そろそろ出発するとの事。
両親は昨日来ていた叔父夫婦とは別の親戚の家に挨拶に向かうらしい。
元々、父親と母親はこの港町で生まれ育った幼馴染の関係だった。今寝泊まりさせてもらっている家の持ち主の祖父母は父方の方だが、この付近に母方の祖父母が暮らしていた家も有る。
母方の祖父母は両方とも結構前に他界しており、現在その家は母親の兄弟が暮らしている。そこに挨拶に行くという事らしい。
ちなみに昨日、父親や祖父と酒を酌み交わしていたのは、父親の弟だ。その叔父夫婦もまたこの近くに住んでいる。
そんな訳で伯父夫婦の所への挨拶に私を含め3人で向かった。
本音を言えば丁重に断りたかった。今回の旅行鞄の中には受験勉強の参考書も入れてきていた。
正直もう少し勉強をしないと希望する進路が危うくなりかねない。今回の旅行でいつもと違う海が見えるという環境で勉強するのも新鮮で勉強がはかどるかと思っていた。
実際には、こちらに着いてから一回も参考書を開いてはいないのだが。
結局、伯父夫婦の所で内容の無い会話を数時間続け、伯父夫婦の所から解放され祖父母の家に戻った頃には夕方になっていた。
昔話やら旧友のその後の消息などの意見交換をして、有意義に時間を過ごせた両親は満面の笑みだが、連れて行かれただけの私は何も面白くは無かった。
祖父母の家の玄関前で茜色を示す空を見て、不意に昨日の彼女との約束を思い出した。
「・・・そうね、じゃあ明日もまた同じ時間にこの場所で」
私の方から強引に約束を取り付けておいて、それを今の今まで忘れているなんて、なんという失態。
「私ちょっと散歩してくるね」
出来る限り平穏を装って、そんな提案をして外出することにする。内心は困惑しきっている。
「そう、気を付けてね」
母親は特に不信にも思わずそんな言葉を掛けてくれた。それに手を挙げて応えてはやる気持ちを抑えて砂浜に向かった。
昨日と同じ砂浜の同じ場所。
そこには既に彼女が来ていた。海の方を向いて佇んでいる。
「ごめんなさい。こっちから約束しておきながら、遅刻するなんて」
息を切らせて滑り込むように彼女の横に駆け込む。そんな私を彼女は微笑みながら迎えてくれた。
「大丈夫です。私も今来たばかりですから」
気を使わせて申し訳ないと思いながら、彼女の笑顔を見た。その瞬間に脳内の絡み合った麻紐が切ってもいないのに解ける感覚を味わった。
目の前に居る彼女の髪はセミロングでそのせいも有り、やや大人びて見える。
それに対してミディアムで制服を着ていた遺影の中のあの子は、幼く見えていた。
第一印象が違いすぎて、比較しようとも思わなかった。しかし、改めて脳内で比べてみると結構似ている。
今この場所に遺影を持ってくる事は出来ないので、記憶との比較だがそっくりなのではないだろうか。
そんな呆けたまま彼女の顔を見続けていた私に対して、苦笑しながら話しかけてきた。
「・・・やっぱり、そんなに似ていますか」
「えっ」
心を読まれたか、思っている事を口走っていたかと思い大いに驚いた。その反応に彼女は更に笑った。
「たしか、千夏ちゃんのご遺影では髪の毛はこの位で、私にはまねのできないぐらい屈託のない笑顔だったと思いましたが」
彼女はジェスチャーで髪の長さを指摘して、できうる限りの微笑で話した。
「え、っと、いや、なんで解るの。私の考えていた事が」
「ふふ。私の推理力です、って恰好をつけたい所ですが、こんな狭い村ですから来客の噂はすぐに広まりますし、この時期とどこの家の客かを総合して考えれば目的は簡単にわかります」
「・・・なるほど」
わたしは素直に納得した。しかし、人差し指を突き立てながら解説する辺りは、まんざらでもない様子だ。
「千夏ちゃんとは同じ学校で同学年だった上に、初対面のはずの貴女にもそこまで思わせる位に似た顔立ちをしていたので、よく「姉妹」っていじられていました。
実際、私たちも自分のそっくりさんって事ですぐに仲良くなって、よく一緒に行動していましたから。それのせいもあるのでしょう」
「・・・仲が良かったんですね」
「そう。だから亡くなったと知った時は悲しみより驚きの方が大きかったわ。だって見つかる数時間前まで一緒にいたはずなのに、なんで、あんな・・・」
彼女は目元を拭う。まだ数か月しか経っていないのだから、心の整理がついている訳が無い。
「・・・あの子の事、教えてくれませんか。私は従姉妹ですけどほとんど会った事が無いままで、せめてどんな子だったのかを知りたいので」
彼女は未だに潤んだままの瞳のまま教えてくれた。
「千夏ちゃんは、顔こそ私と似てはいましたが、性格はまるで逆でした。明るい性格でいつもみんなの中心に居ました。誰とでも、それこそ男女の垣根無く誰とでも仲良く話していました。
私には、とても無理な話です」
彼女は自虐的な笑みを少し浮かべる。
「そのうちに千夏ちゃんの関心は一人の男子に向けられるようになっていきました。二人とも特に隠し立てるような事もしなかった為、皆が知っている状況でしたね」
顔も知りもしないどこかの誰かが、遺影の中で笑顔を振りまいているあの子と仲良くしている風景を無理やり想像してみた。
そこに突然の不幸が襲い掛かったという事になる。
「じゃあその彼氏君も悲しんだでしょうね」
そんな何気ない感想を挟んだだけのつもりだった。
しかし、目の前の彼女の眼は今までの優しくおっとりとしたものから、鋭く相手を攻撃しかねない勢いに変わった。
「どうでしょう。あの人の事はよく解りませんので」
取り付く島もなく完全にはねのけられた。どうやら彼女にとってその彼氏君の話は禁忌のようだ。
彼女は一息入れ直し、いつもの優しそうな瞳に戻って言葉を続けた。
「せっかく今日もここに来たので、一曲歌ってもいいでしょうか。千夏ちゃんへの哀悼の気持ちも込めて」
「それは、是非とも」
彼女の不機嫌が続かないのであれば、正直なんでも良かった。
彼女の選曲は昨日とは違い、もっとゆっくりとした曲だった。
相変わらず曲名も歌詞もわからないが、哀悼の気持ちを込めているのであれば鎮魂歌なのだろう。
そう勝手に思い込んで聞いているととても悲しみ深く歌い上げている様に聞こえる。
昨日の曲の様に盛り上がりを見せるわけでもなく、ただ厳かな雰囲気のまま曲は終わりを迎える。
今日も今日とて私に出来る事はただ、拍手を持ってその感動を伝えるだけだった。
「・・・ありがとうございます。千夏ちゃんに届いていればいいのですが」
「きっと届いていますよ。心のこもった親友の歌声なんですから」
私のフォローに彼女はやや恥ずかしげに笑うだけだった。
例え私が今この時間が永遠に続いて欲しいと願っても太陽は動きを止めない。既に水平線の下にもぐりこんで辺りは暗くなってきている。
「遅刻した私が言うのもなんですが、やはり時間はあっという間に過ぎていきますね」
「そうですね。楽しい時間ほど早く過ぎていくものですし」
彼女が私とのこの他愛ない会話を、楽しい時間と評してくれた事は嬉しかった。
「人魚に襲われないように、そろそろ帰りますか」
「そうですね。人魚に襲われないように」
二人でくすくすと笑った。二人だけの秘密が出来たみたいだ。
「でも、聞いた話では天候が荒れた時しか、人魚の歌声は聞けないそうですね」
祖父からの受け売りをそのまま口にする。実際にその音を聞いた事も当然ないわけだから全然実感が及んではいない。
「あら、貴女もそんなつまらない解釈を採用するのですか」
「えっ」
「もしかしたら本当に人魚は居るかもしれないじゃない」
彼女はまるで悪だくみを思いついた少年のような笑顔で言った。
「あー、それは考えてもいませんでした。でも、確かにその方が面白そう」
「でしょ」
妄想を膨らまして、そんな存在が居る事を想定してみる。すると一つの疑問が浮かぶ。
「でも、そうだとしたら、なんで人魚は人を襲うんでしょうか」
言いながら自分でも考える。例えば食料にするとか、例えば面白半分とか、だろうか。
「私が思うに、きっと人魚は淋しいのよ」
「淋しい、ですか」
いまいち発言の意図が理解しきれず、聞き返した。
「彼女はきっと海の中で独りぼっちなのよ。周りにいるのは会話が成立しない魚や貝ばかり。
彼女と会話が出来るのは人間達しか居ない。だから歌を歌って私達を呼び寄せるの。「お話しませんか」って」
「・・・」
「でも結局、人間は海の中で暮らせるようには出来ていない。せっかく来てくれた人は息が出来なくなって亡くなってしまう。
そして、彼女はまた独りぼっちに逆戻り」
「そうだとすると、とても寂しい話ですね。人魚が恐ろしい者から可哀想な者に思えて来る」
「あ、でも、共感しすぎるのは良くないわ。可哀想に思えてもやっぱり恐ろしい存在には変わりないから」
興が乗ってきたらしく彼女の勢いは止まらない。ただの物静かで歌の上手い綺麗なお姉さんだと思い込んでいたが、空想を巡らして楽しむような趣味もあるのかもしれない。
「それとやっぱり一人で居るのは良くないわね。独りぼっちで淋しい人は同じ様な境遇の人を探し一緒居たがる、お互いにね。
だから、もし一人で居てそんな気持ちになってしまった時に人魚の歌を聞いてしまっては、普通以上に惹かれてしまう」
そんな彼女の考えを聞いて思った。
「でも、それはお互いに幸せなんじゃないですか。言い方は悪いですが傷を舐めあうのは刹那的にでもお互いが幸せになれるからで」
「そうね。でもその後に待っているのは片方の絶命よ。一瞬でも幸福を覚えたのに突き落とす訳だから、その後の淋しさはより一層深くなると思うわ」
彼女の言う通りだろう、得たものを失う悲しみと元から得られなかった悲しみではどちらが悲しいかは想像に難くない。
「でも、大丈夫ですよ。だって、私がここに居る時には常に隣に居てくれる人が居ますから。淋しくなりようがありません」
精一杯の告白。届いて欲しい半分、気づいて欲しくない半分。
私の半ば一目惚れに近い感情。いつもだったら決して表に出さない感情。
表に出してろくな目に合ったためしが無い。気持ちわるがれたり、距離を置かれたり。
でも今回ばかりは気持ちを抑えきれなくて口からあふれた。それだけ彼女は私を虜にした。
彼女の心に届いたうえで断られたらどうしよう。またあの恐怖と嫌悪の混じった視線を向けられたら。
ひと夏の淡い失恋として心にしまえるだろうか、たぶん無理だろう。当分の間は引きずりそうだ。
そんな錯綜する私の思いとは無縁の彼女は、どこか困ったような表情でただ一言、
「そうね」
それだけを呟いた。
・・・これはもう何度となく経験した事。
私と彼女の間に大きな溝が生まれ、その溝はこちらがどんなに手を尽くそうとも二度と埋まる事は無い。
「あ、ごめん。変な事言っちゃって。じゃあ、私は先に帰りますね」
ただただそこから逃げ出したかった。
足早にその場を去り、祖父母の家に向かった。
さっさと祖父母の家に戻り、夕食を食べてお風呂を借りて、そしてさっさと寝よう。
もし、今この瞬間に人魚の歌声を聞いてしまったら、まず逆らう事が出来ないだろうから。