第九話 約束
そこから僕と夕夏は七日間、外をさまよった。
食事は適当な飲食店で済ませ、トイレはコンビニのものを借り、基本、漫画喫茶で寝ることが多かった。シャワーもそこで浴びた。補導されないように制服を脱ぎ、新しい服を買った。
相変わらず両親から心配メッセージがたくさん送られ、そこに四号さんのメッセージも加わった。それらメッセージは日に日に多くなっていったが、僕は一度もメッセージの中身を確かめなかった。読んだところで無駄だと思ったからだ。二日目のお昼にはスマホの充電が切れ、メッセージが来たのかどうかもわからなかった。わざわざ充電して見ようとも思わなかった。
最初の数日はどこへ向かうわけでもなく適当に歩き続けていたが、それも嫌になり、四日目からはファミレスだったり、映画館だったり、図書館だったりに居座り、時間を潰した。恐らく、四号さんのマンションから一駅分も移動していないだろう。
家に戻りたくなかったが、どこに行けばいいのかわからなかった。
だから、どこにも行くことができなかった。
夕夏は徐々に立ち直ってきたのか、笑顔を見せることもあったが、不意に黙りこんでしまうことも多かった。七日間、夕夏は四号さんについての話題は自然と避けるようになっていた。僕も口に出さなかった。夕夏に対して言うべき言葉をいくら探しても、見つかることがなかったからだ。
七日目の夜は急に冷え込み、僕の貯金は底をつき、吹きさらしの公園で夜を明かすことになった。公園のベンチに並んで座っている僕たちを冷たい夜風が容赦なく襲い掛かってくる。
「……太一さん、唇、震えてるよ。大丈夫?」
夕夏は僕の顔を覗き込んでくる。
僕はぼーっとしてきた頭を働かせて「大丈夫。大丈夫」と言った。そのとき、声が震えていることに自分で気がついた。
夕夏は僕の震え始めている手を掴み、マンションから飛び出した時に僕が夕夏に対してしたように、優しく僕の震える手をなで、摩擦熱で温めようとしてくれた。それでも夕夏の手は温かくも冷たくも無く、結果として僕の手は震えたままだった。
「どっかに入ろう。ここで夜を明かすのは無理だよ」
「……ごめん。清水さん探しどころじゃ無くなって」
「……別に、太一さんのせいじゃないよ」
その言葉が、余計に僕の心を苦しめた。
マンションから出たのが本当に最善の手だったのか。玄関で四号さんはなんて言ったのか。
いくら考えても僕の中にある選択肢はいつも少なく、あの時はマンションから出るのが最善だと思った。
その後、僕たちは公園から近所のコンビニへと避難した。イートインコーナーがあったので、ホットコーヒーとレジ横にあるガラスケースに入ったフライドチキンを一つずつ買った。
なるべく端の方の席に夕夏と並んで座り、コーヒーを一口飲む。……コーヒーってこんなに美味しいものだったのか。冷たかった指先がカイロを当てたみたいに少しずつ温まってくる。フライドチキンを一口かじる。思わず涙が出そうになる。よだれもどんどん出てくる。衝撃的な美味しさと油に後頭部が少し痛む。あっという間にたいらげてしまった。コーヒーは全部飲み干さないように少しずつ飲んだ。
天井を見上げ、体を休める。照明の光がとても眩しかったので、目を瞑る。
外に居続けることって、こんなにも体力を使うのか。七日分の疲れが押し寄せ、眠くなってくる。
コーヒーによって体が少しずつ温まり、ぼーっとしていた頭がどんどんクリアになっていく。少しだけまともに思考することができるようになった。
僕は立ち上がり、イートインコーナーを出て、商品棚の中からスマホの充電器を探す。充電器はすぐに見つかり、一つ手に取ってレジで買う。イートインコーナーに戻り、ズボンのポケットから冷えたスマホを取り出し、充電器のコードを差し込む。しばらくして真っ黒な画面に白いリンゴマークが表示され、パスコード入力画面が表示される。
パスコードを入れ、ホーム画面に入ると、どっと一気にメッセージが表示される。アプリアイコンの右上に未読メッセージを表す数字が表示され、その数は四十を超えていた。
相変わらず両親からの心配メッセージが届いていた。どうやら警察に通報し、僕のことを探しているらしい。四号さんからも数件届いていた。四号さんのメッセージの中身は確かめなかった。
「……一つ聞いていい?」
僕は視線をスマホから隣に座っている夕夏に向ける。夕夏は両手をテーブルの上に置き、傷に優しく触れていた。視線はその傷に向けられていた。
「太一さんも、ああいう本を買ったりするの?」
泣き出してしまいそうな、そんな声だった。マンションを飛び出してから夕夏があのことについて話したのは初めてのことだった。
「……存在は知っているけど、買ったことはない」
「じゃあ、どこかで読んだことある?」
「夕夏……そういう話は」
「言えないの?」
「……あるよ」
「私が載っている本?」
「ち、違う!」
「ほんと?」
「ああ」
「……ごめん。困らせるために聞いたんじゃないの。ただ、太一さんがそういう本を読んでいるかどうか気になっただけで」
「大丈夫。気にしてないから」
「……私、あの本を見つけて、ちょっとびっくりしちゃったんだ。私でそういうことを考える人がいるとは思いもしなかったから」
夕夏は顔を上げ、僕と目を合わせる。
「そういう事実を、まだ自分の中で折り合いつけられていないの」
「……そっか」
「清水さんはどう思うのかな」
「……声優の?」
「自分が声を吹き込んだキャラがああいう本に載っていたら、どう思うんだろう」
それは、わからない。考えたこともなかった。
「案外、自分とキャラを切り離して考えるような人なのかな。でも……私としては、悲しんでくれたら嬉しい」
「そっか……」
夕夏は手を伸ばして、僕の手に触れる。そして包み込むように握る。
「夕夏?」
「太一さん」
「……何?」
「私はあなたに出会えて、よかった」
「……なんで? 全部上手く行っていないのに」
「太一さん」
夕夏は僕をまっすぐに見てくる。
「もし、私がこの世界に来た時に太一さんと出会っていなかったら、私はまだあの駅のホームにいたと思う。誰にも見えない、聞こえない存在として、幽霊のようにそこに居続けたはず。でも、太一さんと出会って、私はここまでたどり着くことができた」
「でも……」
そのせいで知りたくもないことを、知ってしまった。
僕が駅のホームから夕夏を連れ出さなければ、知らずに生きることができたのに。
「確かに、この世界は私に優しくない。つらいことばかり。でも、それだけじゃない」
夕夏は天井を見上げる。
「綺麗な星空も教えてくれた。電車に乗せてくれた。高校に連れて行ってくれた。地下の施設にいたら決して見ることができなかったものを、私に見せてくれた。……綺麗なものもあれば、思わず目をそらしてしまうようなこともある。この世界は、とっても複雑な世界。私、こんな世界、知らなかった」
夕夏は僕の手をぎゅっと握る。
「ありがとう」
……その言葉だけで、僕はすべてが救われた気持ちになった。報われた気持ちになった。
体がフッと軽くなる。
僕のこれまで人生、このためにあったのか。
夕夏のために。
僕は生きてきたんだ。
「……ありがとう」
僕はそう返した。
「フフッ、私が言っているのに」
優しく微笑んだ。守りたい。この笑顔を、守りたい。
「……夕夏。僕は一生、君の味方だ。君と出会う今までも、これからも。だから必ず、君を清水さんのところへ連れて行く。何があっても、連れて行く」
僕は夕夏の前に小指を出した。指切りげんまん。
夕夏は僕の言葉に迷っている様子だったが、決心がついたのか、僕の小指と自分の小指を絡める。
「約束だよ、太一さん」
「うん。約束」
僕たちは約束を誓い合った。
じっと、お互いを見つめる。
照れたのを夕夏が「えへへ」と笑ってごまかす。
僕も思わず、笑ってしまった。
この人のためなら、何でもできる気がした。
ふと、スマホに表示された時計を見る。時刻は深夜一時二十五分。そこで思い出す。そうだ、『サイキックズ』の最新話の放送日だ。二期の第十話。
「夕夏。『サイキックズ』の最新話がやるんだけど、観る?」
夕夏は僕の言っている意味がよくわかっていない様子だった。
「『サイキックズ』、私が出ているアニメ?」
「うん」
「……観てみる」
スマホを僕と夕夏の間に置き、放送を待つ。イヤホンが使えなかったから、無音の字幕で勘弁してもらった。
あと二話で終わってしまうのか。それは悲しいことだったけれど、感傷に浸ることはなかった。現実はそれどころではなかった。
一時半。時間通り、『サイキックズ』が始まった。オープニングは無く、いきなり本編からの始まりだった。敵組織『メビウス』で何かを企んでいる様子が映る。
僕はつい、横にいる夕夏に意識を持っていかれ、なかなかアニメ本編に集中できない。
そうか……あれから一週間か。夕夏と出会って一週間。
まさか、アニメキャラクターとアニメを観る日が来るとは、一週間前の僕は夢にも思わないだろうな。
この日の回は以前の楽し気な回から打って変わり、重々しい雰囲気で進んでいった。敵組織の内部抗争。味方組織の一部が敗北したという知らせ。中盤に入るCMまで、登場人物の誰一人も笑顔を見せることは無かった。夕夏が所属している『B班』自体が登場せずにCMに入った。
「太一さん。これが向こうの世界で見ることができたら、敵をすぐに制圧できるね」
「そ、そうだね……」
なんとも反応しづらい話だ。
そしてCMが終わり、後半パート。出動し、目標を倒し終えたB班の元に、敵組織に操られた味方のA班が襲い掛かってくるという展開からのスタートだった。
敵に操られているとは言え、味方同士の戦い。
夕夏は操られているA班に「目を覚まして!」と大声で訴えかけている。
しかし、A班の誰にも夕夏の声は届かない。
床は能力で瓦礫を持ち上げ、敵に操られているA班をなんとか拘束しようとする。「目を覚まして!!」と涙ながらに訴える。戦闘により、体中にかすり傷を負う。見ていると、その傷一つ一つがまるで自分の体に刻まれていくような気持ちになる。
夕夏が戦っている。
電車の中でウトウトとした夕夏が戦っている。
嬉しそうに星空を眺めていた夕夏が戦っている。
一生懸命、自分のアニソンを歌った夕夏が戦っている。
信じることができなかった。
彼女はどうして兵士なのだろう。
兵士なんて辞めて、逃げ出してほしい。
「うああああ!」
班員の皆の協力もあり、やっとの思いで操られた仲間の身動きを止める。息が上がり、限界が近い夕夏。
「ゆ、夕夏……」
拘束された一人が小さな声で夕夏を呼ぶ。その人はB班以外で唯一、夕夏とよく話す子だった。
その子の声に気が付いた夕夏はゆっくり近づき、「わかる!? 私、夕夏!」と期待を込めて言う。
「……夕夏」
その子が何かを言おうとする。
「何?」
少しうれしそうに聞く夕夏。
見つめ合う二人。それまで流れていた音楽は止まり、二人の呼吸音が浮き出て聞こえる。
「死んで」
ドスッと何かが突き抜ける音が聞こえた。
「え……」
僕はつい、声を漏らす。
夕夏はゆっくり下を向く。
夕夏の体には一本の鉄骨が後ろから刺さっていた。ゴフッと口から血を吐き出す。力が抜けたようにその場にしゃがみ込む。
「……ごめんね」
その子はそう言った。
夕夏は腹に鉄骨が刺さったまま、倒れ、目を閉じてしまう。
シーンは急に飛び、救急搬送される夕夏が映される。
またシーンが飛び、病院のベッドに横たわり、酸素マスクを着けて寝ている夕夏が映し出される。かすかに夕夏の呼吸音が聞こえ、その音を無理やり遮るようにエンディングが入ってくる。
エンディング映像から夕夏の姿は消されていた。まるで最初からそこにいなかったように。
……嘘だ。
これって本当の映像なのか? 夢をみていたとか、そういう話でもなくて?
夕夏が……夕夏が……。
眩暈がし、思わず目を押さえる。
後頭部がズキズキと痛み始める。
全身が目撃したものを受け入れることを拒否しているみたいだった。
間違いだ。きっと、何かの間違いに違いない。来週には幻覚を見ていましたとか、そういう仕掛けがあるはずだ。
そうじゃないといけない。
そうじゃないと、そうじゃないと……。
信じたくない。
「太一さん!」
夕夏の声が聞こえる。僕を呼ぶ声が。
これは幻聴? ……いや、違う。
僕は隣を向く。
夕夏が自らの両手を眺めている。
夕夏の両手は手首から上が無くなっていた。まるで氷が溶けていくように、指先から少しずつ消えていた。
「太一さん……私、私……これ、どうしたら……」
夕夏は両手を差し出し、僕に何かを乞うような恰好になる。
体の消滅はスピードを緩めず、むしろスピードを上げ、どんどん夕夏の体を消滅させていく。
「……夕夏、そんな……どうして……、なんで……なんで今……」
僕はどうすることもできず、消えていく夕夏の体を見る。
「太一さん!」
夕夏はもう一度、僕の名を叫ぶ。僕に助けを求める声。
夕夏と目が合う。
「夕夏!」
手を伸ばし、夕夏の体を掴もうとした。
けれど、もう遅かった。
「太ちー
消滅した。
一瞬にして、消えてしまった。跡形もなかった。
「……夕夏?」
今まで目の前にいたはずなのに。今までは平気だったのに。どうして今さら。
アニメ本編で夕夏が意識不明になったから? アニメとこの夕夏がリンクしているなんて、そんな……。
彼女は今、どうなっているんだ。元の世界に転送されようとしているのか?
それとも……。
夕夏を掴もうとした手は空虚をさまよい、行く当てを失っていた。
夕夏が消滅した。
跡形もなく、この世界から姿を消した。あっけなく、そして突然に。
「夕夏?」
もう一度、名前を呼んだ。返事は返ってこなかった。
僕は椅子から立ち上がり、周りを見渡す。
どこにもいない。
店員が心配そうにこちらを見てくる。
夕夏がいないはずがない。そんなはずがない。
僕は走りだし、コンビニから飛び出る。
「夕夏!!!」
叫び、見渡す。どこにもいない。
「夕夏!!! どこにいる!!」
僕は走り出し、夕夏を探す。けれど、どこにもいない。
公園のベンチにも、公衆トイレの中にも、横断歩道にも、歩道橋の上にも、踏切にも、どこにも、夕夏の姿はない。
僕は思わず立ち止まり、息を整えようとする。叫びながら走ったので、喉が痛い。
どうしてなのだろう。
涙は出てこなかった。
頭痛が酷くなってくる。まるで後頭部を石で殴られているようだ。
実感が持てなかった。
しばらくしたら、夕夏がひょっこり顔を出してくるんじゃないのか。
僕はどうすればいい?
この先、どうすれば……。
あまりに呆気なく終わってしまった夕夏との関係。もう、夕夏の手の感触すら忘れてしまった。
体温を感じず、ただ柔らかいあの手。
背中で感じた、あの体の重み。
黄金に光る髪。
夜空を見上げる、ガラス玉のような瞳。
それらが頭の中から抜け落ちていく。
……僕は本当に夕夏が見えていたのか? そんな考えが頭をよぎる。
僕がただ一人で幻覚を見ていただけで。それで……。
いや、違う!!
確かに、夕夏はいた。僕の目の前に。妄想であるはずがない。
でも、もう……。
体が急に重くなったような気がして、何かに掴もうと手を伸ばした。けれど、何も掴むことができず、僕は膝を地面につけた。
ああ、そっか。
僕は夕夏を支えてなんかいなかったんだ。
僕は、夕夏に支えられていたんだ。
僕は一人、三次元の世界に取り残されてしまった。