第五話 挑戦
両開きの扉を潜り抜けると、僕はまずはじめにホール自体の小ささに多少驚かされた。もっと大きなホールで行われると思っていた。
薄暗い中、僕と四号さんは指定の席に辿り着く。確かに後ろの方の席だったが、それでも舞台との距離は予想していたよりも遠くは無かった。オペラグラスなどを使わなくても、舞台に立つ人の顔は充分ハッキリ見えそうだ。
僕と四号さんの席は右側の通路のすぐ隣だったので、夕夏はその通路に立つことになった。本当は夕夏分の席を確保したかったが、誰も座らない分の席を譲り受けようとすると怪しまれると思ったので、そこは断念した。
満員だったようで、あっというまに座席が埋まっていく。
会場全体が妙な緊張感に包まれていく。
ふと隣に座っている四号さんの方を見ると、鞄からぬいぐるみを一つ取り出し、胸の前で大事そうに抱えた。ぬいぐるみは『サイキックズ』の主要キャラクターで夕夏と同じ班に所属している九里マヤのものだった。ぬいぐるみの大きさは十五センチくらいで、多少デフォルメされたデザインをしている。
この人、ぬいぐるみを持つような人だったか?
イベント開始時間になると、ブザーが鳴り、先ほどまであったざわめきは一瞬で無くなり、会場全体を静寂が包み込む。照明が落ち、辺りが暗くなる。
しばらくの沈黙のあと、爆音で『サイキックズ』のオープニングテーマが流れ始める。
それに続き、司会の男性がスポットライトに当たりながら舞台袖から登場する。司会の男性はマイクを手に持ち、笑顔で話し始める。
「えー、オリジナルテレビアニメ『サイキックズ』二期の放送を記念した今回のイベントの司会を担当いたします。林と申します! 今日はよろしくお願いします! では早速、皆さんにご登場していただきます! ぜひ、大きな拍手でお迎えください!」
流れている曲のボリュームが一段階大きくなり、拍手は会場全体で沸き起こる。
僕は思わず前のめりになる。夕夏も自分の声の主を見逃すまいと目を大きく開け、清水さんを待ち構える。
舞台袖から一人の女性が登場した。
短く切り揃えられた黒髪、夕夏のイメージカラーである橙色を基調としたワンピース、橙色の靴、赤く染まった頬にスラットした体。彼女は笑顔で観客席に手を振りながら舞台中央へと歩いていく。
写真で見た通りだ。間違いない。
彼女が夕夏の声を担当している声優、清水詩織。
夕夏の声優が、確かにそこにいる。
ただしかし、これは……。
「あの人が……」
夕夏が小さくつぶやく。
清水詩織。たしかに整った顔立ちのいわゆる綺麗な人だ。けれど、僕は正直にこう思ってしまった。
意外と普通の人なんだ、と。
清水さんからは特別なオーラとか雰囲気とかを一切感じ取ることができない。街の中ですれ違っても、絶対に気が付かない。僕は清水さんに対して、いささか小さな失望を感じざるを得なかった。
清水さんに続いて、数人の声優さんが列を作って登場してくる。
舞台上に声優さんたち一同が横一列に並ぶ。
「それではお一人ずつ、ご挨拶をお願いします。では、清水さんから」
清水さんはマイクを口元に近づけ、一呼吸置いたのち、笑顔で話し始める。
「今回、『サイキックズ』主人公、木野夕夏を演じました清水詩織です。今日は短いお時間ですが、皆さんと一緒に楽しめたらと思います。よろしくお願いします!」
その後、清水さんは突然、両手を前に大きく広げ始める。
夕夏はその動作にいち早く気がついたのか、身を前に乗り出し、キラキラした瞳で清水さんを見守る。
そこでようやく、僕も気がつく。その動作は僕たちファンには見慣れたものだった。『サイキックズ』でこの動作と言えば、それはただ一つ。
夕夏が能力を使用するときの動作だ。
清水さんは一間置き、あのセリフを言う。二期の第三話、夕夏が敵に追い詰められた味方の元に助けに入り、能力を使用しながらの言う名ゼリフ。
「私の仲間を傷付けるものを、私は絶対に許さない!!」
歓声が湧き上がり、会場のボルテージが一気に舞い上がる。
これは……。
僕はその一言を聞き、雷が落ちたような痺れが全身を覆う。
間違いない。彼女は間違いなくもう一人の夕夏だ。
清水さんはたった一言だけで、まるで魔法少女の変身のように夕夏へと成り代わっていく。街中にいるごく普通の一般人から、人気アニメの主人公へ。本当に魔法を使っているかのようだった。
そこから挨拶は清水さんの隣に立つ声優さんへと交代していく。他の声優さんが担当キャラの声で劇中のセリフを言うたびに客席から歓声が上がる。しかし、僕は清水さんただ一人に目が釘付けで、他の声優さんの声はノイズキャンセリングが入ったようにぐもったようにしか聞こえなかった。
まるで水の中をただ漂っているような、そのような心地の良い感覚に満たされる。
その後、司会の男性は一人ずつ『サイキックズ』のアフレコでの印象的なエピソードを聞いていった。
「そういえば私、清水さんについて一つ、今でも覚えていることがあるんですよ」
瑠璃子役の山口さんがなぜか嬉しそうに話し出す。
「清水さんとは別のアニメでご一緒させていただいたときがあって、『高橋さんは狙い撃ち系女子』っていう深夜アニメなんですけど、その時、清水さんはメインヒロインの高橋さん役をしていて、私がその高橋さんの親友役だったんですよ」
「あー一年前くらい前の現場でしたね」
清水さんがわざとらしい相槌を入れてくる。
「ええ。で、私そのとき、親友役の役作りに悩んでいて、収録当日になっても役を掴みきれずにいたんです。それであーどうしよう!って悩んでいる時に清水さんがポンッて肩を叩いてきて」
「え、そんなカッコイイことをしていたの。任せておけ、みたいな」
はじめ役の佐藤さんが笑いながらツッコミを入れてくる。会場に一瞬、笑いが起きる。
「ははっ。あ、それで、肩を叩いてきて一言言ったんですよ。清水さん、覚えていますか?」
「え、いやー忘れちゃいましたよ」
「『この子は多分、高橋さんに嫉妬しているんじゃないかな』って言ったんです。私、それを聞いて目から鱗で。アニメ自体が日常系だったから嫉妬とかそういう発想にならなくて。そのアドバイスのおかげで収録上手くいったんですよ。そして私、収録後に清水さんにどうして嫉妬しているってわかったんですかって聞いたんです。そしたら清水さん、『高橋さんから嫉妬されているって聞いたの』って答えたんですよ。あれ、どういう意味だったんですか」
皆の注目が清水さんに一気に集まる。
「あーあれは私自身の役作りの話と関係していて、みんな台本渡されたら読み込んでキャラの感情とかを想像したりするじゃないですか。私はちょっと違うときがあるんですよ。基本みんなと同じような感じなんですが、時々、私の目の前にそのキャラが現れて『このときはこういう感情だったよ』とか『あのキャラはこういう性格だったよ』とかを教えて貰うような感じで考えるときがあります。そう考えると私自身とキャラで適切に距離を取ることができて、上手くいくことが多いんです」
「キャラに教えて貰うって面白いですね。今回の夕夏ちゃんもそうなんですか?」
「いや、今回は違います。一から全部自分で考えています。能力使う時の姿勢もちゃんと家で練習してきたんですよ」
「いや、収録関係ないじゃないですか」
もう一度、会場に笑いが起きる。
司会の男性は「では、そんな清水さんは今回の『サイキックズ』のアフレコ現場をどう感じましたか?」と少し脱線した話を元に戻す。
僕は妙に清水さんの話が頭に残った。キャラが目の前に現れる。
比喩的な意味なのは重々承知だが、それでも今の僕の状況に非常によく似ていた。
その後、イベントは円滑に進み続け、あっという間に終わりに近づいた。
清水さんは「今日は、本当にありがとうございました!」と観客に向かって手を振りながら、他の声優さんたちと共に舞台袖へと下がっていく。
その間、もう一度オープニング曲が流れ、観客の拍手も最高潮に達していた。
放心状態の僕は突然、肩を叩かれる。見ると、夕夏が僕の隣に立っている。
「早く行こう」
そうだ。僕はただイベントを楽しむだけにここに来たのでは無い。
僕は軽く頷き、客席に背負ってきたリュックを置いていき、夕夏と共に飛び出す。拍手はまだ鳴り止んでいなかった。
ホール後方にある出入り口から出て、夕夏さんの控え室へ繋がるドアを探す。エントランスには僕たち以外の観客は誰一人おらず、数人のスタッフがすでに撤収作業を初めていた。
一人の女性スタッフがエントラス端にある関係者以外立ち入り禁止の扉を開け、中に入っていく。行き交いの多い扉なのか、赤いカラーコーンが挟まっており、完全に閉まらないようになっていた。
僕は急いでその扉に近づき、撤収中のスタッフに見られないように慎重に中に入る。
中に入ると、長い廊下が奥まで続いていた。台車やカラーコーン、段ボールがいたるところに転がっており、エントランスにあったような高揚感がすぐに無くなるような裏方感、業務感で満ち足りていた。
廊下にはいくつかの扉が並んでいる。
「多分、このどこかに清水さんの控え室があるはずだから」
「でも、廊下からじゃ、どこなのかわからないよ」
「控え室の扉には何かしらの貼り紙があるはずだから、それを見て探せばいい。どうしてもわからなかったら、夕夏が扉をすり抜けて探してみて」
「わかった。じゃあ、他の人に見つかる前に」
「ああ、早く探そう」
僕と夕夏は走り出す。廊下はずっと奥まで続いており、耳を澄ますと拍手が聞こえ、廊下がホールに沿って伸びていることがわかった。
途中、いくつかの扉があったがどれも張り紙がしてなかったりすでに開いており、中を見ると倉庫だったりした。
どこだ? どこだ? どこなんだ?
控え室が見つからないまま廊下は右へと折れる。僕たちは廊下を曲がると、一人、こちらへ歩いて来るスタッフと鉢合わせてしまった。
まずい! と思ったが、スタッフはスマホを眺めながら歩いていたからか、僕の方に目もくれず通り過ぎてしまった。
……セーフ。僕の今の格好は制服なので、まともに見られたらすぐに怪しまれてしまう。なんとか、スタッフに見られる前に清水さんの控え室を見つけないと。
それでも、控え室はなかなか見つからない。
クソッ、どこなんだ!?
「あ、あれ!」
夕夏は立ち止まり、少し先にある一つの扉を指さす。
急いで扉を確認すると、確かに扉に一枚の貼り紙が貼っており、そこには『オリジナルアニメ【サイキックズ】 木野夕夏役 清水詩織さん控え室』と書いてあった。
「ここだ」
扉の前に立つと、体がこわばっていくような感覚になった。
隣にいる夕夏と目が合う。夕夏は小さくうなずく。
僕は、扉をノックする。
しばらくの沈黙の後、部屋の中から扉へ近づく足音が次第に聞こえて来た。
もうすぐだ。今、目の前に。
扉が開く。そこに立っていたのは。
黒いTシャツを着た女性だった。
女性は僕たちを一目見て、「え? 誰?」とつぶやく。
だ、誰だ、この人は。
清水さんでは無い。僕は混乱し、言い訳も何も言えなくなる。
この黒いTシャツは何回も見たことがある。イベントスタッフの格好だ。
「誰?」
イベントスタッフの女性は僕に向かって質問する。彼女の視線は僕の顔から下がっていき、着ている制服で止まる。
「……高校生? 勝手に入ってきたの?」
「あ、いや、その……」
女性スタッフは部屋の中をチラ見し、「清水さん? 勝手に入って、会おうとしたの?」と、問い詰めるように聞いてきた。
ダメだ。このままではまずい。
僕が固まっている間に夕夏は女性スタッフの体をすり抜け、中に入る。しかし、すぐに部屋から出てきて「清水さん、ここにはいない!」と言ってきた。
そんな、ここまで来たのに。なんで。早すぎる。
女性スタッフは廊下を見渡し、「ちょっと! 誰かいる!?」と叫び、他のスタッフを呼ぶ。しかし、どこからも返事は返ってこず、腰につけたトランシーバーから伸びているマイクを口元に近づける。
「すみません。こちら上野です。今、清水さんの控え室に高校生くらいの男の子がやって来て……はい、そうです。はい」
このままでは他のスタッフを呼ばれてしまう。
逃げなければ!
体を翻し、逃げようとすると、「あ! ちょっと!」と、女性スタッフは僕の腕を後ろから掴む。なんとか逃れようと腕を大きく振るも、女性の掴む力が強く、振りほどくことができない。
遠くの方からこちらに向かって走ってくる足音が聞こえる。他のスタッフが集まってきた。本当に まずい。
「誰か! 誰か早く!」
女性スタッフは両手で僕の手を掴んだまま叫ぶ。
「離して!!」
夕夏は女性スタッフに向かって勢いよく蹴りを入れるも、夕夏の足は女性スタッフの体をすり抜けてしまう。
足音の鳴る方を見ると、一人の男性スタッフが走ってやって来た。
もう、本当にダメだ。
これで終わりなのか……。
その時、足音に紛れて何かが聞こえた。
この高い音は、鈴の音?
その音は僕の中に入り、何か啓示のようなものを残していった。
それはすぐに確信に変わる。
そうか。きっとそうだ。
この音の先に、清水さんがいる。
「夕夏! 夕夏!」
僕は大きな声で叫ぶ。
「はい!」
夕夏も大きな声を出し、返事をする。
「夕夏! 僕の腕を引っ張ってくれ!!」
「……わかった!!」
夕夏はすぐさま僕の腕に飛びつき、思いっきり引っ張り、女性スタッフから僕の手を引っこ抜こうとする。大きなカブを抜くように僕と夕夏は息を合わせ、一気に腕を引っ張る。
「うわっ!」
女性スタッフは突然引っ張る力が加わったことに驚き、思わず僕の手を離す。僕と夕夏は後ろに倒れそうになる。なんとか踏ん張り、体の方向を無理やり変え、鈴の音の方へと走り出す。
「あ! ちょっと!!!」
女性スタッフの叫び声がだんだん小さくなっていく。
こちらへ向かっていた男性スタッフは立ち止まり、力士のように大きく手を広げ、僕たちを待ち受ける。
「止まりなさい!!!」
男性スタッフは僕たちに向かって大きな声で叫ぶ。叫び声は壁や床に反響し、僕たちを取り囲むように聞こえる。
どうする!? 壁と彼の間の隙間を縫って行くか!? それとも引き返して別の道で行くか!? いや、そんな余裕はない! でも、もし通り抜けようとした時に男性スタッフに捕まったら? 黒いTシャツから筋肉質の腕が出ている。体格的に今度は抜け出せるような相手ではない。考えている暇はない! でも、どうする!?
「太一さん!! ごめん!!」
僕の後ろからそんな声が聞こえる。
次の瞬間、背中に強い衝撃が走る。
ロケットエンジンが点火したような感じだった。
僕は、男性スタッフに向かって飛び込んでいた。
「え」
え? 何が起きている? 僕はちゃんと地面に足をつけていたはずなのに、どうして?
男性スタッフの目も口も鼻も大きく開けた顔がどんどん近づいてくる。
一瞬、後ろを見た。なびく金髪が見える。夕夏が僕の背中に向かって全身で体当たりしていた。
ごめんって、そういうことかよ。
僕は成す術なく、男性スタッフと正面衝突する。男性スタッフは夕夏の全体重の力がかかった僕の体を受け止めることなど到底できるわけもなく、トラックに引かれたように後ろに吹き飛ばされる。
けれど、ロケットエンジンが切れたのか、僕の体は床に向かって真っ逆さまに落ち……ることはなく、パラシュートが開いたように背中が引っ張られ、体を立て直すことができた。思わず振り返ると、制服の上着を夕夏は掴んでいた。夕夏がパラシュートだったのか。床に激突することなく、再び走り出す。
「太一さん!」
「今度は相談してから行動に移してくれ!」
「ごめん! ……なんで清水さんの居場所がわかるの!? 声でも聞こえたの!?」
「いや、違う! 鈴の音が聞こえたんだ! きっと、その音の先に清水さんがいる!」
「……わけわかんないよ!!」
自分でもよくわからない。ただ一つだけ理由を言うなら、それはきっと、鈴の音とステージで話す清水さんの声がとてもよく似ていたからだ。
廊下は前方で左に折れており、曲がるとすぐ目の前が外への出入り口となっていた。
この扉もエントランス同様、カラーコーンで止められており、開きっぱなしになっていた。
僕と夕夏は外に出る。そこはビルに囲まれた裏路地だった。
周りを見渡すと、出入り口から少し離れた場所に一台のタクシーが止まっている。そのタクシーに乗り込む女性が一人。
清水さんだ。服は登壇したときから変わらず、靴を履き替え、黒縁のメガネをかけ、両耳にはイヤホンをつけている。ベージュ色のトートバッグを肩にかけ、バッグには小さな鈴のストラップが付いていた。
僕たちが清水さんの姿を認識した時にはすでに清水さんはタクシーに乗り込んでおり、後部座席のドアが閉まり、タクシーが発車してしまう。
「清水さん!」
僕は叫びながらタクシーを追いかけて走る。
「清水さん!」
夕夏も叫び、僕の後を追う。
タクシーは一度も止まることなく、僕たちとの距離をどんどん伸ばしていく。
「清水さん!!!」
いくら走っても、走っても、追いつくことができない。
タクシーはしばらく進んだのち、右折し、大通りの道へと出ていってしまった。
ああ……。
それ見届けると、力が無くなったように走るのをやめてしまった。
失敗した。
「太一さん……」
夕夏が遅れてやってくる。
「……ごめん。ダメだった。……本当にごめん」
自分でも情けないと思うような、弱々しい声だった。
約束したのに。夕夏と、約束したのに……。
本当に情けない。清水さんと会わせると約束して、この始末だ。ここまで来た意味が全部無駄になってしまった。
長い沈黙が流れた。絶望と、失望と、倦怠感と、疲労感が混ざり合った最悪な空気。夕夏の顔を見ることができない。
「ちょっと、君!」
大通り側から呼ぶ声がした。
誰だ。イベントスタッフが追いついてきたのか。顔を上げ、声のする方を見る。
そこには、僕のリュックを手に抱えている四号さんが立っていた。
「……大丈夫?」