第四話 三角定規四号
清水詩織。二十九歳。セキグチプロダクション所属。高校卒業後、声優養成所に入所。二十一歳の時に深夜アニメの端役にてデビュー。以後、何本かのアニメで端役を経験。そしてデビューしてから一年後、オーディションの末、とある深夜アニメの主役に大抜擢されることになる。その後、何作品か主役を経験する。次第に彼女の人気も上がり、声優界での地位を確固たるものにする。
普段は包み込んでくるような優し気のある声なのだが、時として切れ味抜群なほど鋭い演技を見せるときがあり、演技の振り幅は大きい。このキャラは清水さんでないと成立しないと言われることもままある。歌は上手なのだが、踊りがまるでできないのが彼女のチャーミングポイントの一つとなっていた。
清水詩織は木野夕夏の声を担当している。『サイキックズ』の主人公の声優が清水詩織になった時も、「この人なら間違いない」「安心して観ることができる」と言われ、放送前から期待されていた。
一期、二期にかけて毎週毎週、夕夏に息を吹き込んでいるのは彼女だ。彼女の声が夕夏の血肉となり、我々視聴者の前に夕夏が登場する。言わば、夕夏と清水詩織は分身の存在。夕夏は清水詩織であり、清水詩織は夕夏であった。それぞれが掛け合わさり、清水さんが声を吹き込むことによって、木野夕夏という存在は命を宿し、動き、話し、笑い、泣くことができる。
「終点、新宿までは各駅停車です」
車内アナウンスが聞こえる。
僕と夕夏はあれから電車に乗り込み、東京へ向かっている。朝方のラッシュを終えた車内は人がまばらで、僕たちは並んで座ることができた。
ポケットに入っているスマホが震え、一件、メッセージを受信する。見てみると両親からの心配のメッセージだった。あの担任が連絡したのか。
僕は「心配しないでください。二、三日で帰ります」とだけ打ち、両親に送信した。
外は雲一つない青空で、窓から容赦なく入ってくる日光によって、僕の影は作り出される。その影は電車が前に進むたび、メトロノームのように大きく弧を描いて動き、ある程度のところまで行くと消えてしまう。そして次の瞬間には動き出しの位置に新しい影ができ、また同じように動いて消える。
しかし、そこには僕の影しかない。夕夏の影はない。僕の影だけが、電車の動きと同調するように大きく動いている。
僕は隣に目をやる。そこには確かに夕夏がいて、物珍しそうに窓の外の風景を眺めている。
僕はこの人を、清水詩織さんの元に連れて行くんだ。
コンビニでバイト代を全部下ろしたので、資金はたんまりある。心配無い。
今日の昼に清水さんが登壇する『サイキックズ』のイベントがある。そこがチャンスだ。
平日、しかも都内で開催されると聞いて、参加をほぼ諦めていたイベントだった。チケットはすでに売り切れていたので、ツイッターで譲ってくれる人を探してみてところ、一枚、後ろの方の席だったが譲ってくれる人がいた。
僕はすぐさまその人にⅮMを送り、連絡を取り合い、定価でチケットを譲ってくれることになった。
すべてが僕を後押しするように、前に進んでいる。
電車はその後、四十分かけて終点の新宿駅に到着し、そこから地下鉄に乗り換えた。
イベント会場の最寄駅に到着したときには慣れない都会に神経をすり減らされ、時間が長い試験を受けさせられたように頭がクラクラしていた。
最寄り駅からイベント会場までは徒歩五分。時刻は午前十一時。僕はチケットを譲り受けるため、DMで約束した場所へと向かう。
「それにしても、運よくチケットを譲ってくれる人がいて、本当によかったね」
夕夏が歩きながら話しかけてくる。都内に出ても、いまだ夕夏の姿が見える人は現れていない。
「うん。……でも、警戒は必要」
「え?」
「お金だけ貰って、チケットを渡さずに逃げるような人なのかもしれないから」
可能性は少ないが、それでもそういう事態を予測しておくに越したことは無いはずだ。
「そのチケットを譲ってくれる人、なんて名前?」
「名前? ああ、アカウント名ね。えっと……『三角定規四号』」
「……? 三角なのに四号? 不思議な名前」
「意味があってつけたような感じもしないし、五秒で決めたとかそういうのなんじゃないかな、たぶん」
「絶妙に信頼できるかどうかわからないラインの名前だね。……そういえば、太一さんのアカウント名は何?」
「『サイキックズ=神』」
「……ありがとうございます」
え、何その芳しくない反応。そんな悪いアカウント名かな? 僕の思いが詰まった名前なのに。
そうこう話している内にあっという間に三角定規四号、通称四号さんから指定された集合場所のイベント会場前に到着した。ここで十一時十分に四号さんと落ち会うことになっている。
周囲を見渡してみると、すでに入場を待っている人が何人かいた。夕夏は周りを眺め、僕に尋ねてくる。
「三角定規四号さんと会うとき、何か指定がなかった? 赤い帽子を被っているとか、青い服を着ているとか。これじゃ、誰が四号さんなのかわからないよ」
「あ、そう言えば何か言ってたな……あ、待って。今、僕って全身制服じゃん」
「? それが?」
「こんな格好じゃあ、授業サボって来ましたって言っているようなものだよ!」
「え? 別に平気じゃない?」
「いやでも、もし授業をサボってイベントに来るなんて不真面目な奴だ、なんて思われたら……チケット渡して貰えないかも」
「さ、最悪、通報されるってこと!?」
つ、通報!? そこまで考えていなかったが、しかし、チケットを譲ってくれない可能性は捨て切れない。まさかここまできてそんなことに気がつくなんて。僕はなんて馬鹿なんだ。
「ちょ、え、ど、どうしよう! どこか服屋に行って、服買って、それで」
事態の危うさに遅れて気が付いた夕夏は、わかりやすく取り乱す。
「服屋って、そんなの近くで見なかったし、地図とか見て探さないと」
「どうする!? どうしよう!? あ、太一さんの服と私の服を交換すれば! 万事大解決! 大成功! 大平和!」
「いやそれじゃ全裸の男が一人誕生するだけだよ!」
「あのー」
「はい!?」
僕たちはどこからともなく現れた声に思わず返事をし、反射的に声の主の方を向く。
そこには四十代くらいのスーツ姿の男性が一人、立っていた。
病的なほど暗い目つきに、スーツの上からでもわかる体の細さ。健康的な細さではなく、確実に不健康から形成されている体。しぼんでいる風船みたいだ。それでも僕よりも背が高く、左手にスマートウォッチをつけ、通勤用の片手鞄を下げている。髪は全体的に短く整えられており、ワックスでガチガチに固められている。目の下にある大きなくまが、細いよりも長い印象の体と合わさり、男性から妖怪じみた何かを連想させる。
誰? もしかしてイベントスタッフ? いや、スタッフがスーツのわけがないし、もしかして、不機嫌な会社員が騒いでいる僕たちを注意しに来たのか?
スーツ姿の男性は僕の顔をまじまじと観察するように眺め、「あのー、『サイキックズ=神』さん?」と、聞いてきた。
へ? どうして僕のアカウント名を……あ、そういえば、四号さんと待ち合わせるときの指定に『スーツを着ている』があったような……。
「……『三角定規四号』さん?」
「うん、そう。……あの、あんまりアカウント名を大きな声で言わないで。恥ずかしいから」
四号さんは砕けたようにニヤッと笑う。
気が付くと、先ほどまで散々騒いでいた夕夏は僕の影に隠れ、四号さんを怪しい目で観察していた。初めてお客さんに会った子猫みたいだ。
「じゃあ、これ。例のチケット」
四号さんは懐のポケットからチケットを一枚取り出し、僕の目の前に差し出す。そこにあるのは間違いなく『サイキックズ』のイベントチケットだった。
「ⅮMで言うの忘れてたけど、このチケット、僕の隣の席のものなんだけど、それでも大丈夫?」
「え、ああ、全然大丈夫です。バッチリです」
「ほんと。あー良かった。このチケット、一緒に来るはずだった友人の分なんだ。そいつが行けなくなって、俺に『どうにかこの席を埋めて、サイキックズの声優さんたちを悲しませないようにしてくれ』って言われちゃってさ。俺みたいな奴が隣とか嫌だとか言われちゃったらどうしようって内心びくびくしていたんだよ」
四号さんは緊張の糸が解けたのか、ホッとした表情になる。
この人、こんな表情ができるのか。不気味なイメージが崩れていく。目の下にある大きなクマも、チャーミングポイントに見えてくる。
「あの……これ、チケット代です」
僕は財布から千円札と五千円札をそれぞれ一枚ずつ取り出し、四号さんの前に差し出す。
四号さんは六千円をじっと見つめ、丁寧な手つきで千円札だけを抜き取る。僕の手元に五千円札が残る。
「? あの、定価って六千円ですよね?」
「うん、そうだけど、君、見たところ高校生でしょ。しかもこの時間帯だと、授業サボってここに来たタチでしょ」
うわ、やっぱりバレていたか。なんだ? 早く帰って授業受けろとか言い出すのか?
緊張が顔に出てしまったのか、四号さんは「ああ別に、説教をしたいわけじゃないんだ」と手を振る。
「ただ俺は君を応援したいだけなんだ。授業を抜け出してまで来るなんて、相当なファンだろ。君みたいな歳でそこまでして来るなんて、将来有望じゃないか。俺が高校生のときはお金がなくて円盤とかグッズとか欲しくても買えなくてね。自分も一緒に好きなアニメを盛り上げたいのにって、悔しくてね。だからせめて、君にはそういう思いをしてほしくないんだ。君は言われなくても、青春の全部をアニメに費やすだろ。世間はあまりいい目で見てこないかもしれないけど、僕はそれを止めたくないんだ。むしろ、応援したい。だからこの五千円は自分のために、アニメのために使ってほしい。……まぁ、おっさんの変な期待という風に受け取ってもらえばいいから」
最後に四号さんは僕の肩をポンッと優しく叩いた。
このときすでに、僕の中で四号さんを良い人認定していた。いや、認定したなんて上から言えない。させていただいた。
こんな人、今まで出会ったことが無かった。僕の周りにいたのはいつも僕と二次元の関係性を馬鹿にしてくるような奴だけだった。
夕夏が僕の後ろに隠れながら、「よかったね!」と言ってくる。
「……うん」
思わず、目頭が熱くなる。
「……ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げた。
四号さんは照れたように頬をかく。
「どういたしまして」
僕は四号さんからチケットを受け取り、開場開始を待った。その間、僕と四号さんは話さず、ただじっと待っていただけなのだが、不思議と気まずい沈黙にはならなかった。お互いがそれぞれイベントに向けて英気を養うような、そんな心地のよい緊張感があった。
僕たち以外にイベント会場近くで待っている人たちもそうだった。誰も大きな声を出さず、ただじっと待つ。周囲には張り詰めたような雰囲気があったが、それもイベントを盛り上げるための過程のように皆がそれぞれやるべきことをしていた。ある人はタブレットで『サイキックズ』を見返し、ある人は集中力を高めるためなのか、ただ目を瞑り、ある人は友人と迷惑にならないように小さな声で何かを話している。
世間での認知度も上がり始めているということで、クラスの連中のようにうるさい奴らがいくらかいると思ったが、予想に反してそのような輩は一人もいなかった。世間の認知度が上がってきたのはつい最近で、まだイベントには騒ぐだけしか脳が無いような人たちは来ないのか。もしくは、来ているのにこの開場前の雰囲気で静かにしているのかのどちらかだろう。
夕夏は緊張しているのか、僕に話しかけようとせず、少し離れた縁石に座ってただ黙って開場の時間を待っていた。
僕は夕夏に近づいて、話しかける。
「夕夏。清水さんに会いに行くのはイベントが終わってからにしよう」
「……どうして?」
「イベント中に清水さんの前に夕夏が現れて、もし清水さんが夕夏の姿を見えていたら、清水さんはイベントどころではないと思うんだ。僕たちはイベントの邪魔に来たんじゃない。ただ、清水さんのところにたどり着けばいい。だから、イベント中は静かに待機して、終わって清水さんが控え室に戻るときを狙うんだ。それでどう?」
「うん、賛成」
「……僕が必ず、清水さんに夕夏を会わせるから」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。
建物の中から黒いTシャツを着たイベントスタッフが出てきた。彼は拡声器を使い、「ただいまより、アニメ『サイキックズ』のイベントを開場いたします。チケットをお持ちの方は……」と、周囲に促し始める。続々と入場口に人が集まって来る。僕は縁石に座っている夕夏に手を差し伸べる。
「じゃあ……そろそろ行こうか」
夕夏は迷わず僕の手を取る。
「うん!」
そして勢いよく立ち上がる。
僕は確かな緊張感を抱きながら、チケットを手に持ち、四号さん、夕夏と共に入場口へと向かう。
僕の手に握られたチケットはすぐに汗でシワシワによれてしまった。