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第三話 旅立ち

 スマホの不愉快な目覚ましアラームが耳元で鳴り響き、僕は目を覚ます。世界の不愉快な音ランキングがあったら、きっと目覚ましの音は上位に食い込むはずだ。こんなの、一種の拷問だ。

 体中に昨日の疲労感が残っており、重りを背負ったように体が重い。頭も少しだけ痛い。二日酔いってこんな感じなのかな。こんな限界サラリーマンのような体調で高校に行くなんて、それだけで犯罪なのではないだろうか。決して許されることじゃない。それでも出席のために高校に行かなければならない。日本はバイトをした高校生は翌日、学校を休まなければならないという法律を一刻も早く作るべきだ。

 ……そう言えば、なぜ僕は床に寝ているんだ。格好も昨日から変わらず制服のままだ。すぐ隣にベッドがあるのにわざわざ固い床に寝るなんて。寝坊が悪すぎてベッドから落ちたのか?

 重い体をゆっくりと起こしながら、思い出す。そういえば昨日、夕夏がいたような。

 いやいや、そんなわけないだろ。そんな非現実なこと、あるわけが無い。一晩寝ればわかることだ。子供でもわかる。

 アニメキャラがこの世界にいるわけがない。僕はついにアニメと現実をごちゃ混ぜにするようになってしまったのか。

 僕は眠い目を擦りながら、ふとベッドの方に目を向ける。

 ……いや、やはりそうなのか。

 そうだよな。こんなにも鮮明に覚えているのに、夢のはずがないよな。

 誰もいないはずのベッドの上には、戦闘服の夕夏がいた。ぐっすりと寝ており、小さな肩は呼吸と共にゆっくりと上下に動いている。

 昨日はあまり感じなかったのに。

 僕の心臓はすでに高鳴っていた。顔面が熱くなる。

 夢に焦がれていたあの人が、僕がいつも寝ているベッドに横になっている。そんなことあっていいのか? 犯罪じゃないよね?

 それにしても彼女の寝顔って、こんな感じなんだ。子供のような幼い寝顔。見ているとなんだか、幸せな気持ちになってくる。

 ……可愛い。

 ……こうしていつまでも彼女の寝顔を眺めている時間はない。

 悲鳴をあげている体を踏ん張って無理やり立ち上げ、クローゼットから洗濯済みのワイシャツ、インナーシャツ、靴下を取り出し、着替えるためにトイレに向かう。  

そのとき、夕夏は突然唸り出し、機嫌の悪い猫のようにもっさりとした動きで起き上がる。目はまだうつろで、完全に目覚めていないようだ。なんなら、まだ寝ているんじゃないかと疑いたくなる。

「……お、おはよう。夕夏」

 あまりの緊張から、思わず声が裏返ってしまう。

 彼女は僕の挨拶の後、小さく何かをつぶやく。しかし、声があまりにも小さく、よく聞こえない。僕は聞き取るために夕夏に近づく。再び夕夏はつぶやく。

「そのサバ缶はまだ重ねられるはずだから、もっとよく考えて車にぶつけて」

 え? 何を言っているの?

 夕夏は謎の寝言を言い残し、体を起こした状態でもう一度寝てしまった。

 まさか、夕夏にこんな秘密があるなんて。ノベライズにも、コミカライズにも、ボイスドラマにも、アニメ本編にも、設定資料にも書かれていない夕夏の設定。

 夕夏は朝に死ぬほど弱い。

 そんなこんなで僕は着替えを終え、トイレから出てくると、夕夏は壁に沿うように立っている全身鏡の前に立っていた。鏡には夕夏の姿は写っていなかった。

 夕夏は鏡に写る僕に気がつき、振り返り、「おはよっ!」とハツラツに挨拶してくる。

「おはよう……、起きたんだ」

「うん。びっくりしたよ。目を覚ましたら一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって。男子高校生に転生したのかと思った」

 さっきの謎寝言は覚えてないんだ。

 昨日の僕に対しての警戒心は無くなったのか、アニメのときのような明るい口調に戻っている。少しでも、僕のことを信用してくれたようだ。

 夕夏は襟元を正し、僕に向かって気をつけの姿勢を取り、「泊めてくれて、本当にありがとう!」と、頭を下げた。

「あ、いや、ぜ、全然大丈夫だから。そんなに頭を下げないで」

 好きなキャラに頭を下げられるなんて。なんだか三割り増しで申し訳なくなってくる。

「でも! あのとき太一さんが私を家に連れてこなかったら、どうなっていたことか! 最悪、野宿だったのかも。見ての通り、鏡にも映らないみたいだし」

 振り返り、鏡の方を向く夕夏。そこには僕しか写っておらず、夕夏の髪の毛一本も写っていなかった。

「それに、写らないだけじゃなくて」

 夕夏は鏡に向かって手を伸ばす。

 鏡に触れた瞬間、夕夏の手が鏡の中に入っていく。あっという間に肘まで入ってしまう。いや、違う。腕が鏡の中に入っていったのではない。手が鏡をすり抜けたんだ。夕夏の手は実体がなく、掴もうとするとホログラムでてきたみたいに手からすり抜けてしまうんだ。

 夕夏は手を鏡に突っ込んだまま、腕を横にスライドしていく。鏡の横にある本棚に手がめり込んでいく。そこにある本にもフィギュアにも何にも当たらず、夕夏の手は通り過ぎていく。

 そのまま夕夏の手は弧を描くように僕の方にやって来て、僕の肩に触れる。夕夏の手は通り過ぎることなく、僕の肩に触れて止まった。

「この部屋にある物は全部触れることができなかった。能力で掴もうとしたけど、能力も使えなかった。でも、なぜか太一さんには触れることができる。それに、床をすり抜けて一階に落ちることも無いし、ベッドの上で寝ることもできる。じゃあ、足の裏で触れることができるのかなって試してみたけど、ダメだった。足の裏でも、立つこと以外で触れると通り抜けてしまうみたい」

「そうなんだ……」

「幽霊みたいな、不思議な体」

 夕夏は伸ばした手に自ら触れる。自分で自分に触れることはできるのに、それ以外は触れることができない。

「……あ、僕、これから高校に行くんだけど」

「え、そうなの?」

「夕夏はどうする?」

「どうするって……」

「この部屋にいたいなら、いてもいいよ」

「……ここを出て、太一さん以外に私の姿が見える人を探そうと思う。本当は元いた世界に戻る方法を模索したいんだけど、先にこの世界の味方を増やしたい」

「そっか……その仲間探しはどこに行くつもりなの?」

「なるべく人の多いところがいいんだけど、この辺の地理は詳しくないし……あ」

「え?」

 夕夏が僕の顔を見て、ニンマリと笑う。

「高校、ついて行っていい?」

「……ほんと?」

「ほんと、マジマジ」

 僕としては、高校はあまり夕夏について来て欲しくない場所だ。動物園みたいにうるさいところだし、授業を受けているだけだし、そしてなりより、友達もおらず、一人で過ごしている僕の姿を見て欲しくなかった。幻滅されるとかはないだろうけど、ちょっとした残念感は拭えない。

「べ、別に僕が通っている高校じゃなくて、もっと人がいる大きな駅とか町とかに行けばいいじゃないかな」

「でも、今の状況で一人になるのは怖いし……それなら、高校に行けば太一さんと一緒にいれるし、人も多いし、探す場所としては申し分ないんじゃないの?」

 ……そう言われると、何も言えなくなる。

「お願い! 太一さんの邪魔はしないから!!」

 夕夏は手を合わせ、期待の眼差しで僕を見てくる。好きなキャラからそんな目で見られたら……。

「……わかった。ついて来ていいよ」

「ありがとう!」

 満面の笑みで笑いかけてくる夕夏。ま、眩しい! 目が焼かれる!

「じ、じゃあ、二十分後に出発するから」

「了解!」

 夕夏は寝癖で乱れた髪を手で軽く抑え、敬礼のような姿勢を取る。

 まさか、こんなことになるなんて。僕は若干の後悔を抱えながら、二限で使う教科書を机の上から取り、通学用のリュックに入れる。

 その後、僕と夕夏は身支度を済ませ、高校に向かうために家を出た。玄関で今度は母親に会ったが、「あんた、朝ごはんちゃんと食べていかないと力が出なくて、駅のホームに落ちて上がれなくなるよ」と不思議小言を言うだけで、父親と同じように夕夏の姿は見えていないようだった。

「……行ってきます」

 僕と夕夏は家を出て、夜中歩いた道を逆戻りして駅を目指す。

 朝の住宅街を憧れのキャラと並んで歩いていると、なんだか恥ずかしくなってくる。

やはり夕夏は他人から見えていないようで、僕までも見えていないのではないかと疑いたくなるほど、すれ違う通行人は僕たちに見向きしないで通り過ぎる。

 夕夏の目には夜の住宅街と朝の住宅街は違う景色に見えているらしく、僕の少し先を歩き、目を輝かせながら周りを眺めていた。

 ふと、夕夏が立ち止まって振り返り、「そういえば、私の声優さんってどんな人?」と、聞いてきた。

 僕はスマホをズボンのポケットから取り出し、一人の女性声優の宣材写真を表示させ、夕夏に見せる。女性は二十代後半くらいの年齢で、ロングの黒髪で白いワンピースを着ており、カメラに向かって微笑んでいる。

「名前は清水詩織。人気声優の一人」

 夕夏はまじまじと清水さんの宣材写真を見る。

「綺麗な人。私と全然似てない。声は一緒なのに。……なんだか、この写真を見ていると生き別れのお姉さんを見ているような感覚になってくる」

「まぁ、どちらかというと双子の方が合っているかもね」

「……清水、詩織」

 小さくつぶやき、夕夏はスマホから顔を上げ、再び歩き出す。

 もしこの人と夕夏が会うことになったら、一体どうなるのだろうか? 清水さんは夕夏のことを認識してくれるのか。双子よりも近い二人。もはや分身に近い。ふと、ある都市伝説を思い出す。自分のドッペルゲンガーと出会ってしまうと、死んでしまう。じゃあ、もし、もう一人の自分が二次元の世界からの住人なら、どうなるのか。二人は、どんな話をするのだろうか。

 そうやって歩いていると、僕たちはあっという間に駅に到着した。

 相変わらず朝のラッシュ時の駅のホームは人で混雑しており、疲労感が抜け切れていない僕の体は重力をひしひしと感じ、何とか踏ん張り、電車に乗り込む列に並ぶ。

 夕夏は列から離れた場所に立ち、大きく息を吸う。

「うわあああ!!! 誰か私の声聞こえる!!!???」

 夕夏はホーム中に聞こえるように叫ぶ。僕は思わず耳を手で塞ぐ。

 しかし、誰一人として夕夏の声に気が付かない。

「誰か一人くらいいるでしょ!!!!! あああ!!!!! うわあああ!!!!」

 こんなに人がいるのに、と声が聞こえてくるような叫びだった。夕夏自身、自分を認知できるのが僕だけだということに焦りを感じているのだろう。

 その後、何度か叫び、手当たり次第色々な人に触れていったが、どの人の体もすり抜けていくだけだった。

 それらは一つずつ丁寧に夕夏の存在を否定していくような行為だった。自分の存在が他人に認知されていないということが明確になるにつれ、先ほどまでの楽しげな夕夏の姿は無くなっていった。

 ホームに電車到着を知らせるアナウンスが流れ、電車が不快な金属音を鳴り響かせながらホームに滑り込んで来る。停止し、扉が勢いよく開くと中から我先にと大勢の人が溢れ出てくる。

 夕夏は、はぐれないようにと僕の制服の裾を掴む。僕だけが夕夏の存在を認知することができる。そこに優越感を一切感じないとは言い切れなかった。

 並んでいる列が動き出し、僕と夕夏は電車に乗り込む。超満員というほどでは無かったが、それでも自由に身動きを取ることはできなかった。

 僕は夕夏を扉の端に滑り込ませ、夕夏を取り囲むような形で立つ。

 電車は大きく揺れながら動き出し、どんどんスピードを上げていく。扉がカタカタと震える。夕夏は扉の端でじっとしている。僕は銀色の手すりを掴み、踏ん張って夕夏のスペースをなんとか確保する。

 他人から見れば、僕は無駄にスペースを開けている奴なのだが、そんなの気にしなかった。先ほどの誰も夕夏を認知しない光景を見た後だと、夕夏がいるということを示す行為をしなければならないと思った。

 僕が彼女を守らなければ。

 僕だけが、彼女の味方になることができるのだ。

 電車を降り、高校に一直線で通じる道を僕と夕夏は歩く。十分も歩けばすぐに高校に到着する。

 辺りを見回すと他の生徒たちが歩いている。グループを作り、これからの一日が楽しいものになると約束されているかのような笑い声で話す女子グループ。気だるい朝に耐えきれず、黙って並んで歩く男子グループ。そこからあぶり出され、心底世の中のことを馬鹿にしている僕のような人たちが数人、それぞれ一人で歩いている。

 僕はただ道を歩いているだけで、序列が決まっていくかのようなこの時間が嫌いだった。一本道なので、逃げることができない。

 しかし、今日は違った。僕の隣には夕夏がいる。夕夏は女子の制服を物欲しそうに眺めていた。

「太一さん、太一さん」

 夕夏がちょいちょいと、僕を呼ぶ。

「何?」

「あの女子の制服って、いたって標準?」

 夕夏は女子グループの方を指さす。

「そうだけど、なんで?」

「いや、こっちの世界の制服ってこんなにもカッコイイんだと思って」

「え? そう? アニメに出てくる制服の方がよくない?」

「着方が、カッコイイ」

 僕は女子グループに目を向ける。コートを上から着ているのにスカートを限界まで上げ、上下でアンバランスになっている人。わざと袖を余らせ、ブレザーの袖から出す人。パーカーの上にブレザーを着て、首元からフードを出す人。向こうの世界から見ればカッコよく見えるのか。

「……でも、夕夏が着ている戦闘服の方がいいけどなぁ」

 僕は無自覚に言葉をこぼす。

「え! ホントに!」

 夕夏は目を輝かせ、僕を見てくる。……まさか聞かれていたとは。

「う、うん。それはもちろん」

 僕は変にお世辞くさいことしか言えなかった。

 夕夏は「えへへ~」と嬉しそうにその場でくるっと回った。夕夏のスカートが花びらみたいにふわっと膨らむ。

 ただ隣に夕夏がいてくれるだけで、僕は体が軽くなるような気がした。

 僕と夕夏は校舎に入り、階段を上り、教室へと向かう。挨拶をしてくる友人なんて、一人もいない。

 ……なんだか今日の高校は変な感じがする。拭いきれない違和感のような、何かを見落としているかのような。

 その違和感の正体がわからないまま、僕は教室に入る。教室内には既に大半の生徒が出そろっており、各々談笑している。昨日の渋谷の戦利品はなんだとか、彼女とどれくらいまでいったとか、部活の顧問の悪口とか、色々、飽きもせず。

 相変わらず、夕夏の姿に反応する人は誰一人としていなかった。

 時々、騒音で近所の人から通報が入って来るんじゃないかと思うほど鋭い声で大きく笑う女子グループの声が聞こえる。声帯どうなっているんだよ。ボイストレーニング受けているのかよ。

 ……ん? あの女子たちの会話。

 耳を澄まして聞き取ろうとした時、担任の教師がけだるそうに入ってきた。クラスの連中がゆっくりとした動きで各々の席へ着く。

 僕は一番後ろの中央の席に座る。夕夏も遅れて僕の席に行き、僕の隣に立ち、後方の壁にもたれ掛かる。

「授業参観みたい」

「ジュギョウサンカン?」

「いや、何でもない」

 担任は何かの資料が挟まったバインダーやら、教員用の教科書が入ったプラスチックの籠やらを教卓の上に置く。

「おら、早く座れ~」

 保健体育を担当している担任。いつもスポーツウェアを着ており、首からストップウォッチを下げている。クラスの陽の男女からの人気も高い。僕のような暗い奴をほぼ無視してくるような担任だ。

 そんな担任は朝の眠たさを隠さずに、ゆっくりとした調子で今日の連絡事項を挙げていく。特に変わったことは無し。皆、今日一日頑張るように。といういつもの言葉で朝のホームルームは終わる。

 その、はずだった。

 担任は思い出したように話し始める。

「そういえば、俺、最近アニメ観るのにハマっているんだ。今までそんなの中学生以降観てなかったんだけど、最近、電車のCMでとあるアニメを見かけてさ、気になって見てみたんだ。そうしたらそのアニメに一気にハマっちゃってさ」

「そういうの見るんだー」「意外ー」と、どこからともなく聞こえてくる。

 僕のそれに同意見だった。担任はスポーツ命のような性格で、アニメとは全くの疎遠だと思っていた。漫画とアニメの違いもわからないんじゃないか?

「いや、本当に最近のアニメって面白いのな。皆も知っているか? 『サイキックズ』っていうアニメ」

 頭を金づちで殴られたような衝撃だった。

 今、なんて言った? 

 担任の口から『サイキックズ』という言葉が出た? 

 これは現実か? 僕は夢を見ているのか?

「『サイキックズ』。めちゃくちゃ面白いよ。そうだ。ちなみに観たことあるっていう人、手挙げてみて」

 何を言っているんだ。深夜に放送している美少女アニメなんて、そんなの僕以外観ているわけないだろ。

 僕は恐る恐る、周りを見渡した。

「え?」

 クラスの大半が、手を挙げていた。

 先ほどまで大声で話していた一軍女子グループも、ヤリチンで噂のサッカー部の奴も、生徒会長をしている真面目なあいつも手を挙げている。

「おお~結構皆観ているんだな」

 担任はなぜか嬉しそうだった。

 そこでやっとわかった。今朝の違和感。校舎に入ってからの違和感。

『サイキックズ』の話を女子グループはしていたんだ。

 『サイキックズ』がここまで世間に浸透しているとは思っていなかった。オリジナルの深夜アニメなんて、僕のような奴しか見ていないはずなんじゃないのか?

 隣を向くと、夕夏が驚きの顔で立ち尽くしている。

 僕は手を挙げることができなかった。手を挙げてしまったら、夕夏が消えていなくなってしまうような気がしたから。挙げてしまったら、ここにいる夕夏は僕だけの夕夏ではなくなってしまう。夕夏が僕の元から離れて、あちら側に行ってしまうような気がした。

 担任と生徒たちは『サイキックズ』の話題で盛り上がっている。『サイキックズ』の登場キャラのストラップを持っている輩もいた。

「夕夏がめちゃくちゃ可愛くて」

「私、前のオープニングの方が好きだったな」

「えー今の方がよくない?」

「夕夏、声優の人も美人なんだよな」

「うわ、マジじゃん」

「この人、『サイキックズ』で売れたんでしょ」

「馬鹿。もっと前から出てたわ」

 ……嫌だ。

 ここにいたくない。

 一刻も早く、この場所から逃げ出したい。

 早く逃げないと、僕の、僕だけの夕夏が……。

 気が付いたら、荷物を持って教室から飛び出していた。クラスの連中は驚きの顔を見せてくる。「何?」「どうしたの?」という声が聞こえてくる。

「おい! どうした!? ホームルームの途中だぞ!」

 担任が教室から飛び出した僕に向かって叫ぶ。

それらの声は僕を捕まえようとしてくる。僕を捕まえ、僕の元から夕夏を引き剝がそうとしてくる。

 だから、走った。

 途中、生活指導の女性教師と鉢合わせ、怒鳴り声で注意されたが、構わず走った。震える手で下駄箱から靴を取り出し、履き、外へ飛び出す。

 こんなところにいてはいけない。僕が崩れ始めている。あの校舎にいる連中が僕をドロドロに溶かし、原型を留めないくらいぐちゃぐちゃにしてくる。

 嫌だ。こんなこと、信じたくない。嘘であってほしい。僕には『サイキックズ』しかないと信じていたのに。

 どうしてそれさえも、あいつらは奪ってくるんだ。

 すぐに息が切れ、足を止める。気が付くと、駅の近くまで走っていた。

 周りを見渡す。教師陣は追いかけて来ていない。

 そこでようやく息を整え始める。全身から汗が吹き出し、足ががくがくと震えている。両手を膝につけ、地面に顔を向ける。目の焦点が合わず、薄汚れたコンクリートがぼやけて見える。

 違う。焦点が合わないんじゃない。涙が目に溜まっているんだ。なんだよ。高校生にもなって泣くのかよ。クソッ。自分が情けなくなってくる。

 僕の好きなアニメが世間で盛り上がっている。

 別にいいことじゃないか。視聴者は増え、製作者たちにお金が入る。喜ばしいことじゃないか。

 そう思い込んでも涙は溜まり続け、溢れ出てくる。コンクリートの地面に涙が落ちる。なんなんだよ。僕って実はこんなに心が狭い奴だったのか? いまだに、深夜アニメが世間一般に広まっていないと考えていたのか。誰の目から見ても喜ばしいことのはずなのに、僕の心はどうしてここまで苦しいんだ。恥ずかしいんだ。悔しいんだ。

「太一さん!」

 声が聞こえた。

 顔を上げると、夕夏がこちらに向かって走っていた。

 夕夏。

 夕夏は僕の方へ走って来てくれた。あのクラスに留まらず、僕の元へ走って来てくれた。

 夕夏はひどく心配した表情で僕を見てくる。僕だけを、見てくれる。

 それなのに、世間は僕から夕夏を引き剥がそうとしてくる。彼女を一人の人間としてではなく、人気アニメの登場キャラクターということを痛いほど再確認させてくる。彼女は決して僕の手の届かない場所にいて、その場所は僕以外の誰にでも覗き込むことができる。

 そんなこと、十も承知だったはずなのに。

 それなのに、どうして僕の心はここまで苦しめられなければならないのだろうか。

 好きであればあるほど、僕の手から離れていってしまう。

「……いっそのこと、死んでしまいたい」

 思わず、僕の口から出ていた。僕の体の中から出たはずなのに、僕自身が一番驚いていた。

 死んでどうする? 運よくこの世界からおさらばでき、二次元の世界へと行くことができると思っているのか。そんなこと、あるわけないのに。

 でも、そうなってほしいと心の奥底から思っている自分もいる。こんな現実、生きている意味があるのか?

 いっそのこと、この世からいなくなってしまえば楽になれるんじゃないのか?

 あとは、死ぬ勇気があるかどうかだけだった。

 ……そこで思い知る。僕にはそんな勇気、一ミリも存在していないということを。惨めでも、この世にいたいという生の本能しか感じることができない。

 本当の意味で二次元の世界に身を投げることなんて、僕にはできないんだ。

 でも、三次元の世界で一人で生きていく勇気も自信も無い。

「……まだ、死んじゃだめ」

 夕夏は僕の言葉に対して、そう返した。

 僕の言葉は誰に向けた言葉でもなかった。そのまま空気中に消えてしまっても構わなかった。そんな言葉を、夕夏は掴んでくれた。

「私、一つ決めた。この先のこと」

 夕夏は一度息を吸い、ゆっくりと口に出す。

「私、自分の声優さんに会いに行こうと思う」

「……え? 自分の声優って、……清水詩織?」

「うん」

 夕夏は大きくうなずいた。

 声優に? どうして? なんのために? 

 夕夏が何を言っているのか、よくわからなかった。

「私、清水さんなら、私のことが見える気がする」

「……どうしてそう決めつけるんだ?」

「勘」

「か、勘!?」

「勘というか、予感というか……。教室の皆が私の話をしているとき、私と清水さんが同一人物かのように話していた。確かに、私と清水さんは同じ声という強い繋がりがある」

「だから、見えるかもしれないって思ったの? ……そんな、根拠のないこと」

「でも、私は自分の直観を信じたい。それしか、信じることができるものがないから」

 それに縋るしかないからと、夕夏は最後につぶやいた。彼女が生きるために信じることができるもの。僕にそこまで信じることができるものがあるのか……。

 夕夏は僕に手を差し伸べてくる。

「私を声優さんのところまで連れて行ってくれる?」

 僕は差し伸ばされた手を見つめる。

「無茶なお願いだと思うし、太一さんにとってのメリットなんか何も無い。でも、私には太一さんの力が必要なの」

 ああ、そうか。僕にも信じることができるものがある。今、目の前にいるじゃないか。

 僕が夕夏を声優さんのところまで連れて行く。そんなことが可能なのだろうか。しかも、世間から見ればあまり褒められた行動では無い。ストーカー行為と言われても否定できない。

 再び、僕の手から夕夏が引き剥がされていくような感覚に襲われる。手のひらの薄皮をゆっくりと剥がされていくような、不快な感覚。

 もし、失敗したら。停学になるのかな。それとも退学になってしまうかな。

 それでも、夕夏のためなら。

 夕夏が望むことなら。

 僕は夕夏の手を握る。

「わかった」

 夕夏の手から体温を感じ取ることはできなかった。冷たくも、温かくもなかったけれど、握り返してくる力やその柔らかい感触は確かに感じた。

 僕たちの間に次元の壁は存在しない。

「僕がきっと、夕夏を声優さんの元に連れていく。約束するよ」

 そうして、僕と夕夏の旅が始まった。


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