第十二話 濡れた体
途中から雨が降ってきた。僕たちは傘を持っていなかったので走ってマンションに戻った。
雨に濡れた体のまま、僕たちは玄関に飛び込む。
「タオル持ってくるから」
ノアさんは靴を脱ぎ、ペタペタと音を出しながら洗面所に向かう。
一眼レフは水浸しになっていた。僕は服の裾を使って拭く。もう、壊れてしまったのではないか。
遠くの方で雷が落ちる音が聞こえた。雨が降ってきてくれてよかった。僕とノアさんはあの河川敷での一触即発からお互いに黙り込み、事務的に写真を撮り続けた。いるだけで息苦しかった。
ノアさんがバスタオル二枚を持って戻ってくる。一枚、僕に渡す。
「……ありがとうございます」
「うん」
ノアさんは自分の体よりも先に一眼レフを拭く。僕も黙って、自分の体を拭く。
僕らは話さず、気まずい空気が流れる。もう一度、雷が落ちる音が聞こえる。
「午後……写真撮りに行くんですか?」
「……もう少し回りたいところがあるから、行く。……だから、午後もよろしく」
「え? 午後もついて行くんですか?」
「え? ついて来てくれないの?」
僕らはお互いに顔を見合わせる。
「……さっきは、あんなこと言ってすみませんでした」
「いや……私もあんまりよくない態度だった。ごめん」
ノアさんは身震いし、大きくくしゃみをする。
「……ちょっとシャワー浴びて、体あたためてくる。君も次入るでしょ」
ノアさんは僕の返事を聞かずに浴室の方へ行ってしまった。
僕はノアさんが浴室に入ったのをしっかり確認し、玄関の段差に腰かけ、雨を含んで重くなった靴とTシャツを脱ぎ、上裸になる。タオルで冷えた体を拭く。
浴室からシャワー出る音が聞こえてくる。熱気がかすかに伝わってくる。
「おーい」
浴室からノアさんの呼ぶ声。
「すぐ洗濯するから、タオルと着てた服、洗濯機に入れといてー」
僕は返事をせず、髪の毛をわしゃわしゃと雑にタオルで拭きながら立ち上がり、浴室に向かう。
扉を数回ノックし、「入ります」と扉を開ける。曇りガラスの扉越しにノアさんのシルエットが見える。かすかに石鹸の甘い香りがした。
僕は洗濯機にタオルとTシャツを突っ込み、さっさと退散しようとした時、「洗濯機に入れた?」と、曇りガラスの向こう側から声をかけられた。
「はい」
スポンジか何かで体を洗っているのだろうか。何かと何かが擦れる音が聞こえる。
浴室の扉を見ると、ノアさんのシルエットが動いているのが見える。細部までは見えないが、動き方からしてスポンジで腕を擦っているようだった。
思わず、唾を飲み込む。
シャワーの熱のせいなのか、体が火照っているような気がする。女性が扉を挟み、裸で立っている。その状況を今さらながら実感する。僕は曇りガラスの扉に映った、不鮮明な女性の体に目が釘付けだった。
「ノアさん。一つ質問していいですか?」
「何?」
「ノアさんはああいう同人誌を作って、楽しいですか?」
ずっと気になっていたことだ。スポンジを擦る音は止み、しばらく沈黙が流れた。シャワーが出る音がいつまでも聞こえる。
「君、私が作った本は読んだことある?」
「……初めて会った、あの本屋で少しだけ読みました」
「どうだった?」
「どうって、あまりああいう本を読んだことが無かったので……」
「ひどいと思った? キャラクターに対して」
「……いや」
「また嘘ついた」
スポンジを擦る音が再び聞こえる。
「遠慮しなくていい。色々な人に言われているから。『なんであのキャラをあんな目にあわせたんだ』とか、『かわいそうだ』とか。『人間じゃない』って言われたこともあった」
「じゃあ、なんで描き続けるんですか? そんなにその種の本が売れるんですか?」
「いや、売り上げは関係ない。ただ、私が好きだから。キャラがレイプされたり、泣いて悲しんでいる様子がとっても好きなの。原作で偉そうにしていたキャラが同人誌でひどい目に遭っているとドキドキする。見てはいけないものを見ているようで、そういう姿を見ていると、そのキャラのことがアニメを見ていた時よりも好きになっていたりする。そのキャラの気が付くことができなかった美しい一面を新たに目撃したような感じ。だからそういう二次創作の作品を沢山買っているうちに自分でも描きたくなって、今、同人活動をしている」
何を言えばいいのかわからなくなり、黙っていると「幻滅した?」とノアさんがやけに明るい声で聞いてきた。
「……正直に言って、理解できません。僕はキャラが苦しむ姿が苦手ですし」
「……そう。まぁ、普通はそうだよね」
「でも、……ノアさんは凄いと思います」
「え?」
僕は正直に思ったことを話す。
「お金儲けの目的じゃなくて、ただ純粋に好きという気持ち一つで漫画を描いているから。僕だったら他人が作った作品を楽しんで、それで十分に満足してしまう。そんな情熱を持って描くことはできません」
ノアさんは身動きをとらず、黙ったままだった。
「やっぱり、漫画を描けるって凄いですよね」
「……何言い出すの」
「だって僕、漫画家に憧れていたけど、キャラの立ち絵一つ描けないし、ストーリーも何も浮かばない」
「急にほめないで、気持ち悪い」
「ワー凄い凄い」
「雑になってるよ。まったく、午後は絶対君に一眼レフを持たせてやる」
「重さ罰ゲームになっていませんよ。ノアさんやっぱり、一眼レフ無理してたんじゃないですか」
「うるせっ」
僕は思わず笑った。曇りガラスの向こうから、ノアさんの笑い声が聞こえた。
「……じゃあ、僕、リビングで待ってますから」
部屋を出ようとしたその時、曇りガラスの戸が開いた。
裸のノアさんが立っていた。
熱気が一気になだれ込んでくる。
ノアさんの目からは、涙が流れていた。
「……ちょ、ちょっと!! ノアさん!!」
僕は反射的に体ごとノアさんとは真反対の方を向き、目を瞑る。しかし、ノアさんの体はしっかりと目に焼き付けられてしまったようで、目を閉じてもぼんやりとノアさんの裸の残像が見えた。
ノアさんは濡れた体のまま、僕に近づく。
「ノ、ノアさん、何を」
体が動かなかった。
後ろから、僕の体にノアさんが抱き着いてくる。ノアさんの体は燃えるように熱く、とても柔らかかった。僕の体に直接、ノアさんの体についている水滴が付く。
「時々、夢に出てくるんだ」
ノアさんが小さくつぶやく。
「……何が」
「私が同人誌で扱ったキャラクター。夢にそのキャラクターが現れて、ただ私のことを睨んでくるの。何かを言うわけでもない。ただじっと、憎悪に満ちた目で私のことを睨む。それだけじゃなくて、そのキャラクターの恋人だったり、両親や友達が現れたときもあった。皆が私のことを睨む。睨まれているうちに私はこう言う。『ごめんなさい。あんな目に合わせてごめんなさい』って、泣きながら。そうして目が覚めると、私は泣いている。もうやめようって何度も思った。もう描きたくないって。でも、やっぱりやめることはできない。頭の中でわかっても、やめることができないの。私にできることは、ただ心の中で謝りながら描くことだけ」
そうか。そこでわかった。どうしてあそこまで店員に怒っていたのか。
彼女は自分の作品で悲しむ人をなんとか少なくしようとしていたんだ。
僕は目を開き、後ろを振り返る。ノアさんの体は病的に痩せており、背中に浮き上がった背骨が妙に目に付いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
何回もそう呟いた。ぽろぽろと、ノアさんの目から涙が出てくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ノアさんの抱きしめる力が次第に強くなっていった。




