第一話 出会い
天井から何本も吊るされている埃を被った蛍光灯や、グーンと獣がうなるような音を出す自動販売機の光が僕の影を作り出す。影は様々な方向から放射される光によって何重にも重なり、乱雑に透かし絵を重ねたように見えた。
地面に僕の体のシルエットが何体も現れ、僕が動くたびに影も連動して動く。何人もの僕がいるみたいだ。
そんな影を作り出す光の中に太陽の光は無かった。そのため、影から昼間のときのような威厳を感じることができず、どこか頼りない。しかし、むしろそれが僕の身の丈にあっているような気がする。
僕はため息をつき、視線を影から手元のスマホに移す。
スマホの画面にデジタル時計が映し出され、深夜一時二十八分を表示していた。
あと二分で始まる。僕はワクワクする気持ちを抑えることができず、自然と口角が上がり、しまりのない顔になる。
冬の駅のホームは静かで、音が響きやすい。僕の隣に座っているくたびれたサラリーマンが僕の荒い鼻息に気が付き、気持ち悪いものを見るような目で僕を見て、そして舌打ちをする。唾液が爆ぜた、攻撃的な音が耳に入ってくる。
ああ、本当にこのサラリーマンは可哀そうだ。
この人は僕が感じているような奇跡にも近い幸福を感じることができずに、一生を終えてしまうんだ。
仕事でくたびれ、つまらない飲み会でストレスを発散し、家に帰っても対した娯楽もなく、このまま死ぬのかと不安を抱え、その不安を打ち消すためにさらにアルコールを体に入れ、そして気絶するように眠っていくんだ。
僕は違う。
僕には信じることができるものが存在する。
たとえ今の生活がどんなにひどいものでも、それらをすべてチャラにすることができるものを知っている。
ベンチに座っている僕とサラリーマン以外、他に誰もいない。最終列車の時刻も近づいている。
……今日は本当に疲れた。
朝から駅のホームはたくさんの人でごった返し、多くのため息に囲まれたまま不快な金属音を放つ電車に乗り込み、その後、騒ぐことしか知らない馬鹿たちがうじゃうじゃいる高校に登校し、眠気を誘っているかのような話し方をする教師たちの授業を受け、六限目を終えたあと、部活に所属していない僕は座って授業を受けていただけなのにとても疲労困憊しており、そんな体でコンビニのバイトへ向かい、頭がおかしいお客様、セックスをすることしか考えていないバイト仲間、バイトの女の子をねらっているスケベでクズ野郎の店長に囲まれながら勤労にいそしみ、シフトチェンジの時間になってやっと帰れると思ったら「人が足りないから、深夜も入ってくれ。本当は法律で未成年は深夜だめなんだけど、君が黙ってくれればいいよね」と店長がほざきやがり、しかし店長に対して断る勇気もなく、仕方なく残業し、やっとの思いでバイトを終え、ボロボロになった体で駅に向かい、人がまばらな電車に乗り、最寄り駅で降りる。
完全にブラックバイトだよなとか、高校生で過労死するんじゃないのかとか色々ネガティブなことを考えていたが、それでも内心どこかほっとしていた。
よかった、この時間に間に合って。
家に帰る時間はなかった。今の時間から歩いて家へ帰ると、見逃してしまう。
僕はスマホにワイヤレスイヤホンを接続し、イヤホンを自分の両耳に装着し、ノイズキャンセリングを入れる。周りの音が消える。
これで準備完了。あとは放送時間を待つのみ。
そして時刻は深夜一時半。いよいよ、あのアニメの放送が始まる。
上空から彼女らが守る都市の風景が映し出され、音楽が鳴り始める。鋭いギターの音色と、けたたましく歌う女子ボーカル。
そしてそこに表示されるタイトル。
『サイキックズ』。
カメラは上空から急降下し、高層ビルの上に立つ彼女らを一人ずつ映していく。
彼女らは僕と同じくらいの歳で、少し短いスカートの戦闘服を着ている。戦闘服は白を基調とし、カジュアルな軍服のようなデザインで各キャラクターのイメージ色がそれぞれの戦闘服にちりばめられている。腕や腰には何らかの装備が入ったホルスターが取り付けられており、登山靴のようにいかついブーツを履いている。
橙色が散りばめられた戦闘服。四人の中で一番背が高く、ショートカットの金髪。カメラに向かって微笑んでいる主人公の木野夕夏。
緑色の戦闘服。背が低く、おどおどとした態度で周りを見渡している九里マヤ。
青色の戦闘服。眼鏡をかけ、一つの誤算も許さないような冷たいまなざしを手元のタブレットに向けている副班長の伊勢はじめ。
黄色の戦闘服。世の中のことが全てめんどくさいという気だるげな目で都市を見下ろす班長の西条瑠璃子。
それぞれ担当する声優の名前と共に、彼女たちの名前が背景に大きく表示される。
そしてオープニングは彼女らが属している組織の地下施設の様子、彼女たちの共同生活の点描、不敵な笑みを向けくる敵たち、彼女らが敵と戦うシーンをテンポよく映し出していく。
瑠璃子はテレパシーを使ってチームに指示を送り、はじめはテレポーテーションで仲間を助け、マヤはパイロキネシスで敵を火あぶりにし、夕夏はサイコキネシスで破壊されたビルの瓦礫を持ち上げ、大勢の敵を蹴散らしていく。
政府は超能力者を集め、育成、訓練し、敵組織『メビウス』に勝利するためにいくつかのチームを作った。その一つが主人公が属する『B班』。
この『サイキックズ』というアニメは『B班』の活躍、そして彼女らの共同生活を追っていったオリジナルアニメだ。現在、二期を放送中。
一期放送時、先の読めない展開と迫力あるアクションシーン、そしてB班内でのチームメイト同士の絆が話題になり、放送終了後、すぐに二期の制作が発表された。
そして今現在、第九話。迫力満点のアクションシーンは一期から変わらず、B班内での絆もより一層色濃く描写され、各キャラの好感度も十分に高い。現時点でアニメ年間ベストとしてこの作品を上げる人も少なくない。
オープニングが終わり、本編が始まる。組織の施設内で共同生活を送っている彼女たちの日常パートだ。
白い壁、白い床、白い机、白い椅子と、地下であることを視覚的に忘れさせようとし、逆に閉塞感を感じるB班の共有スペースには壁に埋め込まれた取り出し口があり、そこからベージュ色のトレーが出てくる。トレーには白飯に具無し味噌汁、水が入ったコップがあり、メインとなるおかずの位置には灰色のはんぺんのようなものが一枚あるだけだ。
夕夏はそのトレーをつまらなさそうに受け取り、トレーの上にある夜ご飯を眺める。大きなため息をつき、部屋の中央に置かれた大きな円卓へ向かう。
円卓には既にB班の皆が着席し、食事を始めている。
夕夏は着席し、食事に手を付けず、班の皆を見渡す。
黙々とただ機械的に口に食材を運んでいくはじめ、気だるい目で人より多く盛られた夜ご飯を眺め、リスのように口にできるだけ多くのご飯を詰め込み、咀嚼する瑠璃子。お米一粒ずつ検品していくようにゆっくりと食べているマヤ。
彼女らを眺めていた夕夏は「あー」と力が抜けるような声を出し、机に突っ伏す。
「……何」
瑠璃子が最後に残った白飯を口に放り込みながら夕夏に聞く。
夕夏はゆっくりとした動作で机から顔を引き剥がし、ぶっすとした表情を皆に向ける。
「みんなひどい! 昨日の出動の後、私を除け者にしてあのラーメン屋さんに行くなんて!」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって!」
「だって実際そうじゃん」
ゴクンッと大きな一口を飲み込む瑠璃子。
「違うよ! 由々しき事態だよ! 世紀の大事件! 天変地異! 緊急対策会議をすぐに開くべきだよ!」
「はあ、そうかそうか」
「ちょっと瑠璃子さん! 簡単に流せる話題じゃないの! 私、あのラーメンが食べることができるから、ここの愛情も油分もへったくれもない食事に我慢できているのに!」
「そんなこと言うな。作ってくれた作業ロボットに謝って」
「ううー……」
夕夏は再び机に突っ伏してしまう。
静かに食事をしていたはじめは空になった食器の前に手を合わせ、小さくごちそうさまでしたと言い、「でも夕夏、あなたあの時、怪我して組織の救護車に乗せられていたんだから、しょうがないでしょ」と、正論を静かにぶつけていく。作中、この正論に何人の人が泣きを見たことか。
夕夏は顔を上げ。反論しようとしたが反論の言葉が思い浮かばず、再び顔を突っ伏してしまう。
「ならその時、救護車を吹き飛ばして私をラーメン屋に連れて行ってよ……」
「えーめんどくさい……」
食べ終わった瑠璃子も机に突っ伏す。
「倫理的に止めないんだ……あー! 私の中で最高に高まったラーメン欲をどう発散すればいいの! この施設内で今すぐラーメンを召喚できる能力者を探す旅に出かければいいの!?」
蚊帳の外で会話を聞いていたマヤは小さく手を挙げ、震えた声で話す。
「あの……確か食堂に、C班が組織に内緒で持ち込んだインスタントラーメンが何個か残っていましたよ」
「ほんと!?」
一気に目を輝かし、グイッとマヤに顔を近づける夕夏。
マヤは夕夏の迫力に押され、「……はい」と、より小さな声で返事をする。
その一言を聞き、ガタガタッ!っと勢いよく立ち上がる夕夏と瑠璃子。
「……なんで瑠璃子さんが立つの」
「お前の話を聞いたら、ラーメンの気分になった」
「……瑠璃子さん。あなた、人よりも倍以上食べるの自覚していますか?」
真剣な面持ちで夕夏の話を聞く瑠璃子。
「あなたが食べたら、私の分のインスタントラーメン、無くなっちゃいますよ」
「……次の出動の時はちゃんとラーメン屋に連れて行くから。今回はあきらめたら」
じっと見つめ合う二人。西部劇での決闘シーンさながらの緊張感。そんな二人を心配そうに見守るマヤと、興味なさそうにコップに入った水を飲むはじめ。
瑠璃子が勢いよく飛び出す。
「あ、ちょっと!!」
遅れて夕夏も飛び出す。二人は廊下に出るドアの前でどちらが先に扉をくぐるのか、おしくらまんじゅうのように体をぶつけ合う。
「瑠璃子さん、先輩でしょ。ここは後輩に譲るべき!」
「先輩には敬意を払うべきだよ」
ギャーギャー言い合いながら、二人は食堂へと走っていく。共有スペースは嵐が去ったように静かになる。
「……確かに、ここの食事は栄養満点なのは良いけど、食事をしたという満足感はいささか蔑ろにしすぎよね」
はじめが取り出し口にトレーを戻し、独り言のように話す。
「……はじめさん?」
はじめは何かを企むような笑顔でマヤに手を差し伸べる。
「私たちも行きましょっか。たまのカロリーオーバーもいいでしょう。ほら、早くしないとあの野蛮人二人に全部食べられてしまうよ」
「でも、今から行っても……あ、もしかして」
はじめはうなずく。
「ほんとはこの施設内はダメなんですけど、これもたまにはいいでしょう」
「……そうですね」
マヤは嬉しそうにはじめの手を取る。
二人は、はじめのテレポーテーション能力で食堂にひとっ飛び。
僕は生きるか死ぬかの戦いをしている彼女たちの日常をのぞき込むことができ、とても楽しい。このようなシーンがあるからこそ、戦闘シーンでのギャップや彼女たちのキャラクターをより好きになることができるものだ。
その後、CMを挟み、敵との戦闘シーンが始まる。今回は未来予知をすることができる敵との戦いだ。
動きを予知され、防戦一方のB班。都市は破壊され、彼女たちの周囲には瓦礫が大量に転がっている。逃げ惑う市民の人たち。怪我をした母親をどうすることもできず、泣きじゃくる幼い男の子。
夕夏は男の子と目が合う。
口に出さずとも通じる。男の子はB班の皆に助けを求めている。
夕夏は男の子に向かって優しく語り掛ける。
「……うん。もちろん。私たちは君も君のお母さんも、必ず助ける! それが私たちの使命だから!」
背景で流れているBGMが盛り上がってくる。勝利確定の盛り上がり方だ。
夕夏たちは各々の能力を百パーセント出力し、敵に突っ込んでいく。
戦いながら、B班全員のモノローグが流れ始める。BGMは最高潮に達する。
「私はここで妨害するから、皆は直接あの敵を!」
テレパシーで敵の思考を妨害しながら、班の皆を鼓舞する瑠璃子。
「怪我した人を、もう見たくない! だから、ここら辺で倒されちゃってください!」
パイロキネシスで敵周辺を火の海にし、動きを封じるマヤ。
「もっと速く! もっと素早く! 光のように! 光を超えるほどに!」
テレポーテーションで夕夏を敵の元へ運び込むはじめ。
はじめと夕夏は火の海の中にある小さな隙間を縫い、敵の懐に入る。
「私たちB班の名誉にかけて! そして、ここに住んでいる人達たちのために! あなたを倒す! 未来の運命なんか、私の力で越えてみせる!」
サイコキネシスで浮かせた数百という瓦礫を一気に敵にぶつける。
止める手段など、まったく無い。敵は成す術無く、全身で攻撃を受ける。
煙が立ち込める。周囲が見えない。
結果はどうなった? B班の三人と男の子は心配している表情で煙が晴れるのを待つ。
誰かが瓦礫の中から立ち上がる。
短く切り揃えられた髪が夕日に照らされ、金色に光る。
間違いない。彼女の勝利だ。夕夏の大勝利だ。
男の子は神様を見るように、夕夏を眺める。
夕日に照らされた彼女は神々しく、破壊神のような力強さも感じるが、可愛い見た目をした女の子というアンバランスさが程よく効いている。
本編は夕夏に見惚れる男の子のアップで終わった。
この男の子は僕たち視聴者だ。
僕たち、いや、僕は彼女たちに救われている。
このアニメを観ていると、先ほどまで僕の周りに確かに存在した、あの忌まわしき現実を一切合切忘れることができる。このアニメに僕自身が守られているような気持ちになってくる。
それと同時に、僕はアニメ『サイキックズ』主人公、木野夕夏に心奪われてしまう。
木野夕夏。きのゆうか。口に出しても素晴らしい。そんな素晴らしい名前を体現するがごとく、彼女の佇まい、態度、一挙動作すべてが美しい。芸術の範疇を超えている。
美しい金髪。むやみに長くせず、短く切り揃えられている髪型。小さな鼻。大きく、幼い子供のような純粋な瞳。すらっとした首、手首、足。程よく引き締まった体に優しく突き出ている胸。そして四人の中で一番高いその体。
それらを額縁のようにきらびやかに彩る戦闘服。
彼女の私服は普通の女の子のような短いズボンにTシャツという恰好だ。それもまた良い。班員総出での買い物回で見せたあのワンピース姿や、訓練時での競泳水着姿も素晴らしい。
見た目だけでなく、都市を守りたいという使命感やチームの皆を信じる心も見ていて思わず応援したくなる。
ああ、本当に綺麗だ。
いつまでも見ていられる。
その高貴さ、美しさ、可愛さ、幼さ、すべてが完璧に構成されている。
もう、僕は一生を夕夏に費やしてもいい。
彼女にはそこまでの魅力が詰まっている。
彼女の笑顔のためなら、なんだってできる。
敵との戦闘が終わり、エンディングが流れる。どこか悲し気なB班の彼女たちが映し出される。
ふと気が付くと、隣に座っていたサラリーマンが消えていた。重度のアニメオタクにおののき、どこかへ行ってしまったのか。我ながら、アニメに対しての集中度合に若干引く。
エンディング後の次回予告が終わり、次のアニメとの間にあるCMが流れる。現在放送しているアニメの円盤やらアニメイベントなどの宣伝が流れる。
僕はイヤホンを外し、それらを惰性で眺め、放送後の余韻に浸りながらこう思う。
今回も神回でした。
大満足です。
脳内ドーパミンが切れ始め、さて、そろそろ最終列車が到着しそうな時刻かなとスマホの表示時間を確認しようとしたその時、スマホの画面に妙な変化が起きていた。
CMが流れているはずのその画面は墨を垂らしたように画面全体が黒く、その中に一人、少女が背を向けて立っていた。
ん? なんだ?
少女は少し離れたところに立っており、親指くらいのサイズだ。
目を凝らし、よく見てみる。
この戦闘服に、この髪。このシルエット。
間違いない。夕夏だ。
夕夏が一人、こちらに背を向けて立っている。
なんだ、これ?
放送は終わっているはずなのに。僕が集めている夕夏の画像アルバムが勝手に開いたのか? でもこんな画像、身に覚えがない。
スマホが壊れた? いや、壊れたからって、こんなことにはならないはず。
その時、画面の中にいる夕夏が振り返り、こちらを見てきた。
動いた。画像じゃなくて、映像?
どういうことだ? 放送後のおまけ映像なのか? でも、そうじゃないなら……この映像は一体、なんなんだ?
距離が遠く、夕夏の表情がよく見えない。
しばらくの間、夕夏はこちらを見る。
そして突然、こちらに向かって走り出す。
どんどん夕夏が近づいて来る。
え、何。
スピードを上げ、速度がマックスになった瞬間、夕夏は大きく飛び上がり、こちら側に向かって飛び込んでくる。
次の瞬間。
スマホの画面から、夕夏が飛び出してきた。
「うわぁぁぁぁ!」
僕は思わず、情けない叫び声を上げる。
夕夏は飛び込んできたスピードのまま、僕に覆い被さるように激突する。
彼女の全体重が僕の体にのしかかって来る。そしてそこに夕夏が飛び込んできたときの勢いも加わり、ベンチの背もたれに僕の背中が容赦なくめり込む。
背中に強い衝撃が走る。
ベンチがギギッと鈍い音を出す。若干、背もたれが倒れたようにも感じた。
スマホは僕の手から離れ、地面に落ちる。
背中の痛みを感じながら、めまいがしてくる。
いつの間にか天井を見上げており、目の前にある蛍光灯がめまいで何本にも増えていく。
すぐにめまいは落ち着き、背中の痛みはより強烈なものとなってきた。
……何が起きたんだ?
体が異常に重い。
僕はスマホを眺めていて……それで……。
僕はゆっくりと顔を下げ、体の上に乗っている彼女を見る。
一番始めに目に飛び込んできたのは蛍光灯の光で輝いているショートカットの金髪だった。その下に白っぽい服が見え、僕の腰のあたりにスカートのようなものが見えた。
「痛たた……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、僕と目が合う。
この目、この鼻、この耳、間違いない。
夕夏だ。
夕夏が今、目の前にいる。
その顔も、その首も、その腕も、その足も、その戦闘服も、本来、二次元で構成されていたはずのそれらはそれぞれが三次元へと変化し、今、僕の目の前に存在している。
夕夏がスマホの画面から飛び出してきた。
これは夢なのか?
いやでも、確かな重みや感触を感じる。
背中の針を刺すような痛みも、リアルそのものだ。
僕と夕夏は数秒、お互いに目を合わせたままだった。僕は夕夏を驚きのまなざしで見つめ、夕夏もまた、僕のことを困惑のまなざしで見つめてきた。
目の前にある彼女の目は、美しかった。
ビー玉のように艶やかで、水滴のように輝いていて、この世の汚さなんて見たこともないほど純粋そのものだった。思わず、見惚れてしまう。
その時、夕夏が小さく息を吸った。
そして次の瞬間、夕夏は自らの体を浮き上がらせた。
起き上がらせたのではない。その場で大きくジャンプをし、体を浮き上がらせたのだ。
先ほどまで感じていた重力なんて無視するかのように、僕から自らの体を引き剥がして体を浮き上がらせ、ベンチの隣へと華麗に着地した。
そこで僕は自らの体が夕夏の方に引っ張られていることに気が付く。
首元を見ると、夕夏の右手が僕のシャツの首襟を掴んでいた。
夕夏は僕を思いっきり引っ張り、ベンチから僕を引き剥がし、地面へと叩き付けた。
あまりの動きの速さに、抵抗している暇はなかった。
気が付いた時にはすでに、僕は地面に倒れ込んでいた。
ベンチから引き剝がされた記憶はなく、地面にたたきつけられた僕の背中に痛みが遅れてやってくる。
「うッ……」
あまりの痛さに、うめき声が漏れる。
「……あ、ああ!」
夕夏は自ら僕の体を地面に叩きつけたのにも関わらず、慌てふためき、僕の方に駆け寄ってくる。
「ご、ごめんなさい! 目の前に顔があったからびっくりして思わず……。あの、だ、大丈夫?」
「た、たぶん……」
僕の顔の近くで両手を合わせ、「ごめん! 本当にごめん!!」と夕夏は何度も頭を下げてくる。
「……って、あれ?」
夕夏はやっと自分の置かれている状況に気が付いたのか、顔を上げ、周りを見渡す。
「ここ、どこ? ……あなたは誰?」
僕は背中の痛みに耐えながら、必死に呼吸をする。手足のしびれがだんだん引いてきて、言葉を何とか紡ぐことができるようになる。
「……○○県の△△駅のホーム。……名前は加賀太一。高校二年生。……君の方こそ、どうしてスマホから飛び出してきたんだ?」
「スマホ? 私が?」
僕は腕をゆっくり動かし、地面に落ちているスマホを指さす。
「……スマホでアニメを見終えたら、突然君が映って……それで君がスマホから飛び出してきたんだ」
「……いやいや、あんな小さな画面からなんて」
「じゃあ……あれも覚えていないの? スマホから飛び出る前に画面に向かって暗い空間から走ってきたところとか」
「……あ! 覚えてる! 施設に帰ろうとした時に突然、あの暗闇の空間に飛ばされて……じゃあ! あそこから見えていた小窓って、スマホのことだったの!」
「多分……そう」
夕夏はスマホを指さし「あれは、人をテレポーテーションできる装置?」と聞いてくる。
「いや、違う。ただのスマホ」
背中の痛みはだいぶ引いてきて、僕はゆっくりと立ち上がる。
改めて、夕夏を見る。
間違いなく、本物の夕夏。声も背丈も全く同じだ。
どうして、彼女がここにいるのだろうか。いや、というよりも、どうしてこの世界にいるのだろうか。
彼女は二次元キャラクターだから、ここにいるわけがない。でも、たしかに目の前に生きて立っている。
……僕は夢でも見ているのだろうか。それともいよいよ、幻覚が見始めてしまっているのだろうか。
「……あ、そういえば、私の名前をまだ教えてなかったね」
夕夏が僕の正面に立つ。僕よりも頭一つ高い。こうしてみると、本当に夕夏は背が高いんだな。
「私の名前は……」
「夕夏。木野夕夏……だよね」
「……え?」
夕夏は驚きを隠そうとしなかった。
この反応が、僕の心を確実なものとした。
彼女は木野夕夏。
僕がこの世で一番大好きなアニメキャラクターだ。
そんな彼女が、僕の世界に生きて立っている。